序章
一
錐《きり》のように鋭い西日が、神苑町《かみぞのちょう》全域を照らしている──九州は熊本市の郊 外に位置する一集落の隅々までを。
県内きっての温泉街として知られるその町は、そこかしこに足湯を設けていた。それは広く、県外の民にも認知されている人気スポットである。
足湯を利用するにあたって、料金はいらない。ゆえに、喫茶店代わりに利用する客の姿が散見された。
奥村塔子《おくむらとうこ》もまた、神苑町の住民の例に漏れず、足湯によく通っていた。
生まれてこのかた二十七年、塔子が足湯に入らなかった日はなかった。結婚生活に慣れてきたこの頃は、買い物帰りにちょくちょく立ち寄っている。
「ああ、ほぐれる……」
呟きながらサンダルを脱ぎ、素足になり、なみなみとたたえられた温かい湯に足先を浸す。こころよいぬくみが薄くなめらかな皮膚を通して、胸にまでじわりと染み入った。
初夏をとうに迎えたこの日も、客の入りは多かった。
木造りの屋根の下、年老いた婦人が仲間とお喋りをしている。学校帰りとおぼしき少年少女が、陽気に騒いでいる。作業服姿の青年が湯に足を浸しながら、スポーツ新聞を読んでいる。にこやかな表情を浮かべながら、若い男親と幼子がひっきりなしに会話をしている。
彼らの顔をこっそり眺めやったあと、塔子は知らず、ほのかな笑みを作った。毎度のことながら、不躾な客はここにはいない。
──平和だった。なにもかもが。
目の前の大通りを走る車たち、石塀の上であくびを噛み殺す三毛猫、広い歩道をゆっくり歩く初々しいカップル、買い物かごから長ネギをのぞかせては小走りに駆けていくエプロン姿の中年女性──町は文句なしに平和だった。
そもそも、神苑町はめったに事件事故の起こらない土地柄なのだ。殺人事件はおろか、交通事故も虐待事件も体罰も発生しない、きわめて穏やかな町なのである。
(都会の人からしたら、「退屈な田舎町」に映るんだろうけど……)
西風に後ろ髪をなびかせながら、塔子はぼんやり考える。
確かに、この町は平和だ。平和すぎて少し刺激が足りない。
けれど、「これが神苑の良さなんだよね」とも思う。心根の優しい人々と、素朴ながら味わい深い方言と、至るところに設置された足湯によって構成された美しい世界──それが神苑の魅力なのだ、と。
二
日が少し傾く。
すぐ傍に座っていた女子高生が、仲間の少女らに向かって言った。
「ねえ、ノストラダムスの大予言って的中すると思う?」
「さあね」
「わかんない」
「んー、なんとも言えないなあ」
少女たちがめいめい、要領の得ない返事をする。
「そうだよね。なんとも言えないよね」
話題を持ちかけた女子高生のまるい片頬に、柔いえくぼが一つ浮かんだ。
風が凪ぐ。
少女たちが別の話をし始める。
ノストラダムスの大予言。
その言葉に、塔子はひとり、胸騒ぎを覚えた。
一九九九年七の月──つまり、今月中になんらかの異変が世界を襲うと、もっぱらの噂だった。
テレビ番組のみならず、勤め先でも噂を耳にしたことが何度かある。
そのたびに、塔子は言いようのない不安にさいなまれた。
一九九九年、七の月。
噂は、平和で退屈な神苑の町をも侵食していた。予言に関心を持つ者はなにも、くだんの女子高生だけではなかったのである。
──しかし。
予言の内容そのものは、まったくの謎に包まれていた。
そもそも、原文の中身がやたら難解かつ抽象的なのだ。解読するにあたって、いかなふうにも解釈しうるのである。
(このまま、何も起こらなければいいのに)
指と指とを軽く絡め合わせつつ、塔子は西の空をぼうっと見つめる。
視線を送ったはるか先に、小烏の姿を一羽認めた。そのすぐ近くを、親鳥と思われる黒い鳥が飛んでいる。
寄り添い合うようにして空を横切る烏たちを見やりながら、塔子は、
「何も起こらなければいいのに」
と、心の中で繰り返し呟いた。
しかし、なぜだろう──予言の話を思うとなぜか胸が騒ぐのだ。ノストラダムスの話題を小耳に挟むたびに、「小さな頃から慣れ親しんできた平和がおびやかされるのではないか」という、獏たる憂いが顔を出すのである。
「馬鹿馬鹿しい」と切り捨てることができたなら、どんなにか良かっただろう。
「予言なんてでたらめだ」と言い切ることができたなら、どんなにか救われた心地になれただろう。
けれど、生じた不安は一向に消えず、むしろ日が経つにつれていや増していくばかりであった。
(……疲れてるのかな、私)
二羽の鳥から目を逸らし、胸のうちで呟きをこぼす。
そして。
深く思案する心を現実に引き戻したのは、さきほどの女子高生の、
「えっ……。あれ、なに?」
という、惑いに満ちた一声だった。
突然の大声に、一瞬、足湯の客全員が沈黙した。
通りを走る車のエンジン音が、やたら大きく耳に響く。
女子高生が大きな目をさらに見開きながら、
「あれ……、なんなの?」
と正面方向を指さした。
足湯に浸かっていた客たちが怪訝な顔つきで、彼女の示す方向を見る。塔子もそちらに目を移す。
──その数秒後のことだ。
「あれは、……なんだ!?」
幼子を抱く若い男親もまた、目を見開いた。
塔子も深い驚きに打たれ、思わず、
「えっ!?」
とひずんだ声を上げた。
パニックに陥ったのは何も、女子高生と若い男親と塔子のみではない。
客たちは一様に驚愕し、東の空に現れた「それ」を仰ぎ見た。
太陽が沈みゆく中、塔子らが目にしたもの。
とてつもなく平和な神苑町の上空に現れたもの。
「それ」は──、白く輝く巨大な球体であった。
直径五百メートルはあろうかと思われるその球体は、はるか遠い空に浮かんだまま、ゆるやかに自転している。
「なんだ、あれは……」
通りを歩いていた勤め人風の男が、空を見上げる。
「わからん……。あれはなんなんだ……?」
足湯と敷地をおなじくする公園で、杖をついた老人がひとりごちる。
球体は空にとどまったまま、ゆっくりと回り続けている。
塔子は強い不安を胸に覚えた。
ノストラダムスの大予言が語っていた「魔王」が、あの球体から生まれ出るのではないか──根拠のない恐怖が心にこびりついて離れない。
一九九九年七の月──熊本は神苑町の上空に、自転する球体が突如として出現した。
そしてその翌日、地球上から女性たちが消え去った。
そう、女性だけが。
ある日突然、一人残らず姿を消したのである……。
第一章
一
その人物が姿を現した途端、暖房の程よく効いた朝の教室内に、大きなどよめきが起こった。
それもそうだ。クラスメイトの注目を一身に集める「その人物」こと進藤深雪《しんどうみゆき》は、昨日まではれっきとした男性だったのから──。
しかし、高校指定のセーラー服を身にまとったいまの「彼」の体つきは、女性らしい丸みを帯びている。見るからにすべらかな白肌、黒々とした長いまつ毛、すっと通った細い鼻筋──間違いない、進藤深雪は一夜にして女性と化したのだ。
呆然と立ち尽くす級友たちを一瞥すると、彼、いや、彼女は言った。
「……おはよう」
仏頂面で挨拶する声は、鈴の音《ね》のように高い。
「え、嘘だろ……」
「まさか、お前……。女になったのかよ」
瞬間、進藤の丸いまなこに、厚い涙の膜が張った。
「なりたくてなったんじゃないよ!」
甲高いわめき声が響き、室内は一瞬にして静かになる。
「けど、いまのお前、どこからどう見ても女の子だぞ……?」
黒い学ランを着崩した少年が、ぼんやりとした口調で指摘した。けれど、それはなんの気休めにもならない。
「俺は……男だよ……」
あふれる涙を手の甲でぬぐいながら、進藤が頼りなく呟く。
級友たちが見守る中、自席に座ると、彼女は机に突っ伏し、
「俺は男なんだってば……!」
──狂ったように泣きじゃくった。
「仕方ないよ」
しばしの沈黙を破ったのは、明るい髪色をしたひとりの女生徒だった。
「進藤もさ、知ってるよね? 一九九九年七月に発生した『大罪厄《だいさいやく》』のこと」
返る声はない。
女生徒がゆるい笑みを浮かべながら、そっと語りかける。
「ある日突然、この星にいた女の人たちが、全員まとめて消えてしまって……」
「──そのあとに、男たちが女性化するようになったんだよね、確か」
別の女生徒が神妙な顔で言い継ぐ。
「そう。
生まれてから死ぬまで男性のままである完全男性体《アルファ》、成長次第では男性にも女性にもなりうる雌雄展開体《ベータ》、出生時は男性だけれどいずれ必ず女性化する絶対女性体《オメガ》にね、分かれたの。この星に棲むすべての男たちが」
「進藤も授業で習ったよね? ……地球上にいる男性のうちの八割以上が雌雄展開体《ベータ》だって……」
また別の少女の口から、労わるような響きがこぼれる。
暖房の作動音だけが、気まずい静寂を打ち消す。
「そんなの、知ってるよ……」
やがて涙にまみれた顔を上げ、進藤が女生徒らをにらんだ。
「たしかに、俺は雌雄展開体《ベータ》だよ! 男にも女にもなりうる性だって、三歳児検診で言われたよ! ……けど、」
──俺、男のままでいたかったよ……!
嗚咽まじりのか細い叫び声が、かたちの良い唇から放たれる。
いまや、室内は気詰まりな静けさでかたどられていた。
喘ぐように泣き伏す進藤に話しかける者は皆無だ。
二
だから、渡良瀬純《わたらせじゅん》は、へらりと笑って告げたのだ。
「進藤、そんなにしょげるなよ! おれなんて、絶対女性体《オメガ》なんだぜ!」
進藤が視線を移す。と同時に、級友たちの目も純に集まった。
「おれなんて検診ではっきり、『遠い未来か近い未来かわからないけれど、君は必ず女になる』って言われたんだけど」
「渡良瀬。そういえばお前は……」
言いさして、進藤が口を閉じた。その表情に少しだけ落ち着きが戻ったのを見て、純はにこりと笑う。
「うん。おれ、そのうち、女になるみたいなんだよな。けど、別に女になっても、おれはかまわないぜ。『女になったおれのおっぱいのサイズって、どれくらいかなー』って想像するとちょっと楽しくなるし。できれば巨乳がいいけど!」
「そういや、純、巨乳が好きだもんな」男子生徒のひとりが、くすくすとさざなみのような笑い声を立てる。
「うん! やっぱさー、どうせなるなら巨乳のかわいい子がいいよなー。ていうか、おれが性転換したら、炎のように真っ赤な髪を持ったショートカットの女の子になると思うけどさ」
「なんで、そこで嬉しそうな顔をするんだよ」
別の男子生徒の目に明るい光がともる。
「いや、どうせならさ、物事を前向きに捉えたいじゃん?」
「渡良瀬くん、ポジティブすぎだよ」
女生徒たちもまた、口許くちもとを軽くほころばせる。
と。
「どうして、笑いながら性転換の話ができるんだよ」
うつろな声が会話に混じった。進藤の声だった。
「渡良瀬は怖くないのかよ? いずれ女になるだなんて、そんな……」
「別に。怖くなんかないね」
きつい目でにらむ進藤に、純は快活な笑顔を向けた。
「なるもんはなるんだし、おびえていたって始まらないだろ。むやみやたらに怖がるぐらいなら、いっそ笑って女になったほうがいいじゃん?」
「純らしいや」
「無駄に明るいところが、な」
男子たちが楽しげに目を見交わす。
「進藤が『男であること』にこだわってるのは知ってたけど、もう女の子になっちゃったんだしさ。これからは、女の子としての人生を楽しめば……」
「楽しめばいいじゃん」と言い終えぬうちに、進藤が素早く言葉を挟んできた。
「渡良瀬。──お前はさだめを受け入れるのか?」
「え」
「『絶対女性体《オメガ》として生きるさだめを、受け入れることができるのか?』と聞いているんだよ」
「……」
「女になったら、男に抱かれ、愛され、欲情されるんだぞ! 性的な目で見られるんだぞ! お前が意識するにせよ、しないにせよ」
「……」
「俺はそんなの……、耐えられないよ……」
進藤が悲しげにまぶたを伏せる。気詰まりな静けさがいま一度、室内に復活する──、
──と思われた矢先のことだった。
「別にそういうの、あんまり気にならないけど?」
きょとんとした面持ちで、純は返事をした。
「え……」
進藤が気抜けした声を上げる。それにかまわず、純は、
「気にならないなー、おれは」
と笑いながら続けた。
壁掛け時計が指し示している時刻は、午前八時七分。予鈴までまだ少し時間がある。
「進藤は雌雄展開体《ベータ》だから、男として一生涯を過ごすことができたのかもしれないけど、おれは絶対女性体《オメガ》だから、どのみち女になっちゃうんだよな。だから、とりあえず、運命って奴を受け入れようと思っているよ」
「……」
進藤が純を見つめる。純もまた、進藤の目をまっすぐ見つめ返す。
「……渡良瀬は、」
「うん?」
「渡良瀬は女になる覚悟を決めているのか?」
「うん、まあ……、覚悟なんて大げさな考えは持っていないけど。だって、絶対女性体《オメガ》として生まれた男が女になる確率ってさ、百パーセントなんだもん。運命とか覚悟とかそんなもんなくたって、女になっちゃうんだからしょうがないじゃんか」
血色の良い頬に邪気ない笑みを乗せながら、戸惑いに揺らぐ進藤の目をさらに見つめ返す。
さよう。
純は知っているのだ──「男らしく」とか「女らしく」とか、そんな建前よりもまず、「自分らしく」生きることが大事なのだ、と。
三
恐れる必要なんてどこにもない。
女になるからって、それがどうしたというんだ。いまや、地球上で生きる人数の半数以上が、女性化した男で占められているじゃないか。
だったら──、
(だったら、おれは、「いずれ女になる自分の体」を前向きに受け入れるさ)
声に出さず、想いを深める。
「渡良瀬。お前って奴は……」
進藤が小声で何か言いさした。そのときだった。
がらり、と前方のドアが開いた。
ひとりの男子生徒が入室してくる。栗色の髪を肩までのばした、まぼろしのように美しい少年である。
「あ、原田くん。おはよう」
女子生徒のひとりが両頬を薄く赤らめながら、少年に話しかけた。
「うん、おはよう」
ゆったりとした動作で、少年が女子生徒に会釈をする。
ここ県立麗門高等学校《けんりつらいもんこうとうがっこう》一の美少年と噂される、原田親切《はらだちかのり》の登場であった。
「チカ、おはよう!」
肩ごと振り向きながら、純は声をかけた。
「あ、純、おはよう」
唇に柔らかな微笑を浮かべ、親切が挨拶を返す。
「原田……」
目尻から涙の粒をこぼしながら、進藤が名を呼んだ。と、それに反応した親切が、
「君、転校生? 見かけない顔だけど……」
と困惑顔で言い放つ。
「チカ。そいつ、転校生じゃないよ。うちのクラスの進藤深雪だ。今日から女になったそうなんだ」
純の説明を耳にした親切が、
「え……? そうなの?」
と裏返った声を上げる。そうして、まじまじと進藤の顔をのぞき込んでは、
「本当に進藤くんなの……?」
──困り顔はそのままに、疑問を口にのぼらせた。
進藤がこくりとうなずく。
すると、親切の表情が元の優しげなものに戻った。
「へえ……。結構かわいいね。僕、びっくりしちゃったよ」
「……かわいいって言うなよ」
進藤が目だけでなく、耳の先まで真っ赤にしながら言い返す。「俺はまだ、女になった自分のことを認めていないんだから……」
「けど、一度女性化した男性は、二度と元の性別に戻れないんだよね。伝え聞いた話によると」
親切の口調は、表情と同じく実に優しげだ。
「君は男である自分にかなりこだわっていたから、性転換した自分を拒んでいるんだろうけど……。でも受け入れることができたなら、きっと楽になれるよ」
級友たちは黙って、親切の言葉を聞いている。
四
「今はまだ女性になりたてだから、戸惑っているんだろうけどね……。その気持ちもわからなくはないかな。僕も雌雄展開体《ベータ》だから」
「チカが女の子になったら、きっと、すっげー美少女になると思うぜ」
純の声に、
「僕もそう思うよ」
親切が笑って同意する。
「とりあえず、皆、そろそろ席に着こうよ。予鈴がもうすぐ鳴っちゃうし」
「あー、うん。原田の言うとおりだな」
「そうだね。席に着いたほうがいいよね」
生徒らがきびきびした足取りで、それぞれの席へと散っていく。
その姿をひとしきり見届けたあとで、親切がおもむろに手提げカバンを開いた。そして、
「これ、使ってよ」
──しわのない空色のハンカチを、進藤の目の前に差し出した。
「僕、替えのハンカチ持っているから、返さなくていいよ」
今度は進藤が困惑する番だった。
「俺が女になったから、優しくしてくれるのか?」
「ううん。君が男だったとしても同じことをしたと思うな」親切は変わらずに笑んだままだ。
──しばしの見つめ合いのあと、根負けしたのは進藤のほうだった。
「しょうがないなあ……。受け取ってやるよ」
「うん、ありがとう」
親切の瞳は、変わらず、優しげな笑みに縁取られている。
「チカが予鈴ぎりぎりに来るなんて珍しいな。明日、空から槍でも降るかもな」
「実は、ちょっとしたアクシデントに見舞われてね」
「あくしでんと?」
「今朝、道端でコンタクトレンズを落とした女の人を見かけてね。それで、レンズ探すの手伝ったから遅くなったんだ」
「へえ……。お前、有言実行タイプなんだな」
なにを隠そう、親切の好きな言葉は「一日一善」なのである。
「凄く困っているかんじだったから、どうしても無視できなくてね。『遅刻するかも』と一瞬考えたけど、でも手伝わずにはいられなかったんだ」
人好きのする微笑みを顔全体であらわしながら、親切が言う。「こういうの、ただの偽善なのかもしれないけどね」
「いいじゃん、偽善でもなんでも」
純は、親切の肩を軽くたたいた。こづいたのではない。親愛の情を示したのである。
「純。僕たちも席に着こうよ。ね?」
「ああ、わかった」
そうして、二人はめいめいの席へと散らばった。
親切は教卓に程近い席へ。
純は窓際のいちばん後ろの席へ。
それぞれが足取り軽く移動を果たした。
まもなく、予鈴が鳴った。
今朝の神苑町はよく晴れている。
五
「終わったー!」
担任教師が教室を出ていった直後、純は自席にて大きくのびをした。授業から解放された嬉しさで、ひとりでに頬がゆるむ。
放課後に突入したためであろう、室内が一気に騒がしくなった。足早に去っていく者、教室に残って雑談を始める者、部活の準備に取りかかる者──一年二組の生徒たちが、各自の目的に向かって着実に動き出す。
純はすっかり上機嫌になった。調子っぱずれな鼻歌まで響かせる始末だ。
今日は、宿題の量がかなり少ない。小テストは先週終わったばかりだ。
(テストの点数、案外良かったし……。おこづかいの金額、上げてもらえるかもな)
厚みのないカバンに落書きだらけの教科書類を詰め込んで、颯爽と立ち上がる。
「小林さん、さよなら!」
隣席に座るおさげ髪の女子に声をかけたところ、
「バイバイ、純くん。また明日ね」
──女生徒が手を振りながら笑み返した。
「またな、純!」
「気をつけて帰れよ」
教室の後方に固まっていた男子生徒たちが、いつものように別れの挨拶をしてくる。
「ああ、またな! お前らも暗くなる前に帰れよ」
言って、純は教卓方面に足を向けた。寄せては返す人波を器用にすり抜けて、前へ前へと進んでいく。心持ち、大股で。一瞬のためらいもなく。
そうして、教卓の傍に差しかかったところで足を止め、
「チカ、行こうぜ」
相手の背後から呼びかけた。
用意がいいことに、親切はすでに荷物をまとめ終えていた。机の上にあるのは、小綺麗な通学カバンひとつきりである。
「うん、帰ろうか」
一度小さくうなずいてから、親切が席から立ち上がる。無駄な力みの一切ない、きわめて洗練されたしぐさであった。彼の身のこなしときたら、いつだって、名優のように優雅なのだ。
「純、さよなら」男子たちがはきはきと言う。
「原田くん、さようなら」女子たちが笑顔で言う。
混む教室を出たところで、純は親切のほうを振り返り、
「相変わらず、女子に人気だな」
苦笑を漏らした。
教室内と同じく、一年二組前の廊下も明るい賑わいを見せていた。すれちがう誰も彼もが、放課後のひとときを力いっぱい満喫している。
混雑をすり抜け、昇降口へと急ぐ。
一歩前進するたびに、好意のこもった視線を強く感じた。「自分に対するものではない」と心得ているから、あえて無視を決め込んだけれど──。
「今日も女子たち、チカの様子をうかがっているな」
「そうみたいだね」
「お前、ほんっとーに女子に人気あるよなあ」
「……まあね」
親切が相槌を打つ。
「うちのクラスにも、チカ狙いの奴多いもんな。あーあ、一度でいいからおれも女子にもててみたいぜ!」
六
「純は男子から好かれてるじゃない。僕は同性から人気あるほうがいいと思うけどな」
「駄目駄目。男からもてたって、ちっとも嬉しくないよ」
昇降口にたどり着く。そこは、溜め池のように広々としている。
上履きから靴に履き替えながら、純はなにげなく話を切り出した。
「そういや、進藤に渡したハンカチはどうなった?」
「返してもらってないよ。でも、『返さなくていいよ』と断りを入れておいたから、戻ってこなくても平気だけどね」
「そっか……」
実をいうと、純は授業終了後からずっと、進藤の姿を捜していた。朝の一件がどうにも気になってしまったためである。
なお、その進藤は朝のホームルームが終わったのと同時に、自宅に戻ったとの話だ。やはり、女性化したことが相当こたえているのかもしれない……。
「……進藤さ、まだ落ち込んでいるのかな」
口の中で呟くと、親切が、
「そうだね。かなり引きずっているのかもね」
──おもむろに遠い目をした。
錆の目立つ両開きの扉が、純の手によって開け放たれる。二人は無言で外に出る。
一陣の冷たい風が、地を覆う枯れ葉たちをわずかに舞い上がらせる。春の訪れは、まだ望めないようだ。
丈低い木々に囲まれた石畳の道を並んで歩く。肩と肩が触れ合いそうな距離はそのまま、二人の心の距離を暗に示している。
「進藤くん、男らしさとかにこだわっていたから、今回のことにショックを受けていると思うんだ」
首に巻いたチェック柄のマフラーを左手で押さえながら、親切が言った。気持ちの沈み具合を如実に反映した、暗くて硬い声だった。
「心配だなあ。僕でよければ力になってあげるのだけれど……」
親切の独白を聞いた純は、こっそり笑みを浮かべた。「ただのクラスメイト」である進藤にまで優しさを発揮する親友を見て、誇らしい思いを覚えたから。
「おれも今度あいつに会ったら声かけてみる。んで、なんとか元気づけてみるよ」
「そうだね。僕もそうする」
無言のときがやってくる。
二人して前を見据えながら、乾いた石畳を踏みしめるようにして歩く。
今日の空は宝石のように青々と澄んでいる。
さらに五分ほど歩いたところ、ようやく正門が見えてきた。
──と、
喧噪がぱたりと止んだ。
周囲を歩いていた生徒らが一斉に立ち止まり、純たちに目を注ぐ。彼ら彼女らの表情は驚いたふうに固まっている。
「なんだ?」
訝る心を率直に言葉に代えた瞬間、純はすぐ目の前に立つ存在に気づいた。
「あなたが渡良瀬純くんね」
白猫のように品良いなりをした女子生徒が、純に向かってにこりと微笑みかけてきた。
七
吹きすさぶ石畳の道に現れたその少女は、スミレ色の双眼を妖しげにたわめると、
「ふうん……。思ったよりかわいい顔をしているじゃない」
と吐き捨てるように呟いた。
彼女の視線は、純の眉間にぴたりと据すえられたままである。
「君は誰なの? うちの制服を着ているけど、どこのクラス?」
親切が口を挟んだところ、少女は数瞬の間大きくまばたいた。
「嘘。私のこと、知らないの?」
「ああ。……見たことない顔だな」純は答えた。
周りに立つ生徒たちの反応から察するに、彼女は校内でもよく知られた人物なのだろう。
(でも、おれ、この子のことなんて知らない……)
頭の中をいくら探っても、彼女に関する情報を得ることはとうとうできなかった。
「純。君、この人と知り合いなの?」
「いや……。思い当たりはまったくないけど。ていうか、こんな綺麗な子とお知り合いになった記憶はないなあ」
「私はあなたのことを知っているのよ、渡良瀬くん」
少女は純だけをしっかり見つめている。口許に可憐な笑みを刻んでは、
「私、あなたに興味を持っているの」
などと意味深な台詞を言う。
暖かに降り注ぐ日の光が少女の長い頭髪を──淡雪のように光るしろがね色の髪を、ひときわ強く輝かせた。
知らず、純はたじろいだ。凄みすら感じさせる彼女の美貌にひたすら圧倒されたのだ。
(ほんと、すっげえ綺麗な子だな……。チカといい勝負だ)
──と胸のうちで思ったそのとき、
(こんなふうに人間離れした容姿を持った人、おれはあと二人知っているぞ)
別の考えが脳裏に浮かんだ。
「私は時田奏《ときたかなで》。時田って呼んでちょうだい」少女が言った。
「どこのクラスに籍を置いているの?」親切が神妙な顔で問う。
すると時田は赤い唇を笑みのかたちに歪め、
「私? 一年十一組に在籍しているけど?」
気負いもてらいもない調子ですっぱりと言い切った。
「やっぱり……。オメガクラスの時田さんだ……」
いずこからか、低い呟き声が聞こえた。三人の周りにいる生徒たちのうちの誰かが、口を開いたのだろう。
オメガクラス。
その言葉を耳に感じた瞬間、純は思わず親切の顔を見た。目にした親友の表情は、氷のようにこわばっている。
県立麗門高等学校には、性転換を果たした絶対女性体《オメガ》のみを集めたクラスがある。それは神苑の住民のみならず、国民の多くに知られた事実であった。
「渡良瀬くん、あなたは知ってるかしら? 絶対女性体《オメガ》はね、ここ神苑町ではそう珍しくない存在なのよ」
にやりとほくそ笑みながら、時田が言った。
「神苑では絶対女性体《オメガ》が毎年のように誕生しているの。それは、町の上空に浮かぶレガリアの影響だと言われているわ」
時田が東の空を流し見た。
半ば反射的に、純は彼女の視線を追う。
青空の彼方に自転する白い球体がぽっかり浮かんでいる。全長五百メートルほどのその巨大な球体こそが、「レガリア」であった。
「一九九九年七月に起こった大罪厄《だいさいやく》は、あの物体の出現とともに始まったの」
「……知ってる。授業で習った。あの球体が現れた翌日、女の人だけが消えたんだって」低い声で純は言った。
「ええ。レガリアの出現を機に、数々の異変が世界を襲ったの。女性だけが神隠しに遭ったように消えてしまったこと。残された男性たちの一部が女性化するようになったこと。それから、──完全男性体《アルファ》になった男性たちが魔術の才に目覚めてしまったこと……」
──たとえば、渡良瀬くん、あなたの婚約者のようにね。
時田が言う。
「……」
ふふ、とけだるげな笑声を漏らす彼女の言葉を、純は無言で受け止めた。
空っ風が吹きわたり、どこへともなく消えていく。運動部のものらしき荒っぽいかけ声が、遠くから響いてくる。
八
「神苑町の天宮家《あまみやけ》といえば、江戸時代以前から繁栄している名家……。その天宮の分家の次男坊が、あなたの婚約者なのよね?」
「まあな」
スミレ色の瞳を見返しながら、純は短く返事をした。
天宮家は、地方に根づく一族でありながら、中央の政財界・官界・教育界・宗教界と深いつながりを持っている。ここ熊本に生活基盤を築いてはいるが、わが国の中枢部とも密接につながっているのである。
「天宮家ににらまれたら、熊本はもちろんのこと、日本ではまず生きていけない」というのが、世間一般における共通認識であった。
「渡良瀬くんは、六歳の頃、天宮家分家の次男・天宮月世《あまみやつきよ》と出逢った。そして、『花嫁修業』という名目で天宮家に引き取られたのよね?」
「……合ってるよ」
時田の発言はすべて事実に沿っていた。
もっとも、純みずから吹聴して回ったのではない。
天宮家は、「国内有数の大金持ち」という立場上、常に世間の耳目を集めている。ゆえに一族にまつわる噂話は、内容の真偽を問わず、巷に流れている。
当然のことながら、純に関連する噂も神苑の町に流出した。
他家の者でありながら、天宮家の世話になっている純は町外・市外、あるいは県外に出ぬかぎり、いやでも注目の的になりうる。わずか六歳かそこらで、十歳以上年上の月世と婚約したのだから、無理もないといえよう。
冷えた唇を固く閉ざし、時田と相対していたところ、彼女が笑みながら呟いた。
「……運命の、つがい」
──瞬間、
純の心に、さざなみが立った。
「なぜその言葉を……」
言って、スミレ色にきらめく瞳を見つめたまま黙り込む。
すぐ隣に立つ親切は、憂い顔で成り行きを見守っている。
三人を囲む生徒らは、その場から動こうとしない。──否、動けないのかもしれない。はたまた、時田奏のデモニッシュな振る舞いに魅入られているのかもしれない。果てなく浮世離れした佇まいに魅了されているのかもしれない……。
純は動揺した。
「運命のつがい」の件は、門外不出の話として、一族の者によって厳重に秘匿されていると信じ込んでいたから。
「この世に存在する完全男性体《アルファ》と絶対女性体《オメガ》の間にだけ、つがいとしての絆が生まれるの。……必ずしもすべての完全男性体《アルファ》と絶対女性体《オメガ》が、運命のつがいに出逢えるとは限らないけれど」
「……」
純は黙秘を続ける。
九
風の絶えた冬空の下、いびつな静寂が立ち現れる。運動部のものとおぼしき元気なかけ声が、ぴたりと止む。
「渡良瀬くんはわずか六歳にして、つがいとなるべき相手に──天宮月世に出逢ってしまった。そして、双方の二親の合意のもと、天宮家に引き取られたのよね」
「……」
純はさらに黙秘を続ける。
「天宮月世と渡良瀬くんは、仲の良いきょうだいのようにして育った。あなたは天宮月世を慕い、天宮月世は渡良瀬くんのことをとにかくかわいがった。それこそ本物の家族のように振る舞ったの。お互いにね……」
「うん……。そうだよ」
純はようやく声を発した。けれどそれ以上、言葉を続けることができない。
なぜ、まったくの部外者であるはずの時田が、一族の秘密を正確に把握しているのか──その理由がどうにも思い浮かばなかったからだ。
「でも二人の関係はもうすぐ変わるわ」
時田が予言めいた発言をした。
突然の展開に純は面食らう。
「なんでそんなことを言い切れるんだよ」
やっとの思いで問いを投げかけたところ、時田が得意げに言った。「あら。だって、私には視えるもの」
「なにが視えるの?」親切が穏やかな口調で質問をする。
レガリアは東の空でくるくる回り続けている。
「未来よ。近いうちに訪れるであろう未来が視えるの、私には」
控えめに育った胸をわずかに反らしながら、時田が言った。まるで、「そんな質問など私にとっては愚問に過ぎないわ」と言いたげに。スミレ色の双眸を物憂げに細めて。
「じゃあ……。じゃあ、おれと月世の関係が悪くなるとでも言うのかよ?」
純の声に時田が、
「──いいえ。逆よ」
きりりとした口ぶりで答える。
「むしろ、ものすごーく仲良くなるわ。他人が入り込む隙すらなくなるほどにね。だって、あなたたちは運命のつがいなんですもの。もとより深くつながり合 う運命にあるんですもの……」
沈黙のときが流れる。糸のように張りつめた沈黙が。
空気までもが冷たくこわばる。
──と、そのときだった。
「その話をするのはやめてもらえないだろうか」
深みのある美声が純の耳に届いた。
十
声の主は、時田奏の背後に音もなく現れた。
一同の視線がそちらに集中する──誰にも気づかれることなく、場にまぎれ込んでいたひとりの男のほうへと。
驚くほど姿勢のよいその男は、黒を基調とした野袴《のばかま》を端麗に着こなしていた。
年齢は、およそ二十代後半といったところか。闇色の麗しい髪と、涼しげな二重の瞳、白絹のようにきめの細かな肌──男の容貌は、妖艶なまでの美しさを醸していた。官能的とも呼べる造形美が、彼の外見《そとみ》にはあった。
「月世……」
純が名を呼ぶと、男はその整った唇に淡い微笑をあらわした。
「帰りが遅いから迎えに来た」
聴覚はおろか、脳髄までもを痺れさすような、劇的なまでに美々しい声だった。
彼こそが、純の婚約者にして完全男性体《アルファ》の天宮月世である。
身長百八十センチをゆうに超える美丈夫の出現に、男子たちは気圧され、女子たちは色めき立った。
喧噪が蘇る。
沈黙を守るのはいまや、純と親切と時田の三人のみである。
石畳の道に風がそよ吹く。
日はかげり、湖水のように青く透き通っていた空が少しずつ夕焼け色に染まっていく。
空を過ぎる鳥はない。一羽たりとて見当たらない。
やがて、婚約者の美しきおもてをちらりと一瞥すると、純は明るい声を放った。
「『帰りが遅い』って……。まだ、四時半にもなってないじゃないか。いちいちおおげさすぎるんだよ、月世は」
正直なところ、「助かった」と心の中で思った。「これ以上、運命のつがいの話はしたくない」と考えていたので。
「……」
時田はにこりともせず、月世の立ち姿を見つめている。天涯で瞬く月のように尊く気高いその姿を。
「月世は過保護すぎるんだよ」純は言った。
「おれ、こないだの誕生日で十六歳になったんだぜ? なのに門限は五時半のままだし……。毎日のようにお前が学校まで迎えに来るし」
「妻を守るのは夫の役目だ」
当然のように答えながら、月世が純のすぐ傍にまで歩み寄ってくる。悠然とした足取りで。物音ひとつ立てずに。
「帰るぞ」
「……ん。わかったよ」
ぶっきらぼうな物言いをうっかりしてしまったが、月世は表情ひとつ変えなかった。無言できびすを返しては、校門のほうへと戻ってゆく。
「あ、ま、待てよ!」
言って、純は慌てて親友へと声をかけた。「ごめん、チカ! おれ、帰るから!」
「うん。また明日」
ひらひらと右手を振りながら、親切が応える。先刻までの緊張した面持ちとは打って変わって、安らかな笑みを口許にひらめかせている。
「天宮月世……」
スミレ色の瞳をわずかに細めながら、時田奏は呟く。
けれど、その声が月世に届くことはない。
このときすでに、彼は純を従え、正門を抜けていたのだ。ゆえに、呼び声が当人の耳に入ることなど、絶対にありえなかったのである。
しかし時田はもう一度、
「天宮月世……。完全男性体《アルファ》でありながら、渡良瀬純を守護し続ける者……」
と小声で繰り返した。遠く離れた正門に冴え冴えと透くまなざしを向けては、
「天宮月世……」
と小さく呟いたのである。
石畳の道が鮮やかな陽光を受けて、鮮血のように赤く染まる。
東の空では、レガリアがゆるやかに自転している。
ほのかに発光する無機的な表面を夕日の色に染め上げながら、くるくると旋回し続けている──。
十一
この頃の純の関心事といえば、
「果たして月世には性欲があるのか?」
という一点に集中していた。
幼少の頃に天宮の屋敷に引き取られ、以来、月世にかわいがられてきたけれど、彼の口から性的な話題を聞かされたことは、いまだかつて一度もなかったのである。
むしろ純の口からその手の話が飛び出すと、月世は顔を曇らせる。
「男なんだから、えっちなことを喋ってもいいじゃん」
唇を尖らせて訴えても、
「お前はいずれ、女になるのだから……」
と眉をひそめるばかりで、一向に性に関する話は言わない。言おうともしない。
月世だって男なんだから、夜のおかずのひとつや二つや三つや四つは持っているはず──、
──と、純は考えているのだが、月世の「おかず」の中身はついにわからずじまいであった。
「ハルさんはノリノリでえっちな話に付き合ってくれるのに……」
学校からの帰り道、町の一角に設けられている足湯に浸かりながら、隣に座る月世に非難のまなざしを向ける。
ちなみに、「ハルさん」とは、天宮家の長男にして月世の双子の兄にあたる人物である。いまはわけあって、屋敷を出てひとり暮らしをしているのだが、それはさておき。
「千晴《ちはる》なんかといっしょにするな。『あんな性欲魔人と同類扱いされた』と考えるだけで腹が立ってくる」
「えーっ、おんなじ外見をしているのに、そんなこと言う!? ハルさんは、おれにとって、エロの師匠みたいな存在なんだぜ? 西園寺《さいおんじ》まりあちゃんのビデオを最初に見せてくれたのだって、ハルさんだし……」
「西園寺まりあ」とは、純がこよなく愛するセクシー女優の名前である。「ロリロリな容姿とGカップのおっぱい」を武器に活躍する彼女は、クラスの男子の間でも高い人気を誇っている。
「つくづく思うのだが、千晴はお前に悪い影響を与えているようだな」
「うわ、そこまで言う!? おれはハルさんの振る舞いこそが普通だと思っているんだけど」
「だいたい、月世は潔癖すぎるんだよ」と続けたところ、当の月世の目に怒りの色が浮かんだ。
「……あ。怒った?」
思わず小声で尋ねる。
すると、彼は、はあ、と大きなため息をつき、周囲にいる足湯の客たちをちらりと見やった。
「人の目のあるところで、性的なことは喋るな。いらん注目を浴びる羽目になる」
「あ、ごめん……」
ここ神苑町において、「天宮の坊ちゃん」はちょっとした有名人である。そのへんをほっつき歩くだけでも、「月世様」「月世様」としきりに呼び止められるのだ。
そうして、「うちで獲れた作物です」という言葉をともに、地元の特産物である大根やトマトや晩白柚《ばんぺいゆ》を手渡されたり、「今日もお美しいですなあ、あなた様は」などと、親しげな調子で会話を持ちかけられたりするのである。
十二
足湯に入っているいま、月世に直接話しかけてくる者はいないが、彼の動きをちらちら覗き見している者ならば、そこかしこに見受けられた。
実際、女性客のほとんどは、月世の横顔を見て頬を赤くしていた。人並みはずれた美貌を持つ月世は、どこに行ってもなにをしても、女たちから好意的な視線を向けられるのだ。彼本人は、「そんなことはどうでもいい」と考えているそうなのだけれど。
「……純。ひとつ、話があるのだが」
「なになに?」
コンビニで買い与えられた肉まんを頬張りながら、純は隣に座す婚約者に体を向けた。
「その、西園寺まりあとやらのビデオを、自室に隠していたな?」
「えっ……。なんでそのこと知ってんの?」
──押し入れの奥深くに忍ばせておいたはずなのに。
唖然とする純に向かって、月世がぼそりと告げた。「あのビデオは俺がこの手で処分した」
ぽかんと大きく口を開け、間近にある美しい顔に目を寄越す。
そして、その一瞬後。
「えーっ! クラスメイトから借りたものだったのに! ひどいよ! 黙ってひとのものを処分するなんて!」
憤慨する純をあきれ顔で見下ろしながら、月世が嘆息する。「俺という婚約者がありながら、よその女に浮気をするのか。お前という奴は」
「それとこれとは話が別だよ! 確かにおれはそのうち女の子になる予定だけれど、いまはまだ男なんだからな! 定期的に自己処理しないと溜まっちゃうじゃん!」
「お前は俺の婚約者なんだぞ」と言われなくても、その自覚ならば充分に持っている。だからこそ、学校や家庭で問題を起こすような真似は一度もせずに来た。
自分がいずれ女性になることだって、きっちり心得ている。だから女の子とは一度も交際せずに来た。
──だけど。
「男っていうのはさ、どうしても溜まる生き物なんだから、自分で抜かなきゃいけないじゃん。おれにだって性欲はあるんだしさ」
見上げた先にある月世の顔がわずかに歪む。彼は、純が性的な話をする際、決まって苦い表情を浮かべるのである。
「今夜だって、まりあちゃんのビデオで抜こうと思っていたのに……。月世の馬鹿」
「すねるな」
「だって……。このままじゃ、おれ、欲求不満になっちゃう……」
東の空を見る。
そこにはレガリアの姿がある。地球最大の謎としてこの世に存在する、白い球体の姿が。
十三
「レガリアか」
月世の声が聞こえた。「すべての謎の根源だと噂される球体か……」
「あれって魔力の源らしいけど、ほんとなのかな」
白く光る球体から少しも目を逸らさずに、純は言った。
足湯と敷地を同じくする公園内では、幼い子どもたちが数名、鬼ごっこをして遊んでいる。高らかな笑い声を休むことなく響かせては、元気に駆けずりまわり、見る者の目を楽しませている。
「俺にはわからん」月世の声が重く響いた。
「ただ、あれが出現してから、世界各地に魔術師が生まれるようになった。それは動かしようのない事実だ」
「この世界にいる完全男性体《アルファ》たちは必ず魔力を持って生まれてくる……んだったっけ」
「そうだ」月世が言った。
公園のすぐ目の前に敷かれている幹線道路にて、派手なクラクションが一回鳴り響いた。どうやら横断歩道を右折する際、男子高校生の乗った自転車と衝突しかけたようだった。
「完全男性体《アルファ》はひとり残らず、生まれながらの魔術師としてこの世に生を受けるんだ。……ひとり残らず、な……」
「うん。それ、授業で習った」
薄い笑みを漏らしつつ、月世の言葉に応じる。その間も、目は、自転する不思議な球体の姿を捉えている。
「だから完全男性体《アルファ》たちは、選民階級《エリート》としてこの世に君臨しているんだよな。魔術を用いれば、この世の理なんて簡単にねじ曲げることができるから」
「ああ、そうだ。一九九九年七月以前までは、純粋な科学文明が築かれていたが、大罪厄の発生以降、魔術と科学による混合文明へと切り替わった。少数の魔術師が、多くの人民を統治する社会形態へと移行したんだ」
「……」
純は隣に座る婚約者へと視線を移した。そして我知らず、唾を飲み込んだ。
見るも妙なる美しさが、月世の全身を水のように満たしていた。
地球上の完全男性体《アルファ》たちは、ただのひとりの例外もなく、世にもまれな美貌を持っているのである。そう、ただのひとりの例外もなく──。
「……純?」
呼ばれて、純ははっと我に返った。
「あ……。う、うん。なに?」
動揺のあまり、発した声がひっくり返る。いまさら月世に見とれていただなんて、ばれたらとても恥ずかしい。
けれどその月世は、純の反応をさして気にしたふうでもなく、むしろいつものように表情を変えずにいるのだった。
肉まんにかじりつく。
足湯から客がひとり、またひとりいなくなる。
太陽が傾き、西日がいよいよ強くなった。
公園で遊んでいた子どもたちが、
「バイバイ」
「また明日」
と挨拶を交わしながら、敷地の隅へと駆けていく。
母親と思われる年配の女性たちが、公園の入り口で子どもたちを出迎える。
町は平和だった。レガリアをはるか上空にいただく神苑の町は、今日もつつがなく一日を終えようとしていた。
十四
「月世」
「なんだ」
「店を空けたままで大丈夫なのか?」
月世は個人経営の本屋「アドナイ書房」の店主なのである。
「なに、平気だ。店を訪ねる客はもとより少ないんだ。魔術書を扱える人間は珍しいからな……」
さよう。アドナイ書房で扱っている書物はすべて、普通の本でなく、それ自体特殊な力を秘めている「魔術書」なのだった。書に記されている文章を声に出して読むだけで、神秘がこの世に顕現するのである。
「魔術書を読めるのは、完全男性体《アルファ》および魔術の適性がある人間だけだ。一般人の目には、『なにも書かれていない、まったくの白紙』に映るんだ。だから、万引客は滅多に来ない」
落ち着きにあふれた声で、月世が言い足す。「それに、うちの店は会員制だ。あらかじめ会員証を作っておかないと、店内に入ることすらできないのさ」
「……月世は、」
「うん?」
「月世はもともと、法術局《ほうじゅつきょく》に内定していたんだろ?」
問うたところ、
「そうだな」
という、ごく短い返事が返ってきた。夜の闇のように静かな、──とても静かな声だった。
法術局とは、大罪厄後に設立された「超法規的措置を認められた専門機関」のことである。日本各地に支部が置かれ、日々、「魔術犯罪の撲滅」と「魔術師の育成および保護」に当たっているのだ。
完全男性体《アルファ》と魔術に適性のある人間のみが入局を許されているその組織に、かつて月世は内定していた。彼本人の口より聞かされたため、純はそのことを知っている。
「月世はおれの身を守るために、内定を蹴ったんだよな」
「……そうだな。『蹴った』と言うと、聞こえは悪いが」
「もったいないなあ。法術局って、すっげえエリートだけが入れるんだろ? 給料だってめちゃくちゃいいし、局員のみに認められた特権だっていろいろあるんだろ?」
月世は答えずにいる。
「もったいないなあ」
温かな湯を爪先でかき回しながら、純は呟いた。
「おれにさえ出逢わなければ、今頃、お前は法術局勤めのエリート様になっていたはずなのに……」
「後悔はしてないさ」月世がはにかむように笑いながら言った。
「局員にはほとんど休みがないと聞く。もしも入局していたら、好きな時に仕事場を離れ、お前を守ることができない。だから俺は誘いを断ったんだ」
「……」
純はひとしきり湯を足でかき回すと、
「もったいないな……」
──誰に聞かせるともなく、ひとりごちた。
表情の乏しさゆえか、月世はときどき、誤解を受けることがある。「怖い人」「「冷淡な人」「話しかけづらい人」と受け止められる場合があるのだ。
けれど、純は知っている。「月世の本性は見た目とは逆なんだ」と。
真に冷たい人間が、毎日片道三十分かけて、学校まで婚約者を迎えに行くはずがない。三食ごとに凝った手料理を振る舞うはずがない。なにより、エリートの代名詞たる法術局局員の座を捨てるはずがない──。
月世は優しい。
純に対しては、特に。
だから、と純は考える。「おれはちゃんと『女』になれるんだろうか」と。「女」として彼に添い遂げることができるのだろうか、と。
実のところ、「今のままの関係がずっと続けばいいのに」と思っている。年の離れたきょうだいのような、うっとりするほど居心地のいい関係が長く続けばいい。そう願っている。
(おれが女になったら、今の関係が一気に崩れそうで怖いんだ)
前向きな姿勢をとりえとしている純でも、女性化することに不安を感じているのだ。進藤を励ます手前、彼女の前では本音を語らなかったけれども。
でも、本当は恐れている。「女」としての自分に出合うことを。自分の肉体が変質してしまうことを。
「俺たちもそろそろ帰るか」
耳に入ってきた柔い声が、純の意識をうつつに戻す。
もうじき、神苑に夜がやってくる。
十五
県立麗門高等学校より徒歩で三十分ほど移動したところに、鬼流川《きりゅうがわ》という名の一級河川が流れている。よく手入れされた広い土手を有するその川を渡りきると、豪奢な日本家屋が隙間なく建ち並ぶ集落に出る。
一日を通して静寂に包まれているその場所は、無限に近い魔力を秘めていた。
完全男性体《アルファ》や魔術に適性のある人間(これを「適性者」という)は、もとより体内に魔力を保有してはいるが、術を使いすぎるとこれを切らしてしまう。よって、再び術を使用するには、消費した分の魔力を補充しなければならない。
魔力を補う方法は様々だ。
たとえば、他者の生命を体内に取り込む。
あるいは、食物から魔力を得る。
または、一定時間、睡眠を取る。
あるいは、土地に眠る魔力を吸い出し、これを吸収する──。
失われた魔力を補う方法は千差万別、実にバラエティに富んでいるのである。
なお天宮家の者は、生まれついた土地より魔力を吸い出すことで、力を補ってきた。霊格が段違いに高いその土地は、一般には「七吹《ななふき》」の名で知られている。
ちなみに、七吹は、県内でもっとも地価の高い高級住宅街としても有名である。
夜がすっかり深まった、午前零時。
母屋の二階にある自室にて、純は厚手の毛布にくるまりながら羊の数を数えていた。
今夜はやけに目が冴える。昼間、体育で汗を流したというのに、なぜか眠気が来ない。
「うう……。明日も朝早いのに……」
十畳ほどの畳敷きの部屋にてひとり、小さなうなり声を上げる。
しかし、それでも目が冴える。
「なんで眠れないんだろ……」
言いながら、純は仕方なく布団より起き上がった。スウェットの裾に手を突っ込み、腰のあたりをぼりぼり搔かきながら、窓外で瞬く星々をなんとなしに仰ぎ見る。
曇りなき窓の向こうでは、レガリアがゆるやかに回っている。惑星のように、あるいはミラーボールのように、その場でくるくる回り続けている。
季節は、真冬。
けれど暖房をつけているためか、寒さはほとんど感じない。
ほどよいぬくみが、い草の香る室内に充満している。まるで春のような暖気が、部屋いっぱいにあふれ返っているのだ。
「一度は、暖房を切って眠ろうとしたんだけどな……」
光熱費代を心配しての行動だった。
だがしかし、のちにそれを知った月世より、強い反対を受けた。
「金のことなら心配するな。お前に風邪を引かれたら、俺が困る」
というのが、そのときの彼の弁である。
回る球体を黙って見上げながら、純は思った。「早く大人になりたい」と。「大人になったら、月世のことを助けてあげられるんじゃないかな……」と。
年上の婚約者から一方的に守られているいまの状況を思うと、どうしても引け目を感じてしまう。十歳以上年の離れた相手を助ける方法なんて、およそ見当がつかないけれど、「大人になったら月世を支えきることができるんじゃないか」と考えている。
月世の負担になることを、純はひそかに恐れているのだ。
くるくる回るレガリアをじっと見つめる。
「そういや、あれって、ミサイルを使っても撃ち落とせなかったんだよな……」
夜の静けさの中に、泡さながらの儚い呟き声が吸い込まれていく。
実際、過去に国連軍や各国の軍隊が数十回ほど、「レガリア破壊作戦」を実施した。地球上に存在するあらゆる兵器を用いて、球体を破壊しようとした。
けれども、いかなる兵器も、レガリアに触れることさえできなかった。球体の周囲にはバリアのようなものが張りめぐらされていて、それが兵器による攻撃をことごとく阻んだのである。
そのレガリアを上空に迎えているためか、神苑町は膨大な魔力を有している。
ゆえに、町の経済を支える基盤のひとつに、魔術産業が数えられた。
十六
なお、魔術産業とは字義どおり、「魔術に関連する産業全般」のことを指す。
例としては、魔術を用いて依頼人の希望を叶える魔術探偵、ユーザーのニーズに合わせて、魔術師を適宜派遣する魔術師派遣会社、神秘の力で病を癒すまじない医などが、これに該当する。月世が経営している魔術書専門の書店も、魔術産業のうちに含まれる。
神苑はかつて、足湯と温泉の街としてその名を全国にとどろかせていた。けれど、いまは魔術産業が盛んな町として、日本のみならず全世界に存在を知らしめているのであった。
しばらくの間、回るレガリアを眺めたあと、純は遮光カーテンを閉めた。このまま夜更かしなどしたら、きっと、朝起きられなくなる。明日は休みでないのだからさっさと寝ないと──。
「……とりあえず、横になるか」
窓から離れ、布団へと足を向ける。
そのとき、
「……あ」
ふぬけた声が、口から飛び出た。書き物机の上に転がる緋色の指輪が、純の気をいたずらに引いたのだ。
無言で歩を進め、指輪を手にする。
と同時に、ある記憶が頭の中でかたちをなした。
それは、天宮月世に関する最初の記憶でもあった。
思い出す。
月の光のように甘やかで美しい、ひとつの過去を。
いまとなっては彼方に過ぎた思い出を。
神苑町のはるか南方、とてつもなく山深いところに、父方の祖父母の家があった。築四十年ほどの古い一軒家が、彼らの生活の場であった。
家の周辺には何もなかった。銀行もコンビニも警察もファミレスもなかった。バス停もなかった。学校もなかった。ゲームセンターも公園もなかった。
棚田の他にはなにもない、実に物寂しい場所であった。
けれど。
──純は、祖父母の家をとても好いていた。「おじいちゃんたちのおうちで、ずっとくらしたいな」とひそかに望んでいたほどだった。
幼き日の純は、祖父母の家と同じぐらい、家の近所を流れる小川のことも愛していた。
どうしてそこまで川に夢中になっていたのか、十六歳になったいまとなっては、まったく説明ができない。
だが、底の浅いその小川に確かに入れ上げていたのだ──六歳の頃の自分は。
透き通った水の流れを目にすると、幸せな気分になった。
川のせせらぎを眺めていると、不思議と心が温かくなった。
「小川がそこにある」と想像するだけで、尋常ならざる幸福感に見舞われた。
だから、六歳の誕生日を迎えたばかりのその日も、くだんの小川を見に行った。
そして、そこで──魔が差してしまった。
上流に存在するであろう水源を、この目で見てみたい──そう考えてしまったのである。
日頃から、両親と「ひとりで水源を見に行かない」と約束を交わしていた。祖父母からも、「ひとりで行ってはいけないよ」と注意を受けていた。
だが、兆した思いを捨てることなど、どうしてもできなかった。「この目で水源を見るまでは家に帰れない」と思った。
だから。
──上流に向かって、ひとりで歩き出した。「言いつけを破るのは悪いことだ」と理解してはいたのだが、募りゆく好奇心を抑えきれなかったのである。
そして、半日が過ぎ──、
純は迷子になった。
しかも運の悪いことに、雪がちらちら降り出した。さらには、風も吹きはじめた。
誰もいない暗闇の中、純は泣いた。木々の不気味なざわめきを耳で受け止めながら、ひとりきりで泣いた。
十七
夜が来た。
冷気漂う山中にて、純は大木の根元に座り込み、さらに泣いた。深い闇と冷えた空気に囲まれながら、おのれの軽率さを責めた。けれど、いくら泣いたところで助けは来ない。来るはずがない。
「……たすけて……」
涙まみれの顔をうつむけながら、純は、
「たすけて!」
と大声を上げた。だが、それは、誰の耳にも届きそうにない無力な叫びに過ぎなかった。
深まる暗闇のただなか、ひとりぼっちでうずくまり、家族の名を必死に連呼する。
「きっと、誰も助けに来ないだろう」と予感してはいたけれど、それでも家族の名を呼んだ。呼び続けた。
腹が減る。
しかし、空腹を解消するすべがない。
手足がかじかむ。
しかし、暖房器具などここにはない。
怖かった。──夜の訪れがとにかく怖かった。
いずこからか、犬のものと思われる野太い吠え声が聞こえてくると、たとえようのない恐怖を覚えた。
空は暗い。今夜は雲の層が厚すぎて、月が見えない。
寒い夜だった。
わびしい夜だった。
沈む心をかかえたまま、純は泣いた。泣きじゃくった。「泣いたところでどうにもならない」とわかっていても、泣かずにはいられなかった。
「おとうさん。おかあさん。おじいちゃん。おばあちゃん……、」
答える声はない。
「ぼく、どうなっちゃうんだろう……」
涙をぼろぼろこぼしながら、嘆き声を漏らした。
そのときだ。
「お前が渡良瀬純だな」
暗闇の奥から、着物を着た見知らぬ人物が現れた。背の高い、実に見目よい青年であった。
「だれ……?」
止まらぬ嗚咽に細い喉をひくつかせながら、純は尋ねる。
すると、青年は冷静な面持ちを少しも崩さぬまま、言った。
「俺は、天宮月世だ。ふもとの町にある親戚の家を訪ねていたところ、お前の話を偶然耳にしたからここに来た」
純は黙って、青年の次なる言葉を待った。
「お前のご両親も祖父母も顔を真っ青にしていた。『純がいなくなった!』と騒いでは、落ち着きなくあたりをうろうろしていた」
無感情な声が闇に響く。
「だから俺はお前を捜すことにしたんだ。魔術を使えば、おおよその位置を楽に割り出せるからな」
「じゃあ、おにいちゃんはあるふぁなの……?」
「そうだ」
青年がうなずいた。それから足音ひとつ立てず、純の元に歩み寄ってきては、
「帰るぞ」
そっと、右手を差し出してきた。
「あ、……うん。ありがとう、おにいちゃん……」
言って、純は青年の手に──静脈の浮いたほの白い手に、自分のそれを重ねようとした。
──と。
指と指が接触を果たした瞬間、
「うわーっ!」
火花のような、電流のような、いかづちのような、狂おしいほどに強烈な疼きを全身に覚えた。皮膚だけでなく、皮下で活動する筋肉までもを焼き切りそうな、とてつもなく暴力的な感覚を肌身に感じたのだ。
「……お前、いまのは……」
青年の顔に驚きの表情が浮かぶ。純もまた、突然の出来事に驚愕しながら、相手を見上げる。
やがて彼は真顔に戻ると、
「そうか」
と、ひとしきりうなずいた。それから、闇色の瞳で純の姿をやにわに捉えては、
「──お前が、俺の運命か」
締まった口許を小さくほころばせながら、一言呟いた。
粉雪が散るように舞う山の中、運命の輪は着実に回りはじめた。
けれども、幼き日の純は、まだ何も知らずにいたのである。
十八
ゆうべ味わった灼けつくような感覚は、二人が「運命のつがい」であることを示すなによりの証であった。
純がそれを知ったのは、憂鬱な一夜が過ぎてからのことだった。
「この世にいる完全男性体《アルファ》と絶対女性体《オメガ》は、時に絶対的な絆によって結ばれることがあるんだ」
祖父母宅のこぢんまりとした応接間にて、月世が純にそう告げた。
艶やかな灰色の着物を着た彼を、六歳の純は黙って見つめる。
「……うんめいのつがい? それってどういうことなの?」
湧き出た疑問をそのまま言葉に直す。
すると、月世が短く笑った。けれど、春風のように柔らかなその表情は五秒も続かなかった。
音のない部屋の中、真顔に戻った彼が口を開く。
「純。俺とお前の間には、特別な絆があるんだ。……ゆうべ互いの手に触れ合ったとき、電気のようなものすごい痺れが、体の中を駆け抜けただろう? つがいとして選ばれた同士がはじめて相手の体に触れ合ったとき、決まってああいう現象が起こるんだ」
「ふうん」
よくわからない。
……わからないけれど、この人はとても大事なことを言っているような気がする。
(それに、つきよさんは、ぼくのいのちをすくってくれたひとなんだ)
そんな良心的な人物が嘘をつくとは到底思えない。
「あ、あの……。天宮さん」
純の傍らに座っていた父親が、黒縁眼鏡を指で押し上げながら言った。
「うちの子があなた様のつがいだという話ですが……。本当なのでしょうか?」
父の声は震えている。
「確かに純は絶対女性体《オメガ》です。ですが、天宮さんのつがいだなんてまさか、そんな……」
彼の隣に座す母親もまた、震え声で思いを述べる。
「俺がこの子の相手では不服ですか?」
表情を少しも変えずに月世が言う。
「い、いいえ! 滅相もない!」父親が焦り顔で否定する。
「そうですよ。むしろ、天宮さんがうちの子のつがいだなんて、まことに恐れ多いです。だってこの子は笑顔と元気だけがとりえの、ごくごく普通の男の子なんですから……」
父親のみならず、母親の額にも汗の粒がたくさん浮いている。
「このへや、そんなにあついのかなあ?」と訝りながら、純は月世の目を見た。
「つきよさん」
「なんだ」
「ぼくはつきよさんのつがいなの?」
「ああ」
「どうして、きょう、うちにきたの?」
「お前を婚約者として迎えるためだ」
「こんやくってなんなの?」
「『生涯をともにする』という約束を、互いに交わすことだ」晴れやかな声で月世が言う。
「純。俺とお前は特別な絆で結ばれているんだ。他の誰も入り込めないような、絶対的な絆がな……」
純はきょとんとした面持ちで、月世の顔を見つめる。
「絆」という概念を理解するには、当時の純はあまりにも幼すぎたのだ。
十九
「純は、俺のことが嫌いか?」
首を振る。
「じゃあ、好きか?」
大きなうなずきを返す。
「だって、つきよさんは、ぼくをたすけてくれたひとだから」
それに、月世の手はとても温かかった。
家に戻るまでの間ずっと、ゆるい力で純の小さな手を握り続けてくれた。
あんな優しい手、他に知らない。
……あんな綺麗な手、他に知らない。
「では、俺の傍にいてくれるか?」
「どれくらい、いればいいの?」
「──ずっとだ」
「しぬまで?」
「ああ」
会話が途切れる。
すっかり恐縮しきった様子の両親とは対照的に、純は、とびっきりの明るい笑顔を月世に向けた。
「ずっと、つきよさんのそばにいればいいんだね?」
運命とか絆とかそんな難しい言葉を言われても、なんのことかさっぱりわからない。
けれど、「年の離れた兄のように優しいこの人の傍になら、いてあげてもいいかな」なんて、このとき思ってしまった。
だから、言った。「うん。ぼく、つきよさんのそばにいるよ。ずっといるよ」と。心をこめて丁寧に。
その言葉が自分の生きる道を大きく変えたのだと気づかぬままに。
「……」
書き物机の上に指輪を戻した──婚約の儀を迎えた際、月世の手より直接渡された緋色の指輪を。
「あの頃のおれって、恐いもの知らずだったんだなあ」
畳敷きの暗い部屋の中、ひとり、自嘲の笑みを浮かべる。
当時の自分は幼かった。幼すぎて、事の重大さを自覚できずにいた。「天宮月世の伴侶に選ばれたことで、自身の未来が大きく変化した」と知らずにいたのだ……。
「ちっちゃい頃のおれって、すっげえ無敵だったんだなー……」
ひそめた声で呟きを落としながら、布団の中にもぐり込む。
本当は、「いまだって無敵だよ」と胸を張りながら言いたい。
けれど、十六歳になったこの頃、得体の知れぬ恐怖を胸に抱くようになった。
たとえば、月世の婚約者としてどう振る舞っていけばいいのか、とか。
たとえば、女性化しても月世とうまく付き合っていけるだろうか、とか。
たとえば、女になった自分を彼は受け入れてくれるのか、とか。
ちょっと油断すると、余計な雑念が泉のようにとめどなくあふれ出てくる。「こんなことでぐるぐる悩むだなんて、おれらしくもないな」と考えてはいるけれど。
「まあ、悩んだところでどうにかなるものじゃないんだけど……」
横向きに寝ながら、またもか細い呟きを落とす。冷気を吸った足先を擦り合わせた瞬間、
「そういえば、」
と心の中で思った。
(そういえば、「朝目覚めたら女になっていた」というパターンがほとんどなんだっけ)
さよう。
女性化は、主に夜の間に起こるそうなのだ。
「……おれも朝起きたら女になっていたりするのかなあ」
性転換後の自分の姿だなんて、想像もつかないけれど。
「できれば、巨乳美少女がいいなあ……」
少しずつ少しずつ、しかし確実に夢の世界へと落ちながら、純は言葉を繰り続ける。
徐々にまぶたが重くなり、やがて静かに合わさっていく。
意識が完全に暗転するまで、さほど時間はかからない。
そんな気がした。
第二章
一
「純」
と呼ばれたような気がして、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。目覚めを迎えた直後のせいか、頭の中はやけにぼんやりしている。
だから完全に目が覚めきったあとも、自分の置かれている状況がうまく飲み込めなかった。
「ここは……?」
あたりを見回す。
そして今、自分のいる部屋が異様な造りをしていることに気づく。
なぜだろうか──天宮の屋敷の二階で眠りに落ちたはずなのに、なぜか窓のない密室に移動していた。部屋の真ん中にキングサイズほどの清潔なベッドが設置されていて、純はその上で目覚めたのである。
はるか上方《じょうほう》に通風口らしき空洞が見受けられるが、それ以外に部屋と外界をつなぐものがない。
とても奇妙な場所だった。その部屋には、外と中とを結ぶ扉すらなかった。
まばたきをする。
室内は、快適な温度を保っている。どうやら空調が適切に作動しているようだ。
起き上がる。
ぼやけていた意識が、ゆるやかな速度で覚醒していく。
──と、そこで、ちょっとした異状を悟った。
なんとなく。
なんとなくだが、体が微熱にさらされているような気がする。まるで、そう、自慰の最中に感じるようないやらしい熱を、腰の底に感じているのである。
「ゆうべ、おなにーしてから寝たっけ……?」
呟いて、純はさらなる異変に気づいた。
今発した自分の声が、まるで他人のもののように思えたのだ。少女めいた高い声が、耳に響いたのである。
「……まさか」
ごくりと唾を飲み下しながら、おそるおそる下に目をやる。
そして数秒が経過したのち、
「──嘘だろ」
純は絶句した。
自分の肉体がすっかり変質していたからだ。
純白の清楚なブラジャーに覆われた、瑞々しい乳房。
おなじく純白のショーツに隠された、突起物を失った陰部。
なまめかしい光沢を放つストッキングは、よく見ると、真白いガーターベルトにつながれている。
「おれ、こんなの履いて寝たっけ……?」
あまりにも蠱惑的な自身の姿に、深く戸惑った。女性性をことさらに強調する格好をしていることが、たまらなく恥ずかしい。
「こんなえっちな下着、誰が着せたんだ……?」
胸に手をやる。
てのひらに温かな重みが乗る。
揉んでみる。
少なくともEカップ以上はありそうなたわわな柔胸が、指の動きにともなって、ふにふにとかたちを変える。
「ん……っ」
ブラジャーの下で、じん、と乳首が疼いた。快感の疼きだと自分でもわかった。
「本物だ……」
胸に手をやったまま、前を見る。
二
──と。
いつしか、目の前に月世が座っていた。いつものように表情の乏しい彼は、やはりいつものように着物を着ていた。ただし、ふだん着る野袴《のばかま》でなく、なぜか寝間着に身を包んでいる。
嫌な予感がした。
四面の壁には扉がないし、通風口ははるか真上だ。
動悸が高鳴る。唇が乾く。
「つ、月世……」
声が震える。はじめて目にする彼の表情に、恐怖心を煽られる。
──怖かった。
窓も扉もない部屋の中、二人きりで向かい合うことが。
捕食者のまなざしで見つめられることが。
「怖い」と思った。「できるものなら、いますぐにでも逃げ出したい」と望んだ。
けれど体が動かない。
みずからの胸に右手を置いた体勢から、少しも動くことができない──。
「……純」
熱を含んだささやき声が聞こえる。月世が呼びかけてきたのだ。
「な、何……?」
素肌が汗ばんでいく様子をつぶさに感じ取りながら、返事をする。自身を射抜く強い眼光にさらなる恐怖を覚えたが、どうにか続きを声にした。
「あのさ。ここ、……どこ?」
月世は何も言わない。
「おれ、たぶん性転換したんだろうけど、なんでこういう恰好してんの?」
月世は何も言わない。
「な、なあ、教えてくれよ! 知ってる範囲でいいからさ……」
と。
あふれんばかりの獣性を両の瞳にたたえたまま、月世が言った。
「……怖いか?」
「えっ」
「『怖いのか?』と聞いている」
「……う。ま、まあ、そうといえばそうだけど……」
すると彼は純から目を逸らさぬまま、そろそろとにじり寄ってきた。その目はいまや欲望に濡れ、淫らがましくぎらついている。
ベッドがきしむ。
心臓が強く、拍を打つ。
体の底にこもる熱が、いたずらに胸を喘がせる。
逃げ出したいのはやまやまだったが、どうしても動けない。まるで見えない鎖で固定されているような心地がする。
当惑と恐怖、そして少しばかりの不安感が胸の中で混ざり合い、華奢な体を震わせた。
見つめ合う。
月世の声が響く──驚くほどに優しい声が。
「大丈夫だ。これから少し、気持ちのよいことをするだけだ」
柔い力で、震える肩ごと抱きしめられる。壊れ物を抱くように、そっと。
ふわりと香る官能的なにおいは、たしかに月世の体臭だ。
「あ……」
純は戸惑った。
言いたいことはたくさんあるのに、尋ねたいことだってたくさんあるのに、どうしても口が固まってしまう。「なにか喋らないといけない」とわきまえてはいるのだが、どうあがいても唇を動かすことすらできないのだ。
抱きすくめられたまま、数秒が経過する。
月世は身を離さない。離すどころか、ますます腕に力をこめてくる。
三
耳許に吐息が触れた。
背中を軽く一撫でされた。
たくましい胸と豊満な柔乳が密に接触した。
異様なまでに気持ちが昂った。
「あっ……!」
押し当てられた胸板が、下着の下で硬くなっていた乳首をやんわりと圧迫し、汗ばむ素肌を淫らに疼かせた。
「……感じたのか」
問う声に羞恥心を刺激され、純は顔を火照らせた。「これはまずい」と直感が訴えているのに、抱きしめてくる二つの腕を払いのけることすらできずにいる。
どうにもやりきれなくて、心持ち意識を遠くに飛ばしたところ、
「……っ、」
──総身が硬直した。
月世の手が、純の右手ごと胸肉をこねまわしはじめたのだ。
「いい反応だ……」
彼の声は濡れていた。目だけでなく声つきまでもが、おびただしい情欲にまみれていた。
「雌《おんな》の悦びを教えてやろう」
ふ、と耳に息を吹きかけながら、月世がささやいた。欲望をあらわにしたその声が、純の胸に巣食っていた恐怖心をいくらか削ぎ落とす。
なぜだろう。
こんな異常な状況下でも、彼の声を聞くとなぜか安心してしまう。その理由をうまく分析することはできないのだが、月世の声を耳にするだけで、なぜか心が落ち着きを取り戻すのである。
「あ……っ、」
目と目が合う。
温かな右腕が前触れもなくのびてくる。
腰ごと引き寄せられ、そのまま──唇を軽く塞がれた。
「んぅ……、……っ」
吐息が絡まる。
乱れた呼吸を整えるひますら許されなかった。
触れるだけの優しいキスがいつしか、吐息ごと屠るような激しいキスへと変わっていく。
「ふ……、ぁ……、……っ……」
ぬかるむ口内を舌で犯される。──隅々まで、丁寧に。
「んぁ……っ、……ぁ」
ぴちゃぴちゃと鳴る水音がやたら耳につく。
いつになく強引な月世に戸惑いを覚えながらも、純は夢中で愛撫に応えた。胸を揉みしだかれながら、口の中をいじられながら、滴る唾液をあまさず飲み込む。
なんの説明も与えられないまま、いやらしいことを強いられるなんて我慢ならない──はずだった。
なのに、それなのに、肌は勝手に熱を帯びた。うごめく舌にみずからの舌を重ねた。腰をわずかに揺らめかせては、月世の胸に自分のそれをしっかりとくっつけた。
それは、──はじめての発情だった。
女の体がはじめて知った淫楽でもあった。
くちゅ、と悩ましげな水音を立てながら、ゆっくりと唇が離れる。唾液の筋が男と女の唇をつなぎ、糸を引いては清いシーツに濡れ染みをなしてゆく。
はぁ……、はぁ……、とねじれた吐息をしきりに繰り出しながら、純は月世の腕にもたれかかった。もはや自分の体を支えるだけの力を失いつつあった。
月世は何も言わない。
不穏な光を瞳の奥に宿したまま、喘ぎを散らす純の体を抱きすくめている。時折、幼き婚約者の額や頬についばむようなくちづけを与えつつも、抱擁をやめずにいる──。
四
過ぎた快感に涙すら浮かべながら、純は思った。「今日の月世の雰囲気、なんかいつもと違う……」と。
彼が純に無理強いをしたことなどない。ただの一度もない。
なのに今日の月世は、突き上げる肉欲を純に教え込もうとしている。
こんなに激しい情熱が彼の中にあるなんて、今の今まで知らずにいた。何年もいっしょに暮らしてきたはずなのに──。
「ぁ……、は、……ぁ……っ」
息を吐く。
室内に生々しい喘ぎ声が広がる。
純は今一度、自身の体を見下ろした。
──確かにこの肉体は女性へと変化した。胸も下肢も肌の質も、完全に女性のものへと変質している。
でも、心はいまだ男性のままだ。
肉体的な性別は女性へと切り替わったが、「渡良瀬純」という個人の精神は何も変わっちゃいないのである。
女性用下着で肌を覆い、両の乳首を芯から硬くし、月世の腕に寄りかかりながら喘いでいる自分が恥ずかしくてたまらない。腰の底に溜まる熱に屈しつつある自分が、やりきれなくてしょうがない。
なのに。
どうしても快感の疼きが止まらない。純白のショーツに隠された場所が、湧き上がる快楽に負け、とめどなく愛液を垂らしている。
濡れた股布がさらに濡れる。言い訳がきかぬほどに、ぐっしょりと。
純は短く喘いだ。
窓も扉もないこの空間全体に、未知なる媚薬が流し込まれているように思えてならない。
一秒二秒と時が経過するごとに、肌が疼く。股間も疼く。月世の下に身を投げ出して、大きく足を広げたくなる。
娼婦のように肢体をくねらせ、月世とともに果てたい。彼の体を絶頂まで導いてやりたい。
そんなはしたない妄想が何度も意識にのぼっては、惑う純をますます追いつめていった。
「女性化した絶対女性体《オメガ》は、子を産むことができない。子宮はあっても、生理が来ないからだ」
女と化した婚約者のほっそりした背に右手を滑らせながら、月世が言った。
「だから、妊娠することもない。ただしその代わり、一般の女性よりも感度がかなりいいらしい」
純はまたも喘いだ。耳許を呼気がかすめるたびに、素肌が熱を覚えた。
五
ショーツのクロッチが漏れ出す愛液でぐちゃぐちゃになっていくのが、自分でもよくわかる。
「ん……っ……、」
甘い嬌声を時折漏らしながら、月世の腕にすがる。お香のようにかぐわしいにおいを鼻で感じた。それはまごうかたなき月世本人のにおいだ。
背を撫で下ろす冷たい手の感触にすら、快感の疼きを覚え、純はさらに困惑した。
今までにも、彼に背を抱かれたことはあった。
しかしそれはあくまで、幼い頃に限定したうえでの話だ。「抱かれる」と同じ単語を用いてはいるが、ニュアンスがまるで異なる。
二人はこれまで、仲のよいきょうだいにも似た、ごく健全な関係を築き上げてきたのだから。そもそも月世が雄としての本能をむき出しにしたことなど、これまで一度もなかったのだから──。
「純……」
とろけた声を幼い婚約者の耳に吹き入れながら、月世がささやきを放った。たったそれだけの軽微な刺激にすら、体は無様に反応した。
(ああ、駄目だ……。気持ちよすぎて、考えがうまくまとまらない……)
すっかり発情しきった肉体は、早くも雌の悦よろこびに屈従しつつあった。嗅ぎ慣れた月世のにおいをじかに吸い込むだけで、粘った愛液がたちどころにあふれてしまう。
クリトリスが下着に擦れて、痛みさえ訴えている。「男性器と同質の快感を得る」と称されるその器官が完全に勃起し、痛々しいほどのこわばりを見せている。
「あ、ぁ……」
腰がひとりでに動く。さらなる悦楽を求めて、ひとりでに。
熱く濡れそぼった陰部を月世の下半身に押しつける。
「……もっと……」
とねだりを入れながら、腰と腰とを密着させる。
「もっと……」
自分でも信じられないほどの、ひどい甘え声が喉から飛び出した。欲情にまみれた女の声が、心に残った男性的な部分を大いに刺激する。
心は男性のままなのに、体は女として男の精を欲している。粘液で湿ったヴァギナが、硬く濡れたペニスを飲み込みたがって、勝手に収縮を始めてしまう……。
「純……」
唇が寄ってくる。欲にまみれた吐息をうっすらとこぼしながら、喘ぎを散らす口許へと迫ってくる。
他の男相手であれば、絶対に抵抗したと思う。男の心はまだ、完全には消えていないのだから。
けれど、月世が相手だとどうしても、おとなしく従ってしまう。
女のようにいやらしく開脚しては、彼の体を足の間に招いてしまうのだ……。
「あぁ……。月世、駄目だよ……。おれたち、こんなかたちで結ばれちゃいけないのに……」
しかし、抱きすくめられたまま唇を押しつけられると、抵抗の意志が一気に薄らいでしまう。むしろ彼の背に腕を回しては、与えられた唇をむさぼるように吸ってしまう──。
粘ついたリップ音が響く。荒々しい呼気が、絡まるようにまじわる。互いの体を引き寄せ合っては、胸と胸とをきつく重ね合う。
「ん……ぅ、……っ……」
荒ぶる唇に必死の思いで応えながら、広い背中にすがりつく。
「ん……、は、ぁ……」
深いくちづけを幾度も交わしつつ、ベッドの上に押し倒される。身を突き抜ける快感があまりにも凄まじくて、もはや抗うことなどできない。……できるはずがない。
「つがいとして選ばれた者は、運命の相手と肌を重ねると、ものすごい快楽を得ることができるんだ」
月世が言った。
「つがい同士の心理的な相性はもともととてもよいのだが、それは肉体的な要素にもあてはまるそうなんだ……」
純は涙目で月世の顔を見つめる。淡い照明に照らされた彼のかんばせは、凄絶なまでの色香を濃くにじませていた。
股間が一層、激しく潤む。
「あぁ……、……ん……」
男の腕に抱かれながら純は喘ぎ、濡れた声を上げ、細腰を妖しくくねらせた。
ブラジャーに擦れ、乳首がますます硬くなる。淫らがましく尖ってしまう。
ふいに、「この二つのふくらみで月世のペニスをかわいがってやりたい」と考えた。
「この豊かな乳房をたっぷり使って、彼の肉体を絶頂にまで押し上げたい」と願ってしまったのである。
六
降って湧いたその考えは、純の心をいたく恥じらわせた。
今日の月世も相当いやらしいのだが、自分だって大差ない。
むしろ性転換を終えたばかりなのに、こんな淫らな空想に耽る自身のほうが、ずっといやらしい。昨日まで兄として慕っていた人物の性器を、柔肉に挟んで犯したいだなんて、まさか、そんなこと──、
けれども、混乱する頭の中で卑猥な空想はどんどん展開していく。
胸で挟んで、思いっきり扱いて、乳房に精液をぶっかけられたい。絶えず収縮するヴァギナに肉棒を突き入れて、この細い肢体を乱暴に揺さぶってほしい。そして、締まる膣奥にありったけの精液を残さず吐き出してほしい。──一滴残さず、全部。
はぁ、とひとつ、吐息を吐いた。
性転換を済ませてまだ間もないというのに、いまや、心までもが雌へと成り下がりつつある。男性的な部分が心にいくらか残っているのにも関わらず、体が切なく焦れてしまうのだ。
月世が言ったとおり、絶対女性体《オメガ》は妊娠できない。しかしその肉体は、快感にとても敏感だ。敏感すぎて、下着に擦れるクリトリスが明確な痛みを訴えるほどである。
「月世……」
潤んだ吐息を吐き出しながら、男の胸へとしなだれかかる。抱きしめてくるふたつの腕《かいな》がいとおしくてならない。
「なんでだか自分でもよくわからないけど、お前にパイズリをしてやりたい気分なんだ……」
羞恥に頬を熱くしながら、月世の耳に声を吹き込む。──欲に濡れた、吐息混じりの女の声を。
「せっかくこんなでかいおっぱいがあるんだから、使ってみたいんだよ……。お前のちんこを胸に挟んで勃起させて、ガチガチにしてイかせたいって思ってるんだ……」
喘ぎながらも口にした自分の言葉があまりにも卑猥すぎて、ショーツの奥がじっとりと濡れた。
湿った股布に幼い陰唇がぴったりと貼りつく。その感触を想うだけで、荒れた吐息が盛大に漏れた。
雌の快楽に溺れた体が、昂ぶったペニスを欲しがって荒れ狂っている。
世界でただひとりのつがいと、ひとつになりたい。結合したい。雌《おんな》だけが味わえる快楽をこの身に仕込んでほしい。雌として生きる悦びを詳しく教えてほしい──。
心の底から、そう願った。
「ぁ、……っ、はぁ……っ」
月世の肌に触れる。
たくましくもしなやかな腕で、ぎゅっと抱きすくめられる。
脳天を裂くような絶大な快感に支配され、純はさらに喘ぎをこぼした。
清楚な白のショーツが、漏れ出る愛液をたっぷり吸い込んでゆく。
男の胸にすがりつく。甘えるように鼻先を擦りつけると、軽く頭を撫でられた。
膝を立て、身を起こす。
「ん……、っ……」
ほの白い右頬に手をのばし、ついばむようなキスを数回施す。
それから砂糖さながらの甘ったるい声で、
「お願いだよ……」
と、ささやき声を放った。
どこかしら媚びるようなその響きは、汗ばむ素肌をより強く火照らせた。
「……いいのか?」
答えた彼の声もまた、淫靡な熱にまみれていた。「自分だけが欲情しているのではない」と知り、純はわずかに微笑む。
「うん、お願い……。おれ、このおっぱいを使って、お前をイかせてみたいんだ。月世が射精するところをこの目で見てみたいんだよ……」
我慢できず、月世の唇に自分のそれを重ね合わせ、しつこいぐらいに吸い上げた。くちゅくちゅという悩ましい水音をひっきりなしに立てては、男の熱い口内を尖らせた舌先で刺激する。
「ん……、っ……」
やがて、月世の舌が蛇のようにきつく絡まってきた。くねくねとうごめく彼の舌もまた、熱っぽい潤みに冒されている。
「……んぅ……、っ……」
二つの唇が粘っこい唾液にまみれる。互いの欲望を高めるために、互いの興奮を募らせるために、あふれる唾液をすすり合っては、舌先をさかんに吸い合った。
「ふ……、ぁ……っ」
鼻から息が抜ける。
体から力が抜ける。
「ん……、ぁ……っ……」
口と口とが離れる。交尾のように淫らなキスからようやく解放され、純は安堵の息を漏らす。
室内は深い静けさに覆われている。
「純」
「……なに?」
「横になれ」
「……馬乗りパイずりでもするの?」
「そうだ。そのほうがお前の負担にはならない」
確かに月世の言うとおりであった。ただ、ベッドの上に寝そべるだけでよいのだから、肉体的な負担がかなり軽減される。
「……んっ……、」
ぐちゃぐちゃになった下着に恥じらいを感じつつも、ベッドに背を預けた。ぎしり、という重々しいきしみが羞恥のほどをさらに高める。
「そのまま寝ていろ」
「うん……」
月世が動く。火照ったバストに自身の肉茎をしっかりあてがっては、
「胸を寄せろ。……そして、俺のを挟むんだ」
と命じてくる。
艶を帯びたその声を聞いて、純はさらに性器を濡らした。
快感を示す粘液が幼い女陰をくまなく湿らせ、次いで、尻の下にまで垂れ落ちていく。
七
言われたとおり、豊満な双乳で猛り勃つ男性器を挟み込んだ。女の肉体の中でもっとも柔らかい部分と、男の肉体の中でもっとも硬い部分とが熱く触れ合う。
ブラジャーの下にくぐらせたペニスはすでに雄々しく屹立し、先端から透明な前液を数滴垂らしている。
「ん……、っ……」
喘ぐように息づく男根を胸に包み、軽く圧迫してみたところ、激流を思わせる荒々しい鼓動が柔肌に響いた。
甘く香る女体が濡れる。
肉付きのよい太ももに、汗が一滴伝い降りていく。
「あぁ…………っ……、」
挟み込んだ雄がもたらす熱に煽られて、純は腰をくねらせた。
体の奥底で眠っていた雌《おんな》の部分が、次第に覚醒していく。雄の欲望を受け入れている乳房が熱い。熱くてたまらない──。
純は身悶えした。
「男の手による愛撫、あるいは男の手による蹂躙をあますところなく受け入れたい」という切なる願いが、身のうちを鋭く貫く。
息がひずむ。
体が熱にさらされる。
男の精を欲しがる女体が、淫らな疼きに屈してしまう。
「ん……、っ……」
右胸と左胸を思い思いに動かしてみる。摩擦された男性器が、白い谷間でビクビクと跳ねる。その卑猥な熱さが、ショーツの下に隠された未開通の秘め処にさらなる潤いを加えた。
──どきどきした。
兄として、そして家族として慕ってきた男の欲望に触れたとたん、ひくつく女陰がびしょびしょに濡れた。
股布に浮き上がる陰唇のかたちを思うと、それだけで濡れた吐息があふれてくる。
月世が無言で動き出す。端正な唇をゆるく噛みしめては、柔乳を擦り立てるように腰を前後させる。
「あ、……んっ……」
一擦りされるごとにたわわな胸肉がひしゃげ、潰れ、形状を変えた。頂から垂れる透き通った滴が潤滑剤の代わりとなり、前後運動の手助けをする。
「……ぁ、は……、ぁ……っ」
ぬちゃぬちゃという生々しい響きが聴覚を犯し、脳をも犯し、快感と興奮を同時に高めていく。
男だけが持つ器官で女だけが持つ器官をこすられると、快感の疼きが重く兆した。
「……っ、あぁ……」
月世の腰が揺れる。
純の腰も揺れる。
熱した鉄を連想させるほどに硬い肉棒が、女の肌をいやらしく犯していく。
「ん……、ぁ……っ」
たくましい腰遣いを眺めていると、なんだか、ヴァギナを貫かれているような心地になった。不規則な腰の振りを胸で感じるたびに、未成熟な女性器が悶えるように収縮する。
「あ、……ん……、っ……」
左右の柔乳を両手でつかみ、熱く猛る熟れ肉を強く挟む。
硬い。
そして、熱い。
月世のもたらす熱に、自分の中にひそむ雌の部分が過敏に反応してしまう。釣り鐘型の柔らかな乳房が、じっとりと汗ばんでゆく。
「あぁ……、」
早く。
早く、中を貫いてほしい。
うねる膣肉を自在にかきまわしてほしい。
蜜のように甘い声で名を呼びながら、淫らがましく果ててほしい。
──今すぐにでも。
「あ……、あ……ンっ」
嬌声は止まらない。
いったん口を閉ざしても、摩擦を加えられるとひとりでに開いてしまう。
「ん……、ぁ……、だ、駄目……っ……」
年頃の少女だけが発することのできる、甘ったるい喘ぎ声が次々とこぼれ出て、快感漬けになった脳をさらに狂わせていく。敏感な部分を巧みにこすり上げるペニスが、わずかに残っていた理性を容赦なく削り落としてゆく。
瑞々しい張りを持った乳房が、熟れた陰茎による刺激を求めて、焦れたように震える。
「あぁ、…………もっと……」
胸を寄せる。
拙い喘ぎを振りまきながら、ペニスへの圧力を高める。
容赦ないストロークを双の乳房で感じるたびに、体が濡れた。声も濡れた。心なんて言わずもがなだ。
「純……、……純……」
ぎらついたまなざしで幼い婚約者の痴態を見下ろしながら、月世が名を呼ぶ。硬く引き締まった腰をゆったりと前後させながら、
「純……」
と低いかすれ声を漏らす。
「あ……、ん……」
うがち込む腰の動きが、徐々にペースを上げていく。先走りでべとついた胸を潰すようにたわめては、荒々しい脈音を断続的にとどろかせる。
ペニスから直接響く力強い脈動が、果てなく純を欲情させた。
「あ……、……っ……」
ドクンッ、ドクンッ、といかめしくうごめく男性器を挟んでいると、なんだか妖しい気分になってくる。「中に出されたい」という汚れた欲望が、血液の流れに沿って全身を循環してゆく。
「あ……、ぁん……っ」
濡れそぼったペニスが、大ぶりな胸を圧すように動いた。
双乳を押しのける勢いで抜き差しされる性器が、未成熟な女体に肉の悦びを埋め込んでいく。男として生きてきた純を、ひとりの立派な雌《おんな》へと作り替えていく──。
「……っ、ああ……、ん……」
ドクン……ッ、というひときわ強い脈動が、豊かに育った胸の谷間で一度、鮮やかに響いた。その一瞬がやってきたのと同時に、挟み込んでいたペニスから大量の精液が噴き出す。
「あ……、っ……」
若々しい処女の乳房が、濁りのある白い体液にまみれる。
けれど、月世の性器はそれでも萎えなかった。
八
せわしない呼吸音が、濃密な静寂の中に沈み去っていく。
ただひたすらに互いの体を抱きしめながら、二人、快感の余韻に浸る。
(これが、月世の精液……)
美しい隆起を描く胸をおおきく上下させながら、純は、乳房に付着した白い濁りを指先ですくい上げた。
射精からさほど時間が経過していないためであろう、彼の精液は残り湯のように生ぬるかった。
「ん……、……」
粘る体液をおもちゃのようにもてあそんでいると、股の間が嘘みたいに潤ってしまう。「早くこれをおれの中に注いでほしい」という、恥知らずな願いが兆してしまう。「月世の体に溜め込まれている精液を、余さずしぼり取ってしまいたい」という不埒な望みが芽生えてしまう──。
家族として接してきた男と肌を重ねた。まじわった。……ふしだらなことをした。
兄として慕ってきた男に抱かれ、愛された。
けれど、後悔はしていない。「この二つの乳房めがけて、新鮮な精液を存分にぶちまけてほしい」と望んだのはほかならぬ自分自身だ。
「ん、……っ……」
腰の奥が重くなる。木肌のように硬い手触りをした肉茎を求めて、強欲な女陰が疼き出す。
下着の真裏に息づくヴァギナがさかんに収縮し、細い喉をしきりに喘がせた。
目尻から熱い涙滴がひとしずく生まれ、熱の集う右頬の上を滑り落ちてゆく。
勃ち上がったペニスをすぐにでも挿れてほしくて、素肌までもが喘いでしまう──。
「ん……、ぅ……」
精液のどろりとした触感をしばし楽しんだあとで、白濁まみれのひとさし指を口内に持っていった。
塩辛い苦みが舌の上に乗る。
それから少しもためらうことなく、
「ん……、」
──濃厚な男のエキスを、そのまままるごと飲み干した。
強い粘りが食道を下くだる。
「月世の体の一部をこの身に吸収したんだ」と意識したとたん、素肌が淫らな熱にまみれた。
「……辛いか?」
声が降ってきた。
月世が口を開いたのである。
「お前が辛いのなら、今日はここでやめるのだが……」
長くのびたまつ毛を細かに震わせながら、彼が呟いた。
静寂が訪れる。
真上から降る人工の光が、二人の肢体を淡く照らし出す。箱庭めいた部屋のただなか、ともに沈黙し、ともに見つめ合う。
しばしの時が過ぎたのち、純は、はぁ、と息をほどいた。そしてわずかに涙のにじむ瞳で月世の顔を見つめながら、声を出した。
「そんなの嫌だよ……。『いますぐにでもお前のちんこをくわえたい』って思っているのに、我慢なんてできるわけないじゃん……」
吐息をまじえた女の声が、音の絶えた空間にひっそりと響く。
実際、身も心も焦れていた。
体は月世を欲しがって、みっともなく疼いている。悶えている。発情している。……濡れている。
心もまた、淫猥な熱におびやかされている。
純はこのときすでに、完全な雌《おんな》と成り果てていた。たったひとりのいとしいつがいを欲してやまない一匹の雌と化していたのである。
「なあ、頼むよ……」
上目遣いで懇願する。雄を欲しがる雌の目で、月世の白いおもてを見つめる。
返る声はない。
月世は純を見ている。幼い婚約者の呈する媚態を、どことなく興奮したような目つきで眺めやっている。
純は再び、息をほどいた。もはや我慢の限界だった。
だから、──みずから両足を大きく開き、ぐちゃぐちゃに濡れた股布をしっかりと見せつけた。
そして媚びを含んだ甘え声で、
「……挿れてよ」
と一言告げた。
窓も扉もない密室の中、二人は再び見つめ合う。
「なんでかよくわかんないけど、おれ、月世のことが欲しくてたまらないんだ。奥の奥まで犯されたくて、体がうずうずしているんだよ……」
返事はない。
月世は何も言わない。
「なあ……。早く挿れてよ。おれのこと、気持ちよくしてくれるんだろ? だったら、早く挿れてよ。おれ、このまま終わりたくないよ……」
開脚姿勢を保ったまま、ショーツの上から割れ目をなぞり、誘惑の声を響かせる。
「ん……、っ……」
布地に貼りつく淫裂の奥より、いやらしい汁がとめどなくあふれ、純白の下着を甘やかに濡らしていった。
限界は近い。
これ以上焦らされたら、おれは本気で狂ってしまう──。
「ほら、早く……」
細腰を左右に揺らしながら、エロティックな声を作って誘い出す。湧き上がる劣情を隠しもせずに、
「早く……」
と吐息まじりの声でささやく。
濡れた股間を見せつけたまま、純は月世の下半身に目をやった。彼の体に息づく男性器はさきほど放った精液にまみれ、赤黒く濡れ光っている。
「あ……、……」
熱く潤む白濁をまとったペニスを見て、純は喘ぎ、女陰を濡らした。
湿り気を帯びた下着が、硬く充血した陰核に擦れる。たったそれだけの微細な刺激にすら、感度を大いに高められた。
九
「頼むよ……」
足を大きく広げたまま、懇願の声を放つ。雄を誘い、愛し、受け入れたがる雌の声を。──男の心をすっかり忘れ去ってしまった、ひとりの女の声を。
この部屋で目覚めた当初は、異常な状況を恐れていた。目に映るものすべてに対し、尋常ならざる警戒心を募らせていた。
けれど月世の腕に抱かれるうちに、そんなこと、どうでもよくなってきた。男としてのプライドも価値観も世間体も、しごく些末なものに思えてきた。
……月世が欲しい。
硬く反り勃つ男根を、悶える女陰めがけて、思いっきり突き立ててほしい。
ほっそりしたこの肢体を好きになぶってなぶってなぶり尽くして、──それから、うねる膣奥に濃厚な白濁液を注いでほしい。
最後の一滴まで残さずに。そう、一滴ですら──。
(ああ、なんでこんないやらしいこと考えちゃうんだろ……)
しかし興奮にゆだる頭をいくら働かせたところで、まともな思考を紡げるはずもなく。
純は割れ目に添えていた指を、精液まみれの乳房に戻した。
さんざん淫らな摩擦を受けた結果、ブラジャーのカップは大きくずれてしまっている。
「ん……、」
弾性に富んだふくらみが、ふるりと震える。じかに外気と接したためか、さむけをいくらか感じてしまう。
胸の頂を飾る桜色の乳首は、視認するより前から硬く尖ってしまっている。
純は思わず、あぁ、と喘いだ。
色欲と肉欲を如実に反映した、卑猥な吐息が意図せず漏れ出る。劣情を押し殺したようなその響きにすら、手ひどい快感を覚えた。
肌が疼く。
男を──ただひとりのつがいたる男を求め、熱くいやらしく疼いている。
「おれ、もう駄目……。お願い、早く挿れて……。おれを犯して……」
涙目で、月世の顔を仰ぎ見る。
彼は一見、常と同じように、無に近い表情をしている。しかし黒々と光るふたつのまなこは、熱っぽくぎらついているのだ。
月世はひたすら、純を見つめている。
雌《おんな》として目覚めたつがいを、入念に視姦している。
凶悪なまでに強靱で残酷な光が、彼の双眼の奥にてくすぶり続けている──。
「純」
「……何?」
「俺が欲しいか」
「──うん」
「そんなに欲しいか」
「……当然だよ。おれは月世のつがいで、婚約者なんだ。お前とは遅かれ早かれ、こうなる運命だったんだ……」
男性として生きていた頃は、月世のことを性的な意味で求めたことがなかった。自分が彼のつがいだと知っても、ちっともぴんと来なかった。好意ならば持っていたが、あくまで彼は「血のつながらぬ兄のような存在」だった。恋情を覚えたことなどまったくなかったのだ。
──なのに。
今は、違う。
「潤んだ孔で猛りゆく性器を飲み込みたい」と心の底から切望している。「浅ましい欲望を心ゆくまでぶつけ合いたい」と強く望んでいる。
そして、「かなうものなら、どろどろにとろけた精液を最奥に向けて放ってほしい」と願ってしまっている。
一途なまでに無垢で淫らで幼い希望が、喘ぐ胸に心に兆す。
そうして胸中に生まれ出たひとつの想いは、やがて神経の隅々にまで伝播していくのだ──。
「雌《おんな》の快楽をすっかり覚えてしまったようだな……」
言って、月世が身を動かした。
ベッドがきしむ。
瞳に涙を浮かべたまま、純は月世の姿を見上げる──少しの不安とそれを容易に上回る期待で胸をいっぱいにしては、いずれ来るであろう決定的瞬間を従順に待ち続ける。
月世が覆いかぶさってくる。声もなく。音もなく。
見つめ合う。
ゆっくりと、しかし確実に、二人の距離が縮まってゆく。
緊張で固くなった体を弛緩させるために、純は、はぁ、と一度深い息を吐いた。
──と。
「何も恐れるな。……ただ俺のすべてを受け入れ、感じるだけでいい。それ以外のことは何にもしなくていいから」
耳許で優しいささやき声が響いた。
顔を上げる。
月世が微笑む。
しなやかな筋肉で覆われた双腕が、雌《おんな》の細い肢体をなだめるように抱きすくめる。
熱を持った肌と肌が、これ以上望めぬほどに隙間なく接し、互いの温度をいたずらに高め合う。
腰と腰が再び重なる。
足と足とが蔦のごとくに絡まり合う。
そして、今一度強く抱かれたまさにそのとき、
「あ……、…………っ…………、」
──一組のつがいが淫らな結合を果たした。
十
身のうちを貫く淫靡な衝撃に、純は背中をのけぞらせた。
「あ、あぁ、……んっ……」
発情期の雌猫みたいにいやらしい声を上げ、覆いかぶさってくるつがいの背にすがる。処女を散らした男の硬い肉茎を情熱的に食い締めながら、おのずから腰を振り立ててゆく。
「あ……、あぁ……っ……」
涙の筋が頬に垂れたが、それを清める余裕はない。
荒っぽく中をかきまわす男にしがみつくほか、できることがまるでない。
「あ、あん、あ、……やぁっ……、」
開きっぱなしの口から少量の唾液がこぼれ落ち、紅潮する頬に伝う。
ぎしりときしむベッドの響きが、喘ぎをこぼす女の心をさらに惑わせる。
「あん、もう……、あ……、ん……っ」
目いっぱい開いた足の間に男の肉体を招き入れ、その腰を膝で挟み、強く固定した。そうして荒くうごめく腰つきに合わせ、全身を思いっきりくねらせる。
「あ、…………は、……ぁ……、あん……」
高く響く嬌声をひっきりなしにほとばしらせては、体内をめぐる快楽を積極的にむさぼり尽くす。
心では「動く腰を止めたい」と願うのだが、どうしても体は意に反してしまう。
「あぁ……、ん、だ、駄目……」
ベッドのきしみが重く鳴りわたる。
時が経つにつれて騒がしさを増していくその音を意識しはじめた瞬間、腹の中に収まっている子宮が酷く疼いた。
「あ、もう……、ああ……っ……」
浅瀬と最奥を往復する肉棒が、募る欲情をますますかき立てる。
よがり声が止まらない。腰の動きも止まらない。
「あ、……ぁ、いい……」
純は喘いだ。
あふれんばかりの愛液で濡れた女の源泉で、膣内に食い込む肉の楔を丹念にもみほぐしながら、高らかに喘ぎ声を振りまいた。
先端から漏れる先走りの感触、そしてそのぬくもりが、興奮する心をいやおうなしに高めてゆく。
月世のもたらす律動と悦楽は、たちまちのうちにひとりの若い雌《おんな》を屈服させたのである。
「あ、あぁ……、は、……あ、あんっ……」
容赦なく奥を暴き、乱し、こすり立てられると、ブラジャーに擦られた極小の肉粒がさらに勃ち上がっていった。
「あ、……ん……、あぁ……、……っ」
緩急と強弱をつけて縦横に揺さぶりをかけられると、大量の白濁液を浴びた乳房が跳ねるように震えた。筋肉の綺麗に乗った男の胸と触れ合うと、それだけで二つの白いふくらみが切なく悶えてしまう。
「あ、……っ、ああ……、駄目、もう……」
月世はなおも腰を振り乱す。あたたかくペニスを包む込む膣壁を絶えず刺激しては、女の純潔を思うがままに汚してゆく。
「あ、は……、も、もう、や、駄目っ……」
泣きながら、襲い来る律動を受け入れる。月世の腰の動きを従順に追いかけては、熱心に快楽をむさぼった。
このとき純はすでに、情欲と肉欲、ならびに熟したペニスのとりこと化していたのである。
「あ、……ん、……っ……、あぁ……、駄目、駄目ぇ……っ……」
濡れた呼吸音を絞り出しては、女陰を犯す男の耳に劣情の声を届けた。
しかし、その響きが月世の心身をより強く催淫し、興奮させるのだと純は自覚できずにいる。無意識のうちに身につけた媚態が、つがいたる男を狂わせていると気づけずにいるのだ。
「あぁ……、は、…………あ……っ」
連続してピストンを加えてくる腰に両足を絡め、相手の体ごと引き寄せては、男の胸に必死にすがった。
激しく潤むぬかるみは勃起した肉茎を根元まで飲み込み、一時《いっとき》も休むひまなく、締めつけを与え続けている。
「あ、……あ、は……あ……っ……」
汗が飛び散る。
素肌に流れる卑猥な汗が、密室のただなかにてさかんに乱れ舞う。
「あぁ、……はぁ……、ん、駄目……っ、ああ……、んっ、」
「駄目」という拒絶の言葉を、何度も繰り返す。
「駄目……っ、……駄目ぇ……」と幾度となく身をよじる。
だが、実際のところ、純は──雌《おんな》の悦びを能動的に味わっていた。
収縮するヴァギナで、硬く張りつめたペニスの味を堪能していたのである。
「あん、……あん、もう、駄目……っ、」
──揺さぶりをかけられる。
荒波のように激しい律動が、喘ぐ少女の身を翻弄してゆく。
「駄目、……や、あん……っ……」
「欲しい」と思った。
「男の精液が欲しい」と思った。
かといって、男性が相手ならば誰でもいいわけではない。
離れがたき運命で結ばれた男と契るからこそ、全身が狂ったように昂ぶるのだ。
それをわきまえているからこそ、安心して痴態をさらしているのである。
「あぁ……、ん、ぁ……、いい……っ」
全身で、煮え立つ快楽を表現する。「棒状に変形した硬い肉で愛されている。発情した孔をいやらしく攪拌されている」と思うと、焦れた心が濡れたように身悶えした。
十一
精液をぶっかけられた胸肉が、汗でぬめる。律動をひとつ、またひとつ加えられるたびに、若い女体がぴんと引きつる。
シーツを蹴る足先に強い力がこもる。軽く達したその瞬間、目の前に星のような瞬きが散った。
純はいまや、一匹の淫乱な雌と成り果てていた。嬌声を漏らし、両の乳首を硬く尖らせ、飢えたように細腰を揺らし、男の劣情を煽り立てる。
快感の疼きに負けた肉体が雄を求め、悩ましい熱を持つ。
「あ……、っ……、あ……」
頼りなく胸を喘がせながら、みずから腰をくねらせた。
ぬるむ膣壁に猛り勃つペニスが食い込み、しとどに濡れた奥処《おくが》を徹底的に支配する。
胎の底でくすぶる欲望に急かされるまま、腰を振り乱し、男の広い背にすがりつく。
「あ、……ん……っ、ん…………っ、……」
吐息を含んだ喘ぎ声が、ベッドのきしみに合わせて控えめに響いた。
「もう駄目……、イっちゃう……」
すこぶるかたちのよい豊乳を波打たせながら、涙目で呟きを放つ。
両足を開き、たくましい体を招き入れ、艶やかな声を発し、相手の劣情を刺激する──自分のための快楽を自分の手で作り上げる悦びが、総身をますます昂ぶらせた。
淡い光に照らされた肌が、悶えるようにわななく。
言葉なく抱きしめてくる月世にしっかりとしがみつきながら、純は、
「あぁ……、」
と小さく悲鳴した。
強く弱く繰り返される揺さぶりに、腰の動きを合わせる。一度、二度、三度、四度と律動がうねるたびに、よがり声がほとばしる。
「……ん、……ぁ……、あ……っ……」
性感が高まる。
快感が爆ぜる。
女だけが味わえる極上の快楽をむさぼり味わいながら、男の体を必死に抱き返す。
劣情を隠しもせずに、ひたすら喘ぎに喘いでは、肌を灼く強烈な悦楽を夢中で追いかけた。
もはや、男としての自意識や価値観、そしてプライドは完全に失われていた。愛するつがいの精を欲して乱れるひとりの雌が、ここにいた。
ぎしり、ぎしり、と音がする。
跳ねるように上下するベッドのきしみが、その正体だ。
ほどよくあたたかな密室の中、一対の雄と雌が踊るように睦み合う。唇を重ね、舌を吸い合い、手と手を絡め、いずれ来るであろう絶頂の瞬間を二人で待ち受ける。狂ったように腰を振っては、互いの欲を高め合う。
「あ、……ん、……あぁ、ん……っ、」
勃起した肉粒が、厚みのある胸板に擦られ、硬くいやらしく張りつめた。一秒、二秒と時が経過するごとに、乳首がじんじんと切なく疼き、純の喉を喘がせる。
「月世……、もっと……、もっと、して……」
いとしい男の耳に懇願の声を吹き入れながら、肥大する快感のとりことなる。薄い陰毛の奥にひそむ快楽の源泉を熱く濡らしては、反り勃つペニスを抱きしめるように締めつけた。
月世は答えない。ただ、腕の力を強めるのみである。
「ん、……ぁ……、もう……、駄目……」
蜜壺の中で脈打つ肉の楔が、ドクン、ドクン、と震え出す。
と、時同じくして、陰茎を収めたヴァギナがひとりでに収縮を始めた。
「ああ……、ん……、っ……」
絶頂の予感を全身で感じ、純は歓喜の涙を流した。待ち望んだ瞬間がまもなく訪れるのだと思うだけで肌は湿り、陰部は濡れた。
「ん、ぁ、……、ん……、」
雌《おんな》の悦びをあまさず甘受しては、甘やかな吐息を漏らす。
従順にそして熱意をもって、解放の時を一途に待つ。腰を淫らに振り立てる。
「純……」
月世もまた、切なげに眉を寄せている。手ひどい快感にさいなまれているのは、きっと、彼とて同じなのだろう。
「ん、……、お、おれ、駄目……、もう……、もう……っ、」
律動の間隔が狭まってくる。ベッドのきしみが一層酷くなる。
ずちゃずちゃという淫らな汁音が、性器同士をつなげた場所にて高らかに響き、喘ぐ純を恥じらわせた。
「あ、……はぁ……、ん、も、もう……、駄目……、」
目がくらむ。
腰が震える。
ドクン、ドクン、とうなりを上げるペニスがぐっと膨らむ。
そして、
「あ……、あああああっ……!」
最奥まで一息に貫かれ、──膣全体をくまなく汚された。
膨張する陰茎から断続的に精液が噴き出し、悶える女体を強く強く犯し抜く。
力強い鼓動を潤んだ女陰で受け止めながら、純はいま一度、「あぁ」と甘い声を宙に放った。
二人、けもののようにまじわりながら、広いベッドに身を投げ出す。
箱庭にも似た密室の中で目と目を見交わし、唇を重ね合っては、互いの唾液をやみくもにすすり合う──。
十二
絶頂した直後、純は暗い部屋で目を覚ました。そこは窓も扉もない奇妙な空間でなく、使い慣れた畳敷きの和室であった。
吐息まじりの色っぽい呼吸音をせわしなく漏らしつつ、
「……夢……?」
と呟く。
夢見心地のまま、枕元に転がしていたスマホで現在時刻を確認した。デジタル文字は、午前三時十二分を指し示していた。夜明けまではまだ遠かった。
刺激的な夢にさんざん煽られた結果、下着の中がぐっしょりと濡れてしまった。わざわざ股間に手を持っていかずとも、性器の湿りを把握できるほどだ。
はぁ、と一度、ため息をつく。足の間のみならず、漏れ出た吐息までもがたっぷりと濡れていた。
いまや体のどこもかしこも、淫猥な熱にまみれていた。スウェットの生地に皮膚が擦れると、ひとりでに肌が疼いた。
このまま眠りにつくことなど多分できない。
湧き上がる肉欲をみずからの手で処理しないと、寝つくことなどできやしない──。
ゆっくりと、下穿きの中に手を突っ込む。愛液を吸った下着をそっと押し上げ、昂ぶる性器へと指先をのばす。
そして、
──純は悟った。
「おれ、女になってる……」
そう。夢の世界と同じく、純の肉体は女のそれに変質していたのである。
愛液でたっぷり潤った陰唇を、軽く一撫でする。充血するクリトリスが痛いほどに存在を主張しているが、自分でいじる勇気はまだ出てこない。
下穿きに入れた右手を盛り上がった胸部に移す。立派に育った乳房をすくい上げるようにしてつかむと、五指が柔肉にめりこんだ。
月世の手の感触を思い出しながら、胸肉をもてあそぶ。てのひらに乳首が擦れると、思わず、
「あ……、ん……っ」
と高い声が出た。発情しきった雌の声だった。
胸に刺激を与えるたびに、クリトリスが尖りを増した。愛液があふれた。腰の奥が鉛でも含んだかのように重くなった。
「抱かれたい」と思った。
「夢の中と同じように、月世に抱かれたい」と願った。
硬く勃起した男性器で、浅ましく濡れるヴァギナを貫いてほしい。ほっそりした幼い女体を抱き寄せて、たくさん揺さぶりをかけてほしい。そして、──ありったけの白濁液をとろけた膣奥に注ぎ込んでほしい。犯してほしい。
胸中に兆した願いの卑猥さに、純は頬を火照らせた。
豊かな柔乳を、指とてのひらで軽く圧してみる。月世の手の動きを思い出しながら乳房をいじってみたが、絶頂を得るまでには至らなかった。
膝と膝とを擦り合わせる。きゅっと締まった股間が、粘り気の強い愛液をさらに分泌する。
わかっている。「いくら胸を揉みしだいたところで、頂を極めることはできない」と。「狭い女陰を硬いペニスで心ゆくまで刺激しないと、どうにもならないのだ」と──。
せめて自身を慰めることができればよかったのだが、あいにく、「女性の自慰」の具体的な手順がわからない。
女の子と一度も付き合ったことのない純に、女性の性欲を満足させる方法などわかるはずがなかったのだ。
──けれど、このままひとりで過ごすのはとても辛い。
快楽に飢えた肉体を持て余すのも酷く辛いことだ。
トランクスの奥で、女性器がずくずくと疼いている。「熱く灼けた肉棒が欲しい」「濃厚な精液を余さず吸い出したい」と、しきりに訴えている。
このまま眠ることなど、とてもじゃないができない。できるはずがない。
本能の奴隷と化した肉体が、女の快楽を欲しがって悶え狂う。
夢の中で仕込まれた快感の疼きが、正常な思考力、判断力を極限まで鈍らせてゆく。
「月世……」
潤んだ声で呟きながら自室を出て、彼の部屋へと歩き出す。
下着に収まる女性器は、すぐにでも挿入できると思えるぐらい、潤沢に濡れている。
十三
闇と静寂が澱のようにわだかまる中、二階の突き当たりにある一室の前にて、純は歩みを止めた。
跳ねるように鳴る鼓動を全身で感じながら、そっと、ふすまを開ける。
およそ二十畳ほどの和室の左隅に、布団が敷かれているのが見えた。健やかな表情で眠る月世の姿をそこに認めた瞬間、心音が一度、強く胸に響いた。
ごくりと唾を飲み込んで、前に一歩踏み出す。なるべく音を立てぬよう、忍び歩きで布団の傍へと近づいた。
部屋の一角には、分厚い魔術書が驚くほどたくさん積み上げられている。近くで走ったりなんかしたら、即座に崩れてしまいそうだ。
だからなるべく慎重に足を進め、──そして、ついに、月世の傍らに立つことに成功した。
仰臥姿勢で眠る彼は、常と同じく、紺色の寝間着を着ていた。
大事にしてきた弟分にこれから襲われるというのに、彼は目覚めない。身じろぎすらせず、黙して寝息を立てている。
「月世」
呼びかける。
当然ながら、返事の声はない。
なるべく自重をかけぬよう気を配りながら、つがいたる男の唇に自分のそれをぴったり重ねた。味も何もしないはずなのに、なぜか、彼の唇から砂糖のような甘さを感じ取ったように思えた。
──欲しい。
唇だけじゃなく、肌も手も性器も欲しい。彼のすべてを我が物にし、それからひとつに溶け合いたい。他の誰もが介入できなくなるほど、密に心を通わせてみたい。
あからさまな独占欲を自覚し、純は、ふ、と自嘲の笑みを浮かべた。「恋をすると、ひとは強欲になってしまうんだ」という悟りが脳裏にひらめく。
下着の奥で硬く勃起している陰核が、切なげに頭をもたげている。
肉欲を覚えた若い体はすっかり発情し、高まりゆく快楽のとりこと成り下がっていた。
「愛するつがいに支配されたい」
「天宮月世という男の足許に、全力でひれ伏したい」
体中の細胞が、そう叫んでいるように思えてならない。
かつて、月世の親類たちは、年に数回行われる親族会議の席で、
「絶対女性体《オメガ》など、どこぞの雌雄展開体《ベータ》にくれてやれ」
「月世。お前は、数少ない完全男性体《アルファ》なのよ? あなたには、もっとふさわしい人がいると思うわ」
などと抜かしたらしい。
そのたびに月世は言葉少なに、
「嫌です。あいつは俺の運命ですから」
と答えたそうだ。
ちなみに、一連の情報を教えてくれたのは、天宮家長男にして月世の双子の兄たる千晴である。
俺の運命。
月世がかつて口にした言葉を、心の中でひとしきり繰り返す。そのたびに、純の心は果てのない歓喜に震えた。月世との絆を想うだけで、喉許にまで熱いものがこみ上げてくる。
深い眠りに沈む月世のおもてを見つめ、それから唇を与えた。触れるだけのきわめて優しいキスで、彼の締まった口許をそっと愛撫する。
上唇と下唇をそれぞれ一回ずつ舐め、唾液を塗りつけ、積もる快楽を呼び起こす。
「……、っ……、」
月世の口よりわずかに漏れた息の響きが、純の心身を熱く激しく昂ぶらせた。
世界でいちばんいとしい男の上にのしかかる。うめくように喘ぐ月世をしっかり無視して、少しずつ、しかし確実に彼の衣服を脱がしにかかった。
たもとを開く。鎖骨の窪みと筋肉の綺麗に乗った胸が、目に飛び込んできた。
「……んっ……、」
夢の中で触れた肉体を目の当たりにし、純は思わず喘ぎをこぼした。
月明かりに照らされ、ほの白く輝く素肌を見ているだけで、勃ち上がったクリトリスが快感を示した。愛液が漏れた。女陰が疼いた。
早く抱いてほしい。
早く犯してほしい。
早く抱きしめてほしい。
早く愛してほしい。
心の底から切実な懇願の声がいくつも浮上し、「渡良瀬純」という名の個体を確実に支配していった。いまや、純は、硬く脈打つペニスを求めてさまよう雌と成り果てていた。
性器を介した結合を待ち望む一匹のけものが、ここにいた。
十四
肌と肌との接触を阻む衣服に、狂おしいほどのもどかしさを感じた。
なので、急いでスウェットの上下を脱いだ。女性器を包み隠していたトランクスも脱いだ。一連の動作は、一瞬の躊躇すら覚えることなく実行された。
触れたかった──天宮月世に。
触れられたかった──つがいたる男の肌に。
性欲に基づいた強い興奮が心の奥で渦をなし、爆発し、暴風雨のように荒れまわっている。そして、その恐ろしいまでに動物的な感情は、細くしなやかな女体をも支配下に置き、純の在り方そのものを作り替えていくのだ。
かつて、月世は、純にとって「年の離れた優しい兄」のような存在だった。
けれど夢の中で愛し合った今、純は彼に性的な欲望を感じている。
性交の情景を思い出すだけで、目が潤み、肌が熱を覚え、女陰が濡れた。太ももにまで愛液が垂れてしまうほどに、濡れた。
「月世……」
裾を開く。
ボクサーパンツの一点に、わずかな濡れ染みが浮き上がっているのが見えた。
もしかして、たった今自分が施した拙い愛撫に反応してしまったのだろうか。それとも、淫夢でも見て感じてしまったのだろうか。
濡れ染みの上から、下着を撫でる。
すると、薄布の奥に隠れていた陰茎が、おもむろに力を持った。
「あっ……、」
硬度を増した性器に煽られて、純はびくりと身を震わせる。体だけでなく、脳髄までもを狂わせそうな、とんでもなく強烈な疼きが全身を貫いた。
──早く。
早く、下着の下で喘いでいるペニスに触れたい。しゃぶって、犯して、たわわな柔乳の間に挟んで、これ以上ないってぐらい硬くして、気持ちよくして、盛大にイかせたい。唇と舌と乳房を駆使して、月世を絶頂させたい。
それから、ひくつく彼の性器を濡れに濡れた膣肉で包み、締めつけ、好きなだけなぶり尽くしたい。一滴残らず精液をしぼり出しては、射精直後のペニスに淫らな刺激を送り込みたい。他の女が抱けなくなるほどの快楽を、彼に教えてあげたい──。
はぁ、と淫靡な息を吐き、月世の整った唇に自分のそれを重ねる。
まずは、隙間なく合わせるだけのキスを与えた。自分の唇のかたちを少しでも覚えさせるよう、唇同士をぴったりと密着させ、粘膜の感触を楽しむ。
「ん……、……、」
うまく呼吸が拾えないのか、月世が苦しそうに身をずらした。まだ目を開いていないが、体はしっかり反応しているようだ。
その証拠に、下着の濡れ染みが一層広がっている。布を隔てた先にあるペニスが、より硬くより強く盛り上がってしまっている。
彼は眠っている。
けれどそれでも、確実に感じているのだ。純の与える愛撫のひとつひとつに、律儀な反応を返し続けているのである。
キスを深める。
わずかに開いた唇の合わせ目に、細らせた舌先をそっと差し入れ、熱い口内を丹念にいじりまわした。
舌で歯の裏側や根元を舐め、頬肉をつつき、力を持たぬ舌を吸い上げ、締め上げ、ねぶりまわした。
「……っ、は、……ぁ……、」
月世はまだ眠っている。
けれど彼の息は受ける快感を反映し、次第に荒さを増してきつつある。
下着の下で勃ち上がるペニスはいまにも、布地を突き破らんとしている。
拙いキスでの愛撫を続けざまに加えつづけながら、純は思った。「もしも月世が目覚めたら、どんな反応を返すだろう」と。「女になったおれのことを受け入れてくれるのかな」と。「ちゃんと、おれとエッチしてくれるのかな」と。
しかし、彼が自分を受け入れるにせよそうでないにせよ、純は、月世のペニスを無理やりにでもヴァギナに収めるつもりでいた。
硬く張りつめた男性器で内壁を存分にこすり上げ、もっとも弱い部分を攻め抜いてもらわないと、心身を悩ませるこの淫らな疼きは消えない。絶対に消えない。
(月世が欲しい)
病的なまでに一途な想いは、時が過ぎるにつれて加速してゆく一方だ。
濡れに濡れた女陰に熟れた太いペニスをあてがい、一気にめりこませて、膣壁を擦り上げてほしい。
そして、いくたびもの挿抜を繰り返したのち、愛液でぬかるむ蜜壺に熱い精液を惜しみなく注ぎ込んでほしい。
熱を持った唇を月世のそれに押しつけながら、発育のよい双乳を彼の胸に擦りつけた。
「あぁ……」
月世がかすかにうめく。
胸のうちで育つ不埒な妄想に煽られて、純はより強く唇を吸い上げた。
みずから身を寄せ、豊かな乳房を彼の胸に押しつけると、桜色の乳首が芯を持ち、たちどころに勃起した。
キスをする。
吐息ごと犯すようなキスを一方的に与えては、愛する男の劣情を引きずり出さんとする。
暗い部屋に、二人分のかすかな吐息が響く。喘ぎともうめきともつかぬ感じ入った声が、深い闇にとどろく。
月世の上に全裸でまたがり、彼の腰を両足で締めつける。
──と。
そのときだった。
「……純……?」
ようやく、月世が目を開けた。
十五
黒く透く瞳と目が合ったとたん、全身が痺れるような快感に包まれた。目は潤み、肌は熱を持ち、陰部からは粘った蜜が次々とひっきりなしにあふれ、太ももにまで垂れ落ちていった。
喉はしきりに喘ぎを散らし、指先は歓喜に震え、細腰はかつてないほどの快楽に飲まれ、悦楽の疼きを感じた。
月世が目を覚ました。
月世と目が合った。
たったそれだけのことが、純の心身に大きな変化をもたらしたのである。
例のごとく、月世は、無に近い表情を浮かべていた。腰の上にまたがる全裸の純を見ても、彼は眉ひとつ動かさずにいる。
「……もしかして性転換を果たしたのか?」
「それぐらい、見りゃわかるだろ」
月世の右腕を引っつかみ、そろりと持ち上げて、みずからの胸へと導いた。そして柔い胸肉を何度か揉ませると、今度は上から月世の手をしっかりと押さえ込んだ。
──欲情、した。
ただ右胸に手を置かれているだけなのに、腰の底に卑猥な熱が溜まった。「今すぐにでも膣内をペニスでかきまわされたい」という欲情はやがて、劣情と化し、腰の奥を熱く、そして果てなく淫らに灼き尽くしていった。
皮膚の至る場所が、月世からの愛撫を求めて、みっともないほどに飢えを感じている。
唇をいたずらにもてあそばれ、瑞々しい二つの乳房を好きに揉まれ、肌という肌にキスを落とされ、愛液滴る女陰を硬く発情したペニスで貫かれたい。
そしていくたびも膣壁をかきまわし、奥の奥まできっちり汚してほしい。熱くべとつく精液で、狭い膣内の全部をくまなく満たしてほしい。──愛してほしい。
しかし、その月世は身じろぎもせず、ただ黙って腰上にまたがる純を見上げている。表情の薄い瞳で、女性化を終えたばかりの全裸の婚約者をただただ見上げているのだ。
「服を着ろ。……そのままでは風邪を引く」
「やだ」
純は即答した。
「おれ、今夜はお前に抱かれるために、この部屋に来たんだからな。月世の精液を胎ん中に収めるまでは、絶対に服なんて着ないし、部屋からも出ねえよ」
「……どうしても、か」
「もちろん」
熱に浮かされた頭で、純は答える。
ボクサーパンツの下で膨れ上がるペニスが欲しくて、身も心も焦れていた。
御託なんてどうでもいいから、とにもかくにも月世が欲しい。
鉄の棒きれのように硬く反り勃ったペニスを、悶えるヴァギナめがけて一気に突き入れてほしい。
そして、激しく、──夢の中の彼よりももっと激しく、自分のことをしつこいぐらいに求めてほしい。
その身に溜め込んでいるであろう白濁液を雌《おんな》の柔肉にたっぷり注ぎ込み、思う存分果ててほしい。
「どけ。今のままでは、起き上がることすらままならん」
「おれのことをちゃんと抱いてくれるのなら、要求を飲むよ」
純とて必死だった。
月世に犯してもらうためならば、命のやりとりすら厭わない覚悟であった。
「おれ、どうしてもお前に抱いてほしいんだ……。じゃないと、欲求不満になっちゃいそうで怖いんだよ……」
胸にしまい込んでいた本音を、切々と言葉に代える。
闇はとても深い。
朝はまだ来ない。
「そうか」
やがて、月世がわずかに両頬をゆるめた。
「そんなに俺が欲しいか」
「当たり前だよ……。おれ、お前のつがいだし、婚約者だし、……お前の女でもあるんだからなっ」
月世が、ふう、と息を吐く。それから、
「抱いてやってもいいが、お前の体に負担がかかるかもしれんぞ。男と女とでは体力差がありすぎるのでな」
と告げた。
「……何? おれの体を心配してくれてんの?」
「むろんだ。俺の体力と今のお前の体力とでは、あまりにも差がありすぎる。明日だって学校があるのに、無理はさせられんな」
そうだった。
朝になったら、登校せねばならないのである。
──けれど、純はあえて、
「それでもいいよ」
と答えた。変わらず月世の腰にまたがりながら、
「おれ、月世の女になりたい……。お前に抱かれたくて、体中がうずうずして落ち着かないんだ」
と想いを告げる。
月世が欲しい。
運命のつがいたるこの男のすべてが欲しい。
一分《いちぶ》の隙すら入り込めぬほどの完璧なセックスを、二人で織り成したい。彼とひとつになりたい。
……抱いてほしい。
好きなように、自由に犯してほしい。乱してほしい。
そのためなら、どんないやらしい命令にも従ってみせるから。
「このままじゃ、おれ、変になっちゃうよ……。月世が欲しくて、すげえ欲しくて、頭の中がバカになっちゃってるんだ……。だから、お願い。今すぐにおれを抱いて。おれの中を月世でいっぱいにして……」
「……」
「頼むよ……」
やがて、月世が表情を少しも動かさないまま、答えた。
「わかった」
静かな静かな闇のさなか、わずかながらの沈黙が二人の間にすっと割り込む。
淫靡な熱にまみれた空気が、部屋の中を音もなく漂い、やがて室内全体を満たしていった。
「そうだな……。まずは、女の体を使った自慰の方法でも教えてやるとしよう」
淡々と、しかしどこかしら熱をはらんだ口調で、彼は言った。
そうして軽々と上半身を起こしては、純の体を──一糸まとわぬ若い女体を両腕で抱きしめ、
「安心しろ。俺が一から丁寧に教えてやる。ひとりでもイけるように、俺がお前を教育してやるさ」
と告げた。
月の光の届かぬ部屋、二人は熱いキスをする。
舌と舌を律儀に吸い合う、きわめて淫らなくちづけを長い間交わし合う──。
十六
深海のように深い闇夜の一隅に、ぽっかりと光がともる。純との会話をひととおり終えた月世が、自室に明かりをつけたのである。
「なにやってんの……?」
寝乱れた布団の上に全裸で座り込みながら、純はなにげなく、質問を口にした。けれど、それに答える声は一言とてなかった。
まず彼が向かったのは、西側の壁沿いにしつらえられている一台の文机《ふづくえ》であった。木造《きづくり》のシックなその机は、長年使用されてきたにも関わらず、目立った傷みがない。
天板に置いていた紙袋の中から、ディスクの入った透明なトールケースを取り出すと、月世は一度、純のほうに視線を送った。
しかし、純はというと、なにも答えずにまばたきを繰り返すのみであった。
というのも、月世の視線の意味するところがちっともつかめなかったためである。
「言いたいことがあるのなら、直接、おれに言えばいいのに……」と不満に思ったものの、あえて声にはしなかった。せっかくのいい雰囲気を、無粋な台詞で壊したくない。
──緊張ならば凄くしていた。
てのひらのみならず、背中にも汗が垂れている。夏でもないのに、強烈な熱を肌に感じている。
けど、だからといって、逃げ出すつもりはさらさらなかった。
月世を欲しがる気持ちは薄れず、むしろ時が経つにつれて膨らむ一方だ。
飢餓感にも似たこの気持ちを満足させるまでは、この部屋を出ない。出たくない。
女になったばかりのこの身でどこまで月世を愉しませられるか知れないけれど、でも欲しいものは欲しいのだ。
発情した女体を鎮めてもらわないことには、きっと眠れない。一睡たりとてできやしない。
次に月世が触れたのは、テレビの電源であった。何の変哲もない、32型テレビだ。
カチリ、という微音に次いで、砂嵐がテレビに映る。どうやら本日の放送は終了したようだ。
何も言わず、月世がトールケースを開く。そして、これまた淀みない動作でディスクを取り出すと、それをテレビのスリットに挿入した。彼の部屋のテレビは、DVD鑑賞機能も搭載しているのである。
──画面に、ひとりの女性が映る。セーラー服を着た、愛らしい女の子が。
「……まりあちゃん……?」
さよう。
今、画面に映っているのは、セクシー女優の西園寺まりあであった。天使のように愛くるしい容姿とGカップのたわわなおっぱいで名を知られている、業界一の人気女優である。
赤子のようにかわいい微笑みを満面に浮かべながら、西園寺まりあが言った。
「今日は、皆の前でおなにーをしようと思いまぁす!」
「へっ……?」
突然の展開に反応を忘れた。
「お、おい、月世! なんで、まりあちゃんのビデオなんて見せるんだよ……!」
「これは、昼間、お前の部屋から持ち出したものだ」
言いながら、月世が純の真後ろに腰を下ろす。ふいに漂ってきた官能を刺激する香りにちょっとしたときめきを感じつつも、
「知ってるよ、それぐらい! でも、なんで今見せるんだよ……」
と声を荒げた。
とにもかくにも謎過ぎた。
「自慰の方法を教えてやる」と抜かしておきながら、突然セクシー女優のビデオを見せるなんて、いったい月世の奴、なにを考えているんだろう。
「そりゃあ、おれ、まりあちゃんの大ファンだけどさ……。だからといって、今、ビデオを見せる必要ないんじゃねえの?」
と言い、背後を振り返ったときだった。
「あ……」
予告なく、後ろから体を抱き込まれた。衣服一枚身につけておらぬ女の体を、すっぽりと。
細腰を柔らかく抱く二つの腕が熱い。背に当たる胸も熱い。何より、耳をくすぐる吐息が熱い。
月世の運んできた熱はすぐさま、純の肌にも移った。足の間にひそむ秘密の場所が、たちどころに潤ってゆく。
クリトリスが痛い。
勃ち過ぎて、痛い。
「あぁ……」
早く、股間を慰めたい。
欲の溜まったこの体を一刻も早く鎮めたい。
けれど、自分の力ではどうすることもできない。
──女の体を慰める方法なんて、今の純にはわからないから。
「ん……、っ……」
画面の中から、喘ぎ声が聞こえた。
西園寺まりあが自身の女陰に手をやり、赤く色づいた陰核を転がしはじめたのだ。
「よく見ておけ、純……」
純の陰部にも手がのびてくる。
そして、西園寺まりあの手指と同じ速さで、尖るクリトリスをはじくのだった──。
十七
頬のみならず、耳先までもが強い熱を覚えた。元は同じ男同士なのだから、恥じらいを感じる必要などないのに、それでも羞恥心があとからあとから湧き出てくる。
「ん、……っ……」
四角い画面の中で、西園寺まりあが自身の股間に手をのばし、クリトリスをいじりはじめる。
彼女は、真っ赤なリボンが印象的なかわいらしいセーラー服を着ていた。そのスカート丈はとんでもなく短く、少しでも動くと中が見える構造になっていた。
しかし、彼女は、スカートの下には──何も履いていなかった。
カメラに向けて、剃毛を終えた女性器をおおっぴらに映し、かわいらしい声を上げながら自慰行為に耽る彼女を見つめる。欲望がうねるように高まっていく。
「ん、んっ……、あ……ん……」
くちゅくちゅと卑猥な水音を繰り返し立てながら、西園寺が勃ち上がった幼い陰核をいじめる。まっすぐに伸ばした中指でくすぐったり、親指とひとさし指を使ってつまんだり、潰したり、転がしたりする。
ひとつの動作に取りかかるたびに、彼女は子猫のように愛くるしい声を上げ、純の劣情をおおいに刺激した。
けれど性的な興奮を運んでくるものといえば、かのビデオのみではなかった。
むしろ、衣服をまったく着ておらぬ純を、後ろから抱きかかえるようにして座る月世に、劣情と情欲と肉欲と愛欲を存分に高められた。
細いうなじに当たるはずんだ呼気や、豊かな乳肉を容赦なく揉みしだく大きな手、尖りきったクリトリスを入念に愛する指先、──それから、尻の下で硬く張りつめる成熟したペニスなどなど、おのが身を惑わせる要素ならば、いくらでも素肌に感じた。
背後から抱きしめられている都合上、現在の月世の表情をうかがい知ることはできない。けれど、時折触れる熱い吐息や、張りつめた陰核をなぶるように犯す指、まるみを帯びた小ぶりな尻に接する屹立などが、彼の心の状態を正確に物語っているように思えた。
「あん……、っ、ああ……んっ……」
すっかり感じ入った声を上げながら、西園寺が指を動かす。感じすぎてこわばったクリトリスを自由自在にもてあそんでは、
「あぁん……っ、」
と雌の声を上げる。
けだものじみた嬌声を上げて悶えているのは、何も彼女のみではない。
純もまた、月世の指に導かれ、
「駄目……、おれ、……そんな、駄目……っ」
と、昂ぶりに満ちた吐息を幾度となく吐き出していた。
けれど、月世は指を止めない。
ときどき思い出したかのように陰唇をすっと撫で上げては、これ以上ないってぐらいに硬くなったクリトリスを指の腹ではじき、純の股間をさらに濡らしてゆく。
「駄目、……駄目ぇ……っ……」
といくら訴えてもそれはまさしく無駄なこと、愛撫を止める手立てにはなりえない。
充血し、勃起したクリトリスをそっと撫でられる。転がされる。撫でまわされる。ぐりぐりといたぶられる。とめどなくあふれゆく愛液を指の先や腹につけては、切なく濡れそぼる陰核をより一層いじめ抜かれる。
「あぁ、……ん、駄目……、もう、……もうっ……!」
いつしか、画面の中で喘ぐ西園寺と声を重ねていた。それはもはや、野太い男の声でなく、快楽に屈して泣きじゃくる若い雌《おんな》の声だった。
「天宮月世」といういとしいつがいの腕の中で、純は、男の体を知る女へと生まれ変わりつつあったのである。
「あ、あぁ……、あ……ん……、っ……」
喘ぎに喘ぎながら足をたっぷり開き、愛する男に痴態と媚態とを同時に見せつける。
「あ、……ん、……っ……、く……っ……」
腰をわずかに揺らし、愛撫の続きをしっかりねだる。
正直なところ、純は指でなく、「尻の下で脈打つ熱いペニスが欲しい」と望んでいた。「雌《おんな》の快楽を最大限にまで引き出す、雄《おとこ》の濡れた性器をヴァギナにあてがい、今すぐにでも押し込んでほしい」と願ってもいた。
もしかすると、自分はいわゆる、淫乱──なのかもしれない。
しかし、欲しいのはあくまで、月世の体と心のみであった。たとえば、親友である親切《ちかのり》に求められたとしても、即刻、断りの言葉を返したことだろう。
欲しいのは、月世だけだ。
心身をおびやかす強い飢餓感を打ち消せるのもきっと、月世の他にはいやしない。
クリトリスを、ぎゅ、と圧される。中指の腹で何度も何度も丁寧にいたぶられる。
淫裂の奥から愛液がじゅわっと湧きあふれ、月世の指や陰唇だけでなく、汗の浮き出た太ももまでもをまんべんなく濡らしていった。
愛液の香が、鼻の奥にすっと忍び込む。
欲情しきった雌のにおいを嗅覚全体で感じ、純は、
「あぁ……ん……!」
と淫らに啼いた。泣き濡れた。
「なあ、月世……」
返事はない。
しかし、純はなおも言葉を発する。
「おれ、……お前のちんこが欲しい……。クリトリスをいじってもらうだけじゃ嫌なんだ……。おれの中にお前のものを挿れて、めちゃくちゃにかきまわして、感じるところをいっぱい突いてほしいんだよ……」
クリトリスをなぶる指の動きは、止まらない。
画面の中では、西園寺まりあが気持ちよさそうに、自身の乳房と陰核をなぶっている。
「──挿れてよ。おれの中に月世のちんこ、いますぐに挿れて……。そんで、おれのお腹の中をいっぱいにして、胎のいちばん深いところまでちゃんと犯してほしいんだ。おれ、月世とひとつになりたい……。早く抱いてほしいんだ……」
けれど、指が止まる気配はない。
焦れに焦れた純はとうとう涙を一滴こぼし、
「頼むよ……。おれ、月世が欲しい。すごく欲しいんだよ……」
と泣きじゃくった。
ぽろりぽろりと滴を頬に垂らしては、大声で何度も泣いた。男としてのプライドなど、絶大な快楽の前では塵に等しきものだった。
「俺が欲しいか」
股間から指を離し、月世が静かに問うてくる。
「そんなに欲しいか」
純の右耳に唇を寄せ、小さな声で問うてくる。
「うん……。欲しい。すごく欲しい。おれ、月世と抱き合うことしか考えらんないんだ。お前が欲しくてしょうがないんだ……」
月世は黙っている。細くしなやかな雌《おんな》の腰を、両腕で包み込むように触れながら、黙然としている。
「月世……。早く……。おれ、これ以上焦らされたらおかしくなっちゃう……!」
叱られた幼子のようにぐすぐすと泣きながら、腰に回された月世の腕に、汗ばんだてのひらを重ねた。
欲しかった。月世のペニスだけでなく、彼の心と体を構築するすべての因子が、どうしても欲しかった。
性転換を果たしたばかりの自分に、男の性欲を刺激しうるほどの性的魅力があるとは到底思えないけれど、それでも欲しかった。求めていた。
月世だけが欲しかった。
月世だけに愛されたかった。
年の離れた兄のような存在としてでなく、恋人として、否、妻としてしっかり愛してほしかった。
「頭のてっぺんから爪先まで徹底的になぶり、犯し、辱めてほしい」と願った。祈るように何度も願った。
──愛されたかった。
つがいとして。雌《おんな》として。恋人として。妻として。
互いの心と肉体を納得ゆくまでどろどろに溶かして、ひたすら愛を確かめ合いたかった。
西園寺まりあのビデオなんて、もはやどうでもいい。
純が求めるのは、いまや月世のほかにいない。
尊き支配者にして優しき蹂躙者たる、天宮月世その人だけなのだ。
十八
カメラの前で足を広げ、恥じらいつつも自慰行為に耽る西園寺まりあのことなど、本当にどうでもよい。
彼女のビデオが純の色欲を過剰にかき立てているのは確かであるが、それよりも何よりも、背後から身を抱きすくめてくる月世に欲情していた。
「今すぐにでも抱かれたい」と息が詰まりそうになるほどに願った。一途なまでに、切なく願った。
男であった頃は、彼を性的対象としてみなしていなかった。あくまで彼は、「大事な家族の一員」として純の世界に存在していた。
なのに、なぜだろうか。
性転換を果たした今、月世に抱かれたくて仕方がない。
乳房や背中や腰のみといわず、もっといろんなところに触れてほしい。クリトリスを指ではじくだけでなく、その柔らかな舌で思いっきり舐めしゃぶってほしい。熱を覚えて昂ぶっている男性器を発情して潤むヴァギナに挿入し、締まる膣壁を好きなだけこすり上げ、腰の底に溜まっているであろう精液をたっぷり注ぎ入れてほしい。
──犯されたい。今すぐに。
夢の中で仕込んでくれた雌《おんな》の快楽を、その手で、口で、唇で、舌で、手足で、──ペニスで再現してほしい。
「月世……」
純は、腰やクリトリスを押さえ込んでいた手を離すと、みずから体を動かした。
月世の膝上に乗ったまま、まっすぐ向かい合う。
一般にいう「背面座位」から「対面座位」へと、体位を切り替えたのである。ほかの誰でもない、純みずからの意志で。
眼前に映る月世の顔は、常とほとんど変わりない。どことなく浮世離れしたような風情はまさしく、天宮月世当人を示すなによりの根拠であった。
──しかし。
しかし、彼のまなざしの奥にひそむ光は、ぎらつく熱波のように強烈な彩りを帯びていた。まるで目だけで女を犯し、なぶり、愛するようなとんでもなく凶悪な色が、その両眼にて爛々と輝いている。
「月世……」
もっと深く触れ合いたくて、自分からキスを仕掛けた。
まずは、ついばむような軽いキスを。
それから、次第に唇を重ねる時間を増やし、ついにはディープキスにまでもつれこませた。
「ん……、っ……、はぁ……っ」
息継ぎすらまともにできぬほど、拙いくちづけを施したけれど、月世はこれに応えてくれた。不器用にうごめく舌をあっさり絡め取り、ざらついた表面を先っぽでくすぐったり、先端をきつく吸い上げたりしてくれたのだ。
熱くぬるむ唾液が、少しずつ送り込まれてくる。
誘いをかけたのは純のほうなのに、いつしかリードされていた。口の中だけでなく、頭の芯まで征服されてしまう。
けれど、悪い気はちっともしなかった。
むしろ、「もっと支配してほしい」「もっと求めてほしい」「もっと満たしてほしい」「より強く、より鮮やかに愛して愛して愛し抜いてほしい」と願った。それは、まごうかたなき純の本心そのものであった。
「ん、……ん……ぅ」
セックスよりも淫らなくちづけをひとしきり交わしたあと、月世の唇がゆっくりと離れていった。彼の口許はあふれる唾液で、てらてらと濡れている。
(きっと、おれの唇も月世のものと同じように、いやらしく濡れてしまっているんだろう)
そう意識したら、たちまちのうちに恥ずかしさが募ってきた。
羞恥にさいなまれるあまり、心臓が鞠のように跳ねた。手首で脈など取らずとも、心拍数を計ることができた。
耳裏をめぐる血管の中で、どくどくと血が循環している。それこそが、肉体の興奮を純本人に知らせる何よりの証であった。
性的な昂ぶりを全身で感じている今、体は淫らな変調を遂げている。もはや自力で性欲を制御することができない。完全に勃起したペニスを奥にくわえ込まぬことには、──いとしい男の濃い精液を吸わぬことには、肌を鎮めることなど不可能だ。
愛してほしい。徹底的に。
犯してほしい。野獣のように。
瞳の奥で瞬くけだものめいた光をもっと表にさらして、この欲深な女体を思う存分、屠ってほしい。
そのためなら喜んで屈従する。服従する。
おもちゃのように、あるいは性奴隷のようにひどい扱いをされたってかまわない。
情欲に震える体を放置されるほうが、絶対に辛いから。
そんなの、想像するだけで恐ろしくなるから……。
月世の背に腕を回し、おもむろにぎゅっとしがみついた。鍛え抜かれた広い胸に、柔い豊乳をぎっちり押しつけ、八の字を描くように擦りつけてみる。
「……っ、」
月世の肩がびくりと震える。
けれど、乳肉の摩擦による愛撫は止めなかった。立派な性感帯と化した一対の乳房をきつく押しつけ、男の平らな胸を慈しむようになぶり立てる。
それもこれも、月世の下半身に根づく引き締まったペニスをいっそう硬くし、煽り立て、限界近くまで欲情させるための行いであった。
十九
瑞々しくも未成熟な双乳を汗ばむ胸板に押しつけ、月世の劣情を誘う。そっと彼のペニスに手をのばしたところ、そこはすでにだらりと濡れそぼっていた。
硬さの詰まった頂からは、透明な滴が休むことなくあふれ出ている。
股間の濡れ具合を確かめるために幹を軽く擦り立てたところ、
「…………っ……、」
──月世が小さくうめいた。
あらためて、視線を相手の顔へと移す。ほのかに赤く変色している頬が見えたとたん、ゆえなきいとおしさを胸に感じた。
こんなに硬くしたままずっと我慢しているのは、きっと辛いだろう。
今すぐにでも吐精して、精巣に溜め込んだ蜜を少しでも解放したいであろう。
男性の生理現象に関する知識ならば、いくらでも備わっている。だって、純自身、つい先日までは男だったのだから。
膨張した肉竿に置いたままだった右手を滑らせるように動かし、力を込めて扱き立てる。男の感じる部分を、女の柔らかな手で幾度も攻め立て、射精へと押しやる。
先端から滴る露を硬度を増した幹に塗り込めては、怒張した男根を緩急つけて愛撫する。濡れ光る雄肉を強く弱く自在に揉み込んでは、鋼でできた棒切れのごとくに硬く育て上げた。
「……く、…………っ……」
月世が顔をしかめる。快感に耐えるように。あるいは、すぐにでも達してしまいそうな自身のペニスに力を込めるように。
純としては、「このままじゃ暴発してしまいそうだから」一発抜いてやるつもりだった。月世がどこまで耐えきれるのか、いままで彼と寝た経験がないから未知数だが、早く彼を楽にさせてやりたかった。
「ん………、っ……、」
月世の手を空いた左手で胸に導き、上から押さえ込みつつ、やわやわと揉ませる。ぴんと突き勃った乳首がすべらかなてのひらに擦れて、いやらしい反応を返した。
ただでさえ勃ち上がっていた肉粒が、異性の手による刺激を受けて、淫らがましく起き上がる。
なおも月世の手に自分のそれを重ねては、少し強めに圧を加える。
「あ……、ん…………っ、……」
欲情に濡れた嬌声が、なかば無意識的に喉を擦った。
右手でとらえた雄の象徴が、数度、ドクン……ッ、と高らかに脈打つ。よだれのようにだらだらと蜜液をこぼしては、純のしなやかな手指を盛大に汚してゆく。
「あぁ……、…………」
思わず、喘ぎともうめきともつかぬ声を上げてしまった。甘い吐息を含んだその声は一刻とて止まることなく、純の声帯をいたずらに震わせる。
「あぁん…………」
右手で熟れた肉棒を扱き、左手で月世の手を押さえつける。当然ながら、片手に接した若い乳房を揉ませ、相手の情欲をひたすら誘い込んだ。
「ん……、……」
なぜだろうか。
硬く育ちきった肉と女のふくらみを慰めているだけなのに、切なさが異様なまでに募る。擦るたびに、揉み立てるたびに、女陰に秘めたクリトリスが激しく尖るのだ。
男を受け入れたがって乱れるヴァギナの奥から、たらりと一筋、粘液が漏れる。
ろくに触れられてもいない女性器は、ローションでも塗られたように盛大に濡れ、挿入の瞬間を切に待ち焦がれている。
正直に告白すると、欲情した自分自身の肉体をみずからの手で、あるいは月世の体で愛したかった。解放の時を求め、身を疼かせているのは純とて同じなのだから。
けれど、
──今はとにかく、猛りゆくペニスをかわいがってやりたかった。溜まりに溜まった熱を吐き出させてやりたかった。
「んん……、……っ……」
月世の手に添えていた左手をゆっくりとはずす。
「そのまま、おれの胸を揉んでて」
と耳許で熱くささやいては、右手に握った欲望の証を執拗に扱き立てた。
「あぁ……、……」
かすかに湿った息を吐き出したのは、純でなく、月世だった。整った眉をわずかに寄せた表情がやけに艶っぽく見えて、純はごくりと唾を飲み込む。
ぐちゅ、……ぐちゅ、ぐちゅ……っ、と鳴りわたる粘った水音を耳が拾う。聴覚を通して脳を揺さぶるその響きは、一匹の雌、それもただひとりの雄を求めては飢える雌の本能を一気に奮い起こした。
「あぁ……、ん……っ……」
月世の手の動きに合わせて、赤黒い肉茎を扱く。グロテスクなまでにふくらみきったそれに触れているだけなのに、熱をはらんだ淫裂がいちじるしく収縮する。
早くくわえたい。
雄の劣情を熱っぽい膣壁で柔くくるんで、さんざんこすっていじめ抜いて、射精させてしまいたい。
精を吐き出す肉竿を潤む内壁で抱き込んで、さらなる締めつけを加えて、一滴残らず自分の体内に収めてしまいたい。
「あ……、あぁ……、んぅ……っ……」
右手で熱くぬかるむペニスをつかみ取っては、硬さを増した亀頭を軽く押しつぶす。
「……ほら。いつでもイっていいよ……」
耳孔に、ふ、と息を吹き込みながら、すっかり熟れきった勃起を扱き立てる。「ぐにぐに」という擬音が似合いそうな強い圧迫感を、悩ましく濡れた陰部に教え込んでは、月世のペニスを一途に愛してやった。
二十
一段と硬さを増した男性器が、柔らかな手指による刺激を受けて、濃い蜜を滴らせる。一度、二度と擦り立てるたびに、粘りを帯びた滴が湧き水のようにあふれ、女の手を確実に濡らしていった。
「ん……、……っ…」
潤んだ吐息をしきりに上げながら、純は発情した肉棒を一心に揉み立てた。
ビクビクと震える肉茎をてのひら全体で包み、その幹をひたすら擦り上げる。一瞬たりとて休むことなく、男の性器を手で攻め立てる。
「出して、いいよ……?」
耐えるように唇を噛む月世の耳へと、そっと誘惑の声を吹き入れる。女陰の奥で疼く肉芽をそれとなく感じながら、硬く発情したペニスをひたすら指で慰めた。
「……っ、……」
射精の瞬間が迫ってきているのだろう。月世の身に力がこもった。
喘ぐように息づく男性器が、より雄々しく猛り勃つ。
手淫を施す女の手の中、劣情を覚えた雄がよりいやらしくかたちを変えていく。
「んん……っ、……」
勃起するクリトリスがさらに尖りゆくのを意識しつつ、継続して指扱きを行う。
重くこぼたれる粘液をふくらんだ亀頭や勃ちきった幹に塗り込めては、精の吐出を熱心に促した。
「あぁ……、ん……」
手のうちで悶えるペニスが、ドクン、ドクン、と跳ねるように脈を刻み、細かに打ち震える。強い快楽を示す雄のしるしが、粘った滴にまみれてゆく。
「ん……、っ……」
純の唇から、潤んだ吐息がひとつ漏れた。
足の間にひそむ蜜壺までもが淫らに濡れて、透き通った愛液をだらだらとこぼす。
「あ……、ぁ……っ」
親指の腹を用いて、鋼のように硬くなった亀頭を一度軽く潰す。
とたん、てのひらに擦られた肉茎が、ビクンと素直な反応を返した。
「あぁ……、」
──男の器官を指だけで愛撫しているのに、なぜか、女性器までもが卑猥な熱にまみれた。
柔く尖るクリトリスはすでに、多量の愛液を帯びている。月世の射精を待つより先に、自分のほうが達してしまいそうだ。
実際、足の間に息づく肉壺は、反り返った陰茎を飲み込みたがって荒れていた。あるいは、乱れきっていた。
月世が純の股間へと手をのばす。
かたちの整ったひとさし指が、よく濡れた陰核をなぶるように犯す。
「あ、ん……っ」
高い嬌声が飛び出る。
飢えを感じて乱れる急所を重点的に攻められるだから、たまらない。
肉欲に基づく快感の波が、理性をなくした頭の中でさかんに煮え立つ。快感の疼きはもはや、クリトリスだけでなく、艶やかにしなる肉体そのものをおびやかしていた。
「あ……、は、……ぁ……っ」
幼い細腰を誘うように揺らめかせる。右手でペニスを愛しては、体液の分泌を促進させる。
それから、さらに数秒ほどが経過したのち、
「ん……、っ……」
──手中のペニスが、狭い間隔で脈を打ちはじめた。
それを悟った純は思いっきり力を入れて、幹を擦り上げる。
と。
「あぁ……、ん……!」
ドクッ、という強烈な響きが、女の薄いてのひらを通して、五体全体へと伝わった。頼もしさすら感じさせる立派な男性器をこすり上げつつ、
「ああ……、ん……。も、もう……」
と喘ぎを散らす。
限界を間近に迎えつつあるのは、純とて同様であった。
「ん……、っ……」
右手の動きを極限まで速め、膨張したペニスに淫らな刺激を与える。手指に伝わる淫猥な快感が火照った女性器にまで響き、熱い蜜を垂らすヴァギナめがけて、さらなる熱を植えつけた。
こする。揉む。擦る。擦り上げる。濡れそぼった右手をひたすら動かす。一瞬たりとて愛撫を止めずに、勃起した雄肉へと強い刺激を送り込む。
そして、
──根元から一気に扱き上げた瞬間。
「あぁ……、ん……っ」
硬くこわばったペニスから、濃厚な白濁液が噴き上がった。
二十一
クリトリスを攻めていた指が、音もなく離れた。
「あ……、……っ」
突然、視界がおおきく揺らいだ影響で、純は思わず、軽い悲鳴を上げた。
視線の先に、闇と同化した天井が見える。
背中に当たる布団の感触から、「一息に押し倒されたんだ」と悟った。
抗う隙すら与えられぬまま、閉じた足を大きく割り開かれる。
これまた性急な調子で、月世が両股の間に身を滑らせてくる。
「……っ、……」
彼は喘いでいた。
黒々とした両眼に強い情欲を反映させては、喉を、胸を、声を、けもののように喘がせている。
「月世……」
名を呼んだまさにそのとき、細くのびた両足をさらに大きく開かれた。
いとしい男のすぐ目の前に、裸体を、痴態を、濡れた女性器をさらしているのだと感じた瞬間、薄い茂みに隠れた蜜壺が嘘のように潤いを増した。
よく灼けた熱塊が発情した女陰にあてがわれる。
鋼鉄のように硬いペニスで尖りを帯びた肉芽をいくたびも擦られ、純は、
「あぁん…………っ!」
と背を反らして啼いた。何回も啼いた。
絶え間なく蜜をあふれさす女壺が、密着する雄を吸い込みたがって収縮を開始する。男の欲望を受け入れる準備ならば、もうすでにできあがっている。
「……来て」
淫らな声で誘いをかけた。
「おれの中に、お前の精子、いっぱい出して……」
──そして、
待望の瞬間が──。
長い間、待ち焦がれていたその時がようやくやってきた。
ずちゅっ、と盛大な淫音を響かせて、灼熱の楔が柔襞の合わせ目にめり込む。
まずは先端だけを、馴らすように入れられた。開ききった割れ目の真上を、ふくらみきった亀頭部分が何度も行き来する。
「あ……、あぁ……、ん……っ……」
浅瀬をこすり上げるその動きに絶対的なもどかしさを感じ、純はやおら腰を振り立てた。「露をこぼす頂だけでなく、膨らんだ亀頭や筋を浮かべてたぎる幹まで飲み込みたい」と願うあまり、いやらしく腰を振ってしまったのである。
しかしそれでも、深い挿入は望めなかった。
確かに、硬く濡れた陰茎が胎内にもぐり込んではきたのだが、それは入り口付近をわずかに刺激するのみで、奥までもは突かなかったのである。
「駄目……。奥、……奥まで……、して……」
頑なに腰を揺らし、本能のままねだりを入れる。
けれども、男の熟れた肉棒は、蜜を生む肉壺をほんの少しかすめるのみだ。悶えるようにうごめく濡襞を気まぐれにかすめるばかりで、一向に最奥を穿とうとしない。
「あぁ……。嫌だ……」
足の間がやたら疼いた。
徹底的な焦らしに屈した女体はいまや、雄肉のすべてを受け入れたがる器と成り果てている。
──欲しかった。
もっと奥まで犯し抜き、肉質の凶器とも呼べる勃起を用いて、膣内全体を満たしてほしかった。
「もっと、奥……。奥まで、突いて……」
月世が腰を前後させ、純の体をわずかに揺さぶる。
けれども、それは決定的な刺激には程遠い行為である。浅いところだけを攻めるその律動は、純の心に生まれ出た飢餓感をますます肥大させただけであった。
「あぁ……、駄目、……もっと、奥に……来て……」
いっそ激しく犯されたなら、どんなにか良かっただろう。
どんなにか、幸せな心地になれただろう。
「もう、……駄目……っ……」
浅瀬のみをいじめる動きに耐えかねて、つい、
「奥まで来て……!」
と大声でねだってしまった。
さんざん男と交わった結果、純は、心身ともに、「肉欲と色欲をもてあます一匹の雌」に変わり果ててしまったのである。
男であった頃の自分が、遠い過去のまぼろしのように思える。
夜中に目覚めるまでは男性として生きていたのに、それまでの自分がもう思い出せない。
「あぁ……。突いて……。お願い、奥を突いて……っ……」
大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、淫らな願いを口にする。
みずから腰を振り、ほんのわずかでもペニスを中に引き入れようとするさまは、発情期の雌猫のようにいやらしい。
硬く張った亀頭が、ずちゅずちゅと悩ましい音を上げつつ、処女の割れ目をなぶる。乱す。こすり立てる。
濡れたヴァギナが脈動するペニスを飲み込みたがって収縮するが、それでも決定的瞬間は訪れそうになかった。
「駄目ぇ……。突いてほしいのに…………」
長く焦らされた末、快感の疼きにまたも屈し、ひとり涙する。
「欲しい」と思った。
「艶やかな滴で潤う男性器をもっと奥まで挿入してほしい」と、ひとしきり願った。
二十二
たび重なる快楽責めを強いられた末、純はとうとう嗚咽を漏らした。
大きく開いた足の間に、愛する男の肉体を招き入れたまま、
「駄目……。奥を、……突いて……」
と懇願の声を繰り返す。気が触れたように何度も、何度も。
濡れに濡れた女性器を、硬く張った男根で執拗にもてあそばれる。焦らされ、犯され、啼かされる。
屈辱と羞恥に爪先まで震わせ、
「早く……」
と、再びねだりを入れる。
──挿れてほしい。
奥の奥まで征服してほしい。
腰の底に溜めている熱い精液で、欲に溺れた膣を汚してほしい。
「全部、挿れて……っ……!」
恥もプライドも投げ捨てて、大声を上げた。
涙の筋が、頬を伝う。
と。
一瞬の沈黙が二人の間を横切ったまさにその時、
「あぁ……、ん…………!」
月世が腰を思いっきり進めた。
カウパーまみれの生ぬるいペニスが、潤んだ孔を、処女の秘め拠を一気に貫く。
あまりにも淫らで熾烈な衝撃に、純は背中をしならせ、
「あぁ……、っ……」
と高い声を上げた。
ようやく。
ようやく、入ってきた。月世のすべてが。いとしいつがいの象徴が。
「はぁ……、ん……」
雌《おんな》の本能に突き動かされるまま、広い背に腕を回し、しっかりとしがみついた。
耳許で月世が笑う。ふ、と息のみで笑う。
「──動くぞ」
低いささやき声を耳でとらえた瞬間、強い律動が突如として始まった。
「あ、あぁ……、……っ……」
淫らがましい腰遣いを五体で感じ取る。
ぐちゅ、ぐちゅ、と粘った水音が鳴りわたるたびに、えもいわれぬ快感が加速度的に高まっていく。
極限まで昂った幼い女体はいまや、どこもかしこも大量の汗にまみれている。腰を振るたびに、振らされるたびに、劣情のほどがひどくなり、肉欲と色欲に屈した心を大いに翻弄した。
「……っ、……あぁ……、ん…………」
幼子のように泣きながら、身も心も熱くする。みずから腰を振り立てては、月世のもたらす律動を従順に追いかけた。
目を閉じる。
けれど、背に回した腕は解かない。全身を襲う激しい情欲に涙を流しながらも、腰の動きは止めない。止めるつもりもない。
「あ、……っ、はぁ……、……ん……っ……」
張りのある大きな乳房が、ふるふると震える。律動をひとつ、またひとつ加えられるごとに、乳肉が揺れる回数も増えていく。
勃起する肉粒を厚い胸板で擦られると、腰の奥がいやらしく疼いた。普段は意識すらしないその場所は、異性による愛撫を求めて甘やかに痺れている。
「あぁ……、もっと……」
闇に閉ざされた部屋の中、純の声が響いた。欲に溺れ、欲にひれ伏し、欲に泣き濡れる女の声が。
腰が揺れる。
吐息が芯から濡れてしまう。
呼吸の乱れを整えるすべなんて、もはやどこにも見つからない。
「あぁ……、……っ……」
身に染みる切なさに飲まれ、一度、大きな喘ぎをこぼした。
硬い肉茎を頬張った膣壁で、淫らな摩擦を幾度も味わう。欲深な心と体が、絶頂感と一体感を欲して、嵐のように荒れ狂う。
「もっと……、突いて……」
意味をなさぬ涙を目にあふれさせては、腰を振り、男の欲を煽り立てる。
小刻みに揺れる下肢もまた、尋常ならざる熱を覚え込んでしまっている。
「いい……、気持ちいい……!」
目を開ける。
一面の闇の中、月世の顔が見えた。雄だけが知る快楽を、あまさず堪能している男の顔が。誰よりも何によりも固い絆で結ばれた、愛すべきつがいの顔が──。
「あぁん……」
膣壁に抱き込まれつつ膨らんだペニスが、ドクッ、ドクッ、とたしかな脈動を刻む。
絶頂の予感を肌で悟り、純は、
「あぁ……」
──情欲を含んだ吐息を思わず漏らした。
ぐちゅ、ぐちゅ……っ、と、湿った音が続けざまに鳴った。我慢汁と愛液が絡み、混ざり、ひとつに合わさる音だ。
「あぁ、もっと……、突いて……!」
みずから腰を振り、狂ったように喘ぐ。
淫猥な熱に冒された女陰が、──純潔を散らされたばかりの女陰が、硬く勃ち上がったペニスを隙間なく抱き込んで、蛇のようにうねり出す。
「ん……、ぁ……、いい……。すごく、いい……」
律動が速まる。
互いの口から漏れ出る呼吸が盛大に乱れる。
「あぁ……っ……、ん……っ……」
腰を振る。
性の極みを手にするべく、一心不乱に腰を振る。振り乱す。
──そして。
「あぁ……、っ…………!」
ドクン…………ッ、と。
射精による熱い衝撃が、喘ぐ女体を存分に犯した。
「あぁ、…………あぁん…………!」
指先まで痙攣させながら、純は絶頂する。
愛する男とともに頂へと駆けのぼったのだと思うと、それだけで、言葉では表現できぬほどの快感が湧いてきた。
重々しく垂れる闇のさなか、二人分の濡れた呼吸音が響く。
夜明けの訪れは、いまだ定かでない。
第三章
一
柔い光をまぶたに感じ、純はゆっくりと目を開けた。障子を透かす朝の日射しは、木造の明るい天井を照らしている。
「ここは……」
呟いた瞬間、胸中に微細な違和感を感じた。針の先ほどの小さな、だけどとても気になる違和感。
「おれ、ゆうべなにを……」
──と、そこまで言ったところで、純ははっと息を飲んだ。
「そうだ。おれ、月世と……」
続く言葉はあえて口にしなかった。
言えるはずがなかった。長い間兄のように慕ってきた男に抱かれたのは事実であるが、それを認める勇気はすぐには持てない。
純は混乱した。困惑もした。
だって、自分は月世にとってきょうだい同然の存在なのだ。家族みたいなものなのだ。
なのに──、寝てしまった。
……抱かれてしまった。
「マジかよ……」
上半身を起こす。
肩を落としてうなだれる。
外から聞こえてくるスズメの鳴き声は、朝の訪れを爽やかに告げている。
「そういや、おれ、裸じゃねえんだな」
前の晩、衣服を脱いで交わったのに、いまは普段愛用している群青色のパジャマを着ている。
(たぶん、月世が着せてくれたんだろうな。あいつ、変なところで優しかったりするから)
静かに腰を上げ、布団を畳み、ハンガーにかけた制服一式へと視線を移す。
けれどそこにあったのは、昨日まで着ていた男子用の制服ではなく、女子用のものだった。赤いリボンが愛らしい、清楚かつ可憐なセーラー服である。
(あれも月世の奴が用意してくれたんだろうな)
いくらか落ち着きを取り戻した頭で、そう結論づける。朝の光が瞳に染みる。
ゆうべは激しく交わった。交尾のように本能的なセックスをした。発情期を迎えたけものよりも濃厚に睦み合った。互いの肉体を、文字どおり、貪るように味わい尽くした。
体の表面にもその内側にも、月世の体温がいまだ根強く残っている。膣内に放たれた精液の温度も鮮明に覚えている。
身も心も魂すらも奪い合うような、きわめて密度の濃い交わりであった。極限まで感度を高められた末に含まされた男の精は、蜜の味よりも甘かった。
「月世……」
思いがけなく、呟きが漏れる。
答える声はここにない。耳に入ってくるのは、小鳥たちの騒がしい鳴き声ばかりである。
「……とりあえず、挨拶にでもしに行くか」
とにもかくにも食堂に行き、朝食を腹に入れなくては。
二、三度大きくのびをしたあと、純は一歩踏み出した。
きらきらと照る日の光が、やけにまぶしく感じた。
二
一階に降りて食堂に向かった純は、部屋に到着するなり眉をひそめた。
いつもならば、すでに食事の準備を終えた月世の姿がここにあるはずなのだが、今朝はどこにも見当たらないのだ。ぴかぴかに光る冷蔵庫の横や、漆器の収まった食器棚の裏、果てには勝手口を開き、その先に続く裏庭などを調べたのだが、期待した結果は得られなかった。
ヒノキを用いて作られた四つ足の食卓の上には、おにぎりの載った平皿と一通の白封筒があった。
「なんだ、これ」
封蝋《ふうろう》の施された封筒を丁寧に開け、中身を取り出す。
出てきたのは、四つに折りたたまれた白い便せんだった。
「えっと……。『純。俺はしばらく家を出る。当分の間、ここには戻らないからそのつもりでいろ』って──、え?」
純は言葉を失った。まるで背後からいきなり頭を殴られたような、とんでもない衝撃を体に受けたような気がした。
もっとも、これまでの人生において誰にも殴られたことがないので、それは空想の産物でしかないのだが、その話はひとまず横に置いておこう。
今ここで問題にすべきは、月世の不在だ。その他に気にすべきことなどあろうものか。
「月世が、消えた……?」
呆けた声が無意識のうちにこぼれ出る。
無理もない。
彼が家を空けることなど、まったくもって珍しいことなのだから──。
「なんでだよ。なんで、おれを置いて行方をくらますんだよ……!」
ショックで揺らいでいた心が冷静さを回復するにつれ、苛立ち混じりの怒りがふつふつと湧き上がってきた。
「何考えているんだよ、あいつ……」
やがて、純の胸にひとつの想像が兆した。
もしかすると、自分が気まずさを感じているように、月世も罪悪感に苛まれているのかもしれない。「つがい」という名の絶対的な縁《えにし》で結ばれてはいるが、二人はこれまで、相手に欲情した経験がないのだ。
純は月世を年の離れた兄のように慕い、月世はずっと純を庇護してきた。
互いの間にあったのは、限りなく家族に近い、無垢で素朴な関係性のみであった。
しかし、ゆうべの情交を境に、大きな変化に飲み込まれた。
仲の良いきょうだいのように親しく平和に付き合ってきたのに、欲を覚えてしまった。野に棲むけものよりも淫らに大胆に、肌を重ねてしまった。
昨晩の自分がそうであったように、月世も目に見えて発情していた。雌と対をなす雄として、純に接していた。
あんなに熱っぽい表情をした彼を見たのは、初めてだった。
「月世……。おれを置いてどこに行っちまったんだよ」
答えを返す存在がおらぬ今、疑念ばかりが募りゆく。
──まったく。
あいつったら、どこに行ってしまったんだろう?
三
爽やかに光る朝空の下、純は私服に着替え、外に出た。厚手のダッフルコートに空色のジーンズを合わせた、きわめてラフな格好である。
性転換を果たしてから三日が過ぎたが、積極的にスカートを履く気にはなれなかった。女子用の制服を着るようにはなっても、心までもが女になったわけではないのだ。
──女になった。
だけど、心の中にはいまだに男性的な部分が残っている。根づいている。完全な「女性」なることを拒否したがる自分が、胸のどこかに潜んでいる。
純はやはり、混乱していた。男と女、二つの性の間で激しく揺らいでいた。体の性に心の性が追いつかなくて焦っていた。惑っていた。
世に暮らす他の絶対女性体《オメガ》たちのことが知りたくて、図書館で、彼ら──否、彼女らへのインタビュー集を借りた経験がある。他の絶対女性体《オメガ》の心理をどうしても知りたくなって、それで目を通す気になったのだ。
「絶対女性体《オメガ》」という共通項があれど、彼女らの境遇はそれぞれ大きく異なっていた。
いずれ女になる体を抵抗なく受け入れた者がいる。
「男のままでいたい!」と強く願った者がいる。
女性化を終えたのち、笑顔でスカートを履いた者がいる。
女になったその日の朝に、自殺を図った者がいる──。
分厚いその書を読むなかで、純はある法則が働いていることに気づいた。
家族や友人など、近しい関係にある人間たちの感情が、絶対女性体《オメガ》の心に深い影響を及ぼしていると悟ったのだ。
性に対しておおらかな親の下で育った子どもは、自分の肉体の性を素直に受け入れる。
けれど、絶対女性体《オメガ》に対してマイナスイメージを持つ養育者の下で育った子は、大抵、「男らしさ」に固執するのだ。
もちろん、例外もいくらか確認できたのだが、その数はごくわずかに過ぎなかった。両手の指はおろか、片手の指で足りるほどの数しかなかった。
幸いにも、純は環境に恵まれていた。実家にいる家族も天宮家の人々も友人たちも、絶対女性体《オメガ》という特殊な性を忌避してはいない。
体の性が理由で、いじめを受けた記憶はない。
十数年にわたる人生の中で、差別を受けた記憶もない。
女性化しても一人称は「おれ」で通しているが、そのことをからかったり皮肉ったりする卑劣な輩は周りにいない。ただのひとりとして、いやしないのだ。まさに破格の待遇といえる。
伝え聞いたところによると、国によっては、絶対女性体《オメガ》を迫害するところもあるそうだ。
そして、性に関連する差別が禁止されている我が国においても、絶対女性体《オメガ》を蔑視、あるいは敵視している者は存在しているらしい。
「定期的に発情しては男の精を求める」という彼女らの肉体的特性を厭う者は、日本国にもわずかながら存在している。
それは書物やネットを通して知った、この国の暗部でもあった。
四
朝の街をさまよう一方、純の気分は果てなく落ち込んでいた。月世の奴、どうしておれの前から姿を消したんだろう?
「参ったな……」
冷えた顔をややうつむけながら、弱音を吐く。
普段の自分はもっと楽天的であるはずなのだが、今回だけはそういった振る舞いができずにいた。
絶対女性体《オメガ》たる自分に、さして特殊な力などない。「必ず性転換する」という特性はあれど、それが理由で得したことはない。完全男性体《アルファ》のように魔術の才に長けているわけでもない。
ひとけのない道端で、純は小さく息を吐いた。
寒風の吹く七吹を隅から隅まで調べてみたが、期待した結果を得るには至らなかった。
「弱ったな……」
荒れる息はそのままに、純は小声で呟いた。かれこれ二時間は経過しているというのに、目標を発見することすらできなかったのだ。
鬼流川の上に架かる網連橋《あみつればし》を何度も往復する。
その間、多くの人々が橋を渡ったけれど、やはり月世の姿は見つからなかった。
欄干に身を寄せて、
「……どうしたもんかな」
腑抜けた声でひとりごちる。
──と。
そのときだった。
「あれ? もしかして……、あの子、純なのかな?」
「どうしたもこうしたも。渡良瀬だろ。あいつ」
耳に覚えのある声を二つほど聞いた。どちらも級友のものである。
「まさか」と思いつつ、ゆっくりと視線を左に流す。
清潔なコートを着た少年と黒髪を垂らした少女がこちらを見て、なにやら話し込んでいる光景がちらりと見えた。
「まさか……」と期待に胸を膨らませたそのとき、寄せては返す人波をかき分け、二人組がこちらへと歩み寄ってきた。
純は軽い驚きに打たれ、
「あっ……!」
と短い声を上げた。
「やっぱり……。やぱり、純だ!」
満面の笑みを浮かべる親切につられ、純もまた、輝かしい笑みを返した。
月世の不在がいまだ胸に引っかかっているのは確かだが、悩んだところで問題は解決しない。家族同然とも呼べる存在が突然行方不明になるなんて、不安しか感じないが、ひとまずは忘れよう。
今は、友人と話すほうが大事だ。もしかしたら、思わぬ情報が手に入るかもしれないし。
「おはよう、純」
はじめに挨拶をしてきたのは、親友の親切だった。にこやかな表情はそのままに、ゆったりとしたしぐさで会釈をしてくる。
「……おはよう、渡良瀬」
彼の隣に立つ少女もまた、浅く頭を下げた。
はらりと揺れる黒髪が美しく日に映えつつ、彼女の肩に載る。
「チカに進藤か。おはよう」
「うん、おはよう」
「……おはよう」
純、親切に続いて、進藤が挨拶をする。若干頬を赤らめているのは、学校指定のセーラー服を着ているためであろう。
むろん、彼女に確認を取ったためしはないのだが、純には今の進藤の心情が手に取るようにわかった。女になって戸惑いを感じているのは、自分とて同じなのだから──。
「ところで、なんで二人とも制服を着ているんだよ。今日、学校は休みだろ」
すると、進藤がきまり悪げにうつむいた。
「俺、こないだの小テストで平均点行かなかったんだ。だから補習を受けに行ってたんだよ」
「チカもか?」
「ううん」
親切が笑いながら否定する。「僕は満点近く獲れたから、補習は免除されているんだ」
「お前、昔から成績いいもんなあ」
「これで体が丈夫だったら最高だったんだけどね」
「気にすんなって。チカはいまでも十分最高だよ」
気休めでも励ましでもない、本心に基づく言葉を純は声にあらわした。
五
純たち三人はしばし橋上で立ち話をしたあと、七吹の中心部に建つ外装の美しい喫茶店を訪ねた。
自分としてはあのまま橋の上で話し込んでもよかったのだが、
「ちょっと純に伝えたいことがあるんだ」
という言葉を親切の口より聞かされたため、場所を変える気になったのだった。
それに、季節は冬──氷のように冷たい風が吹く時季でもある。用心するに越したことはない。
「三名様ですね。では、こちらのお席にどうぞ」
清楚な雰囲気のウェイトレスが案内したのは、窓際に配置された四人掛けのテーブルだった。
日頃からよく手入れを施されているのだろう。天板にはわずかな傷すら付いていない。まるで太陽を浴びた宝石のように、きらりきらりと輝いている。
「綺麗な店だな」
進藤がきょろきょろと店内を見回す。
「……初めてなのか?」
純が問うと、彼女は、
「ああ」
と短く返した。
「俺、根っからの庶民だからこういう高そうな店に入ると緊張しちまうんだ。いつもは近所のバーガーショップぐらいにしか行かねえから」
「何もかしこまる必要はないと思うけど」純は言った。「ここのコーヒーはうまいんだよなあ。値段以上の価値は絶対にあるはずだぜ」
「ランチセットもあるけど、それも高くて七百円ぐらいだからね」親切もまた、会話に混じる。
「七百円か……。だったら、俺のおこづかいでも大丈夫だな」
進藤がようやく、ほっとしたような表情を見せた。
外は晴れているというのに、中は少々薄暗い。天井よりぶら下がっているシャンデリアが絶えず光を投げかけているが、内部全体を照らすには至っていない。
静かな店内を、トランペットの力強い響きが満たす。店の中にいる客は、どうやら自分たち麗門生《らいもんせい》三人組の他にはおらぬようだ。
「ああ……。ちょっと腹減ったなあ」
言いながら、純は服の上から腹をさすった。我ながら情けないとは思うのだが、実際に空きっ腹を抱えているのだから仕方ない。
「あれ? 月世さんが用意してくれているんじゃなかったの?」
親切がきょとんとした面持ちで問うてくる。
「うん、まあ……な」
要領の得ない返事をしつつ、純はにこやかに笑み返す。胸の奥にしまい込んだはずの焦りや不安を必死に隠しては、
「あいつ、いきなり姿をくらましやがったんだよな」
と明るく言い放った。
けれど、いくら元気なふりをしたところで焦燥感は消えない。むしろ、湧き水のごとく、さかんにあふれ出てくる一方だ。
(へらへら笑っている場合じゃないってのに、おれったら何をやっているんだろう)
空の下のどこかにいるであろう月世を探し出さないといけないのに。早く迎えに行かなくちゃいけないのに──。
空腹に悩まされているのは動かしようのない事実であるが、それよりも何よりも月世の不在が気になった。親友が目の前にいても、考えるのは月世のことだけだ。つがいとしてこの世に存在する、いとしい相手のことだけだ……。
純は口を閉ざした。
二人に打ち明けたいことならいくらでもあったのだけれど、どこから切り出せばよいのか、皆目見当がつかなかった。
それに、月世の姿を見失って困惑する自分の姿を、これ以上さらけ出したくなかった。「見栄を張って強がったところで問題は解決しない」と自覚してはいるのだが、今は誰の助けも借りたくなかった。
不安や焦りを底上げしているのは、何も月世の件だけではない。
性転換を終えた自分を見て、二人はどう思っているのか。うわべでは変わらずに友人、あるいは級友として親しく接してくれているが、実際のところはどうなんだろうか。内心、戸惑っていやしないだろうか──疑念が積もるにしたがって、緊張で喉が渇いてくる。
「さっきからなんだか、そわそわしているように見えるけど……。純、もしかして具合でも悪いの?」
「んなことねえよ」純は即答する。
「本当に?」
「本当だって」
「ほんとかよ」
先に運ばれてきたパンケーキを食していた進藤が、おもむろに言葉を挟んできた。
「今日の渡良瀬、なんかちょっと様子が違うように見えるぜ。……なんかあったのか?」
「ねえよ、なんにも」
言いながら、純は目線を横に逸らした。
窓の外には人も車も通っているが、通行人の声も車両の出す排気音も店内までには響かない。
「ねえ、純」
親切があらたまったように、声を低める。
「僕の勘違いかもしれないけれど、今の君、かなり焦っているふうに見えるよ。無理に聞き出すような真似はしないから、よかったら、その理由を僕たちに教えてくれないかな」
純はうつむいた。
六
「……いなくなったんだ。月世が」
「行方不明になったってこと?」
「ああ」
うなずきを返すと、親切の表情が目に見えて曇りをなした。
「『しばらく家を留守にする』って書き置きだけ残して、おれの前からいなくなったんだ」
──こないだは、あんなに激しく抱いてくれたのに。
続く言葉を、純はあえて飲み込んだ。
体の性が女になっても、心はいまだ男としての矜持を引きずっている。
人によっては、その心情を「未練がましい」と非難したりもするだろう。あるいは、「自分の体の性をしっかり受け止めたらどうだ」と揶揄する者もいるかもしれない。
進藤が女性になったあの日、純は、「女になったからって悲観することはないよ」と言った。笑顔で告げた。
しかし、いざ自分が女性化したら、そうも言っていられなくなった。体の性と心の性がうまく嚙み合わなくて混乱した。少しだけ落ち込んだりもした。
幸いなことに、性転換を果たしても周囲の人々は純に優しく接してくれた。月世も親切も進藤もクラスメイトたちも、純の身を労わってくれた。
だけど──、それでも心は「男であること」に固執している。長年付き合ってきた「男」という性に、並々ならぬこだわりを持っている。
「……チカ」
「何?」
「おれ、さ。ちゃんと女の子に見えているかな?」
「見えているも何も、しっかり女の子になれているよ。今の君を見て、男の子だと思う人は多分いないんじゃないかな」
純は、ふ、と息のみで笑った。「自嘲めいた笑み方だな」と我ながら思った。
窓外には晴れた空が広がっている。高みに続く、美しい空が。
「おれ、不安なんだ。進藤には『もっと前向きになろうぜ』って言ったくせに、いざ自分が女になったら戸惑ってばかりいるんだよ」
「だろうな」
進藤が相槌を打った。「昨日まで男だったのに、いきなり女になったんだ。誰だってそうなるに決まっているさ」
「けど、進藤、おれはお前に発破をかけたんだぜ? あの日、おれはお前に『悲観なんかするなよ』って言ったのに──」
「そのことなら気にしなくていい」進藤が言った。「渡良瀬が俺を元気づけようとしたことなら、理解している。……だから、気にしなくていい」
「でも……」
「純」
親切が名を呼んだ。
「僕はね、君が女の子になっても友達でいたいと思っているよ。だって、純、君には強い魅力があるからね。それは、クラスの皆もここにいる進藤くんも承知していることなんだよ」
「でも……」
「大丈夫だよ」親切が朗らかに笑う。
「君が男の子であろうが女の子であろうが、僕たちは変わらない。世の中には絶対女性体《オメガ》を嫌う人もいるけど、僕たちは違うよ」
いつもは控えめな彼らしからぬ物言いであった。
純はまたしてもうつむいた。
窓から入るまぶしい日射しが、オムライスの載った平皿を鮮やかに輝かせる。
「……そういえば、チカはなんで学校に行ったんだ? 今日は休みのはずなのに」
「花壇の手入れをするために登校したんだよ」
純はうつむけていた顔を親切に向けた。
「そっか。そういえば、チカは緑化委員だったんだっけ」
親切が浅くうなずく。
「わざわざ休みの日に水やりに行くのは、僕ぐらいのものだけどね」
──とそこまで言って、彼は、「ああ、そうだ」と思い出したように呟いた。
「そういえば、僕、伝言を頼まれていたんだよね」
「伝言? おれに?」
「うん。時田さんが君に会いたいそうなんだ。理由は教えてくれなかったんだけど、とにかく君に会いたがっているんだよ」
思わぬ人物の名前を耳にし、純は思わず、「時田が……?」と聞き返した。
七
太陽が真南に差しかかる頃、純はひとりきりで校内に入った。定期考査が近いためか、中にいる学生は驚くほど少なかった。
普段は運動部部員の声が聞こえたりするのに、今日にかぎってはまったく耳に入らない。補習帰りの生徒だって見当たらない。一階も二階も、そして三階もほぼ無人だった。
「この先にあいつがいるんだな」
ひとりごとを口にのぼらせながら、純は屋上につながる階段を見上げた。
「いつもは鍵がかかっているはずなんだけれど……」
しかし先刻、親切は、「時田さんが屋上で待っているみたいなんだ」と言った。我が耳が信じられず、何度か確認を取ったが、同じ答えを彼は繰り返した。
──時田奏。
思えば、彼女に関する情報はほとんど知らない。純も近く、十一組の一員に──絶対女性体《オメガ》ばかりを集めたクラスの一員になる予定なのだが、時田奏とはさほど親しくはない。会話した回数だって、一、二回ほどしかないのだ。
二組の皆にそれを伝えたところ、ほぼ全員が似たような反応を見せた。「時田さんって、めっちゃ有名人だよ! 純、マジで知らないのか!?」と驚きの声を上げたのだ。
顔がよくスタイルも抜群で、なおかつ成績も運動神経も優れているゆえ、時田に恋する男はそれなりにいるらしかった。ついでに知ったことなのだが、彼女に憧れている女の子もそれなりにいるそうだった。
要するに、時田は、スクールカーストの頂点に君臨しているのだ。
絶対女性体《オメガ》なのに、完全男性体《アルファ》並みの知力と体力を備えている。しかも、卑屈な態度を決して取らない──そんな特性を持っているからこそ、時田は学内の人気者として名を知らしめている。
とはいえ、純は彼女に恋心どころか、関心すら持っていないのだけれど……。
「──行くか。ここであれこれ考えたって、どうにかなるわけじゃないし」
汚れの少ない階段をひとつひとつのぼっていく。上履きの立てる柔らかな靴音が、不自然なほど静かな校内にかすかな響きを添える。
「あいつが月世の行方を知っていたらいいんだけどな」と思いながら、階段をのぼる。屋上との距離が狭まるにつれ、鼓動の強さが増していった。
そして。
──キィ、と。
屋上に続く扉を開いた。
「待っていたわよ、渡良瀬くん」
その先に佇んでいたのは、たしかに時田奏本人であった。
八
レガリアを彼方に戴く冬空の下、制服に身を包んだ時田奏と向かい合う。
両者の距離はおよそ五メートルほど。一歩踏み出したところで相手に触れ得るはずもない。
季節は冬──吐く息すら凍りそうなほどに寒いはずだ。
なのに、時田は寒がるそぶりを見せずに立っている。どこぞの有力貴族のように余裕めいた表情を浮かべては、屋上に到着した純を見つめてくるのだ……。
「チカから聞いたよ。おれに用件があるんだってな」
単刀直入に話を切り出すと、彼女ははっきりと、
「ええ、そうよ」
と答えた。淡雪色の髪をさらりとなびかせるそのしぐさは、果てなく優雅で麗しい。
「一度、あなたと二人きりで話をしてみたかったの。誰にも邪魔されない場所でね」
純は大いに訝った。時田とおれの間に接点なんてほとんどないのに──あるとしたら、第二の性ぐらいのものなのに、どうしておれにかまうんだろう。
「どんな内容だか知らないけど早く聞かせてくれないか。だっておれは、」
「……月世様の居場所を突き止めたいんでしょ」
「──!」
驚きに声を失う純を見て、時田が微笑する。
「以前お会いしたときに言ったはずよ。私は未来視の使い手だって」
彼女が言い終えたのとほぼ同じ頃合い、一瞬の空白ができた瞬間、ひゅうっと鋭い風が吹き抜けた。
「ああ、忌々しい風ね」
くすくすと笑い声を上げながら、時田が言った。品良い白猫のように整った、実に美麗な笑み方である。
「でも、いいわ。渡良瀬くんとようやく二人きりになれたんですもの」
「……なんでだよ」
唇をわなわなと震わせながら、純は呟いた。「なんでおれにこだわるんだよ。わけわかんねえ」
「あなたはそうでしょうね。だけど、私は違うの。月世様のつがいたるあなたにずっと興味を持っていたんだから」
あらためて、視線を時田の目に据える。
彼女はやはり、笑っている。歓喜と優越を満面にたたえては、純の瞳をまっすぐに見つめ返してくる。
「おれにずっと興味を持っていたって、いつからだよ。高校に入ってからか? それとも──」
「あなたが月世様のつがいだと判明してからよ」
時田が言った。
「別に不思議な話じゃないわ。だって、渡良瀬くん、私はあなたが現れる前から月世様に恋していたんだから」
「はあ?」
裏返った声が、純の口よりあふれ出す。
「何言ってんだ、お前。それじゃちっちゃい頃から月世のことが好きだったのかよ」
「いいえ。私に幼少時代なんてものはないわ」
時田の顔から笑みが消える。
風すら吹かぬ完全な静寂が、屋上に立ち現れる。
やがて会話が絶えた頃、
「私は生まれたときからこの姿なの。──私はね、天宮正絹《あまみやしょうけん》様が造り出した人工生命体なのよ」
抑揚の失せた声が場に響いた。
九
私がこの世に生を受けたのは、とある目的のためだったの。それは天宮家のみならず、日本の──いいえ、世界の民の悲願とも呼べるものだった。
その内容についてはのちに語るわね。お楽しみはあとにとっておきたいから。
……ええ、さきほど告白したとおり、私は人形なの。魔法を用いて造られた人工生命体なのよ。だから知力も体力も一般の絶対女性体《オメガ》よりはるかに優れているわけ。
でもね、渡良瀬くん、実をいうと私は絶対女性体《オメガ》でもないの。だって、私は──、まあいいわ。これもまた、最後に語るとしましょう。簡単に解ける謎なんてつまらないでしょう?
私の生みの親は天宮正絹、千晴様と月世様の実父なの。お忙しい方だからなかなかお会いする機会はないけれど、でも、渡良瀬くん、婚約の儀で一度あの方をお見かけしたことあるわよね? 優しそうな目をした、背の高い男のひと──ええ、あの方こそが私の創造主なの。
正絹様の手によって創造された私は、「人間の感情を学ぶ」という目的で天宮の屋敷で暮らすことになったわ。
その頃はまだ、千晴様たちが十歳ぐらいだった。お二人は私のことを「奏さん」と呼んで親しんでくれたわ。人工生命体である私を気持ち悪がったりしなかった。まるで本物の家族のように接してくださったの。
ただし、私の存在は正絹様などごく一部の人間しか知らなかったわ。なぜって、……そうね、私が絶対女性体《オメガ》でなく、本物の女性だから隠さなくちゃいけなかったんでしょうね。
……あら、何? どうしたの、渡良瀬くん。目が点になっているわよ。
でも仕方ないわね。この世界には、女性がいないはずなんですものね。だけど、私の性別は女性なの。第二の性を持たない、本物の女なのよ。
正絹様をはじめとする多くの術者たちは、「魔法を使って女性を創造する方法」をずっと模索していたの。それこそがさきほど私が語ったところの「世界の民の悲願」なのよ。
「女性がこの世にいないのなら、魔法を使って生み出せばいい」と術者たちは考えたのね。そして、正絹様が世界で初めて、「女性の創造」に成功させたわけだけれど──。
私の存在は徹底的に秘匿された。もちろん、私は外に出ることを許されなかった。学校に通うことも許されなかった。
だけど、私は毎日幸せに過ごしていたの。正絹様も奥方様も千晴様も月世様も、私のことを愛してくれたから。大切な家族として扱ってくれたから。
だから私は幸せだった。
月世様に恋するまでは、毎日が満たされていたの。
十
「実をいうと、はじめは月世様のことが苦手だったの。あの方はいつも無表情で、何を考えているのかわからなかったから」
無言で立ち尽くす純に向かって、時田が言う。
「けれど、お二人が中学に上がって間もない頃に起こったとある事件がきっかけで、私は月世様に恋をするようになったの」
──とある事件?
意味深な言葉が純の関心を引いた。
瞳を時田のおもてに据え、おとなしく続きを待っていたところ、彼女は一言、
「月世様が学校で暴力事件を起こしたの」
と言った。
「はあ?」
高い声を上げたきり、純は押し黙った。
あの月世が──あの温厚で優しい月世が暴力事件を起こすなんて、どうしても信じがたくて、
「まさかそんなことが……」
と呟きを落とす。
「目撃者が何人もいたそうよ。昼休みの廊下でね、月世様がご学友を素手で何回も殴ったらしくて」
高みで輝く太陽が、薄雲の中に隠れる。
「正絹様や担任教師が『なぜ殴ったんだ』と尋ねても、月世様は口を割らなかった。だけど、目撃者が複数いたので、すぐに理由が判明したの」
時田が一度、短い息を吐いた。それから顔から笑みを消して、
「ご学友が千晴様の悪口を言ったことが、どうしても許せなかったんですって」
──そう告げた。
純は反応を忘れた。もはや身じろぎすらできずにいた。
理由を聞かされても、それでも月世が暴力を働いたなんて信じられないのだ。
「驚いているようね。でも、その気持ちはわかるわ。私も最初、あなたとおなじリアクションをとったもの」
時田が声を響かせる。
「月世様を悪く言う人もね、それなりにいたらしいの。月世様には、千晴様ほどの才能がなかったから。だけど、どれだけひどいことを言われても、月世様は決して仕返ししなかったそうなのよ」
──もっとも月世様の悪口を言った人は、千晴様に成敗されていたそうだけれど。
時田の顔に再び、笑みが宿る。
「月世様は何かと千晴様と比較されてきた。酷い悪口を言われたりもした。でも、月世様はいつも耐えていたの。怒るどころか、『人の口には戸が立てられないと言うからな』と笑って済ませていたのよ」
純はこくりとうなずいた。
「あいつはそういう奴だよ。とにかく寛大で優しいんだ」
「そうね。だからこそ、私はあの方が好きになったの。自分のためでなく、誰かのために優しさを使うあの方にね、恋をしたのよ……」
会話が途切れる。
時田が再度、真顔になる。
「ねえ、渡良瀬くん」
「……なんだよ」
「月世様を私に譲ってくださらないかしら。あの方のことを大事にすると約束するから」
日射しの薄らぐ空の下、彼女の声が遠く響いた。
十一
「……できないよ、そんなの」
二秒ほど時が過ぎたのち、純は言った。
「できるわけないじゃん。物の貸し借りじゃないんだし、あいつの気持ちも考えないと──」
「私の頼みが聞けないの?」
時田の呟き声が言葉尻にかぶさる。
「渡良瀬くん。もしあなたに欲しいものがあるのなら、私、頑張って用意するわ。だから、月世様を私にちょうだい」
「お前、本気で言ってるのか?」
「ええ」
迷いなく、時田が答える。
「あの方を幸せにするためなら、なんでもするわ。その覚悟ならとうの昔にできているもの」
「……」
「私は月世様のことが好きなの。つがいたるあなたが現れる前から、ずっとずっと好きだったの」
切実な響きに彩られた声が純の耳に届く。
太陽はいまだ、薄雲の向こうに隠れたままだ。
「時田。お前の頼みは聞けないよ」
相手の目をまっすぐ見返しながら、純は言った。「お前がどんなに月世を想っていても、駄目なものは駄目なんだ。潔くあきらめてくれないか」
「だけど、あなたは月世様に恋していないんでしょう?」
「ああ」
「あなたは月世様のことを恋人でなく、家族だって思っているんでしょう?」
「そうだ」
「ならば、私に譲ってくれてもいいんじゃないかしら」
純は黙って、かぶりを振った。そして今一度、「駄目だ」と繰り返した。
「あいつは物じゃないんだ。意志を持った人間なんだ。それに、おれにはあいつが必要なんだ」
「運命のつがいだからかしら?」
「それもある。でも──、」
続きを言いさした瞬間、純は先日体験した激しいセックスを思い出した。
月世に抱かれた夜の記憶が、鮮明によみがえる。互いに相手を求め合い、乱暴に肌を重ね、劣情に急かされるまま性交に没頭した。なかば恍惚としながらも、月世の体温や素肌や精液を存分に堪能した。
あの晩、純は理性をなくしていた。そして、おそらくは月世も。
心の中には、男性的な部分が根強く残っている。けれど、月世からの愛撫を受けたあの夜、確かに純の体は悦んでいた。女として愛されることに幸福を見いだしていた。
月世に恋しているわけではない。彼はあくまで、兄のような存在だ。
だけど、それでも──彼を渡したくないという願いがふつふつと湧き出てくる。心よりも先に、体が飢えを感じている。
月世が欲しい。
あいつの全部が欲しい。
もっと愛されたい。
極上の快楽をこの身にたっぷり教え込んでほしい。
身勝手な願いだと百も承知しているけれど、これが本音なのだから仕方ない。自分の望みをごまかせるほど、純は器用でないのだから……。
しばらく口を閉ざして相手の出方を待っていたところ、時田が、
「……そう。譲ってくれないのね」
と言った。どことなく不穏な声音だった。
「時田……?」
純は彼女の目を見た。そこには、嘲笑とも苦笑ともとれそうな、ひどく曖昧な笑みが宿っていた。
ひゅうっ、と鋭い風が吹きわたる。
「だったら、力ずくで奪うしかないわね」
昏い声が聞こえたのと同時に、あたり一面にこがね色のまばゆい光が生じた。
十二
顔を伏せて、視界いっぱいに広がる光から目を守る。しばらくの間その体勢を維持していたが、まぶたを刺すこがね色の輝きが消滅したと悟ると、純は両目をぱちりと開いた。
そして再び、時田奏へと視線をめぐらせ、
「──え?」
呆けた声を上げてしまう。
さっきまで、自分は屋上で時田と会話をしていたはずだ。
なのに目を開けたとたん、周りの風景が一変していたのである。校舎の屋上から鬱蒼とした森へと変化を遂げていたのだ……。
奇妙に思った点なら、他にもある。まず、森の中なのに生き物の気配が少しもしない。野鳥の鳴き声すら聞こえぬ無音の空間が、純の周囲を取り巻いている。
所狭しと並ぶ木々の太い幹には、なんと、月世の写真が画鋲《がびょう》で留められていた。一枚、二枚の話ではない。何十枚何百枚もの写真が──それこそ数えきれぬほどたくさんの写真が、木々に飾られていたのである。
純はあらためて、数メートル先に佇む時田を見やった。彼女は常と同様、唇を笑みのかたちに歪ませている。
「おい、時田。ここはどこなんだ? おれたち、学校にいたはずなんだけど……」
すると彼女は悪びれもせずに、
「ここは私の『精神』が生み出した異空間よ。私の魂が思い描いている景色なの」
純は首をかしげた。「異空間」といきなり言われても、ぴんと来ない。
「強大な力を持つ術者や適性者は、心の中にひそむ景色を現実世界に投影することができるの。この魔法の名前は、心的現実《ミラー・ザ・ファンタズム》というわ」
「みらー・ざ・ふぁんたずむ……」
初めて聞く名前だった。
森の中は夕闇のように薄暗い。少し離れた位置に立つ時田の顔がようやく視認できるほどの暗さだ。
「先に断っておくけれど、この世界はまぼろしなんかじゃないわ。だから、ここでの死は現実世界での死を意味するの」
「死」という不吉な単語が、純の胸を不安で満たす。緊張で息が浅くなる。
自然豊かな景色はもとより好きなのだが、今回ばかりは「一刻も早く外に出たい」と思った。そう願わずにはいられなかった。
「時田。こんなところにおれを閉じ込めて、いったいどうするつもりなんだ」
真剣な口調で問うたところ、彼女はにこりと笑った。そして、
「……確かめたいことがあるの」
と思わせぶりな言葉を吐いた。
それから一瞬の間《ま》ができたとき、
「があああああっ……!」
という野太い吠え声が静かな森の中でひとつ、とどろいた。
──嫌な予感がした。そして続けざまに、「早く逃げろ」と急かす声が心のうちに生じた。
奥のほうから、ドシン、ドシン、と重量感あふれる足音が響いてくる。「がああああっ!」というけものじみた声を上げながら、何かが迫ってくる──。
十三
ドシン、ドシン、と地鳴りのように大きな足音が止まった瞬間、純は目を見開いて絶句した。時田奏の心 のうちに広がる世界に現れた第三者は、身の丈五メートルほどはありそうな怪物だったのだ。
トカゲのように醜悪な顔、肩と脇腹から生えている五対の長い腕、鉤状に曲がった手指の爪、泥土をむき出しにした地面を踏みしめる巨木のように太い足──「がああああっ!」と威嚇の声を上げるその怪物は、純からしたら、未知なる異形としか言いようがなかった。
直感が「逃げろ!」と命じてくる。
だけど、どうしても体が動かない。あまりに急な展開に面食らった結果、放心状態に陥ってしまったのである。
「この子は私のお友達なの」時田が涼しい顔で言う。
「こう見えても普段はおとなしいのよ。むやみやたらに他人を攻撃するような真似はしないよう、ちゃんと躾けているから安心してちょうだい」
だが、時田の言葉は純の心には響かなかった。
(普段はおとなしいとか言うけどさ……。あいつ、おれのことをめちゃくちゃ威嚇してるんだけど!)
右に左に巨躯を揺らしながら、怪物が純を見る。禍々しく光る目を決して逸らさずに、
「がああああっ……!」
と吠え立ててくるのだ。あきらかに敵意のこもった咆哮である。
「……あのさ、時田」
「何かしら?」
「あのでっかい生き物、おれのことを嫌っているように見えるんだけど」
「そうね……。おそらく、あなたが私のお願いを聞かないから、それで怒っているんじゃないかしら。あの子、私に逆らう人は全員嫌いになっちゃうから」
「冗談じゃない」と純は思った。
突然出現した謎の巨大生物に一方的に目のかたきにされてたまるか。──こんなところで危害を加えられてたまるかってんだ。
「時田。同じ話を繰り返して悪いけども、お前の要求を飲むことはできないよ。この問題には月世の意志が関係しているんだから」
があっ、と怪物が声を上げる。まるで「何を偉そうに!」と反駁するかのように、一声鋭く叫んだのである。
恐怖に支配された心をどうにかなだめながら、純はさらに言葉を続けた。
「あのさ、ここに月世を呼ぶってのはどうかな? おれたち二人だけで結論の出ない話し合いをするよりかは、はるかにましだと思うんだけど」
「──それはできない相談だわ」
艶やかな長い髪をさらりとなびかせながら、時田が言った。
「私は渡良瀬くんと二人きりになりたかったの。『誰にも邪魔されずに会話したかったから』というのも理由のうちにあるけれど、本来の目的は他にあるわ」
思いもよらぬ言葉を聞いて、純はますます困惑した。
「本来の目的ってなんなんだよ。おれに関係あることなのか?」
「ええ、そうよ。ひとつ確かめたいことがあるの。だから──、この子に渡良瀬くんを襲わせることにしたのよ」
気負いのない口調で時田が話し終えたそのとき、怪物が純のほうへと歩みを進めた。
力強い足音が接近してくる。
ドシン、ドシン……と不穏な響きを立てながら歩くその巨人は、純に対するはっきりとした敵意を両眼の奥に留めていた。
十四
「なるべく殺さないように手加減させるから安心してちょうだい」と時田が言い終えぬうちに、純は彼女に背を向けて一目散に走り出した。
常に真面目な時田のこと、その言葉に嘘は混じっていないと思うのだが、いかんせん相手が悪すぎた。
そもそも、コミュニケーションのとれぬ怪物相手にどう振る舞えばいいというのだ? 下手したらこちらの命がなくなるというのに。
それに──、あの怪物は純に対する嫌悪感を少しも隠していなかった。汚物でも見るような目で無抵抗の自分を見下ろしていた……。
駆けるたびに泥土が宙を舞う。お気に入りのスニーカーがどんどん汚れてゆく。顔にも背にも汗の粒が下る。けれど、足を止めることなどできない。できるはずがない。
そんなことをしたが最後、化け物に捕らえられてしまう。もしかすると、時田の精神が生み出したこの世界から帰還できなくなるかもしれない。
はぁっ、はぁっ……、と息が上がる。心拍数が爆発的に増してゆく。
けれど、それでも純は木々の間を器用にすり抜け、怪物から逃れた。どれほどの間走ったのか正確な値は計測できなかったが、体力と脚力のすべてを存分に出し切ったところで足を止めた。
──だが。
かなりの距離を移動したはずなのだが、森からは脱出できなかった。
所狭しと並ぶ木々の幹にはやはり、月世の写真が飾られている。
「……ここまで来れば大丈夫だろ」
言って、純はその場に腰を下ろした。お気に入りのデニムにべっとりと泥が付いたが、それにかまう余裕はすっかりなくなっていた。
「とにかく、ここを出なくちゃ。早く月世を探し出さないと……」
そこまで呟いたところで、純は口をつぐんだ。
うまく難を逃れた結果、元の世界に帰ることができたとしても、月世に再会できないかもしれない。おれのつがいが、運命が、魂の片割れが最悪自殺なんかしていたりしたらどうしよう。神苑はおろか、この世までもを捨て去ってしまっていたら、自分はどうすればいいのだろうか。
「月世……」
大ぶりな葉と血管のように入り組んだ枝が、空を隠している。その様子を目で追いながら、純は、
「どこにいるんだよ……。何も言わずに家を出るなんて、ずるいぞ」
と言った。
──そのときだった。
びゅっ、と鋭い風が視界全体を駆けめぐり、次いで、ドシンッ、という鈍い異音が響いた。
「……嘘だ……」
肩先をびくりと震わせながら、上から降ってきた「それ」を見据える。
重々しい巨体を誇るくだんの怪物が、地面に座り込んだ純を両目で捉える。
高く低く吠えながら、五対の腕をゆっくりと前に突き出し、獲物を捕まえんとする。
純は死を覚悟した。
十五
海鳴りにも似た大きな咆哮をとどろかせながら、獣が爪を振り下ろす。ひゅっ、という強烈な風切り音が拓けた空間に鳴りわたる。
なのに。
なのに、純は──無傷であった。肌はおろか、皮膚を覆う衣類にも裂き傷はつかなかった。むろん、それに付随する痛みも味わわずに済んだ。
攻撃を受ける寸前、懐にて光ったなにかが薄膜を張り、風琴のように澄み切った音を立てながら、巨大な指爪を受け止めたのである。
「……」
奏は何も言わない。
「……」
けものも何も言わない。
純は口を閉ざしたまま、シャツのポケットをまさぐった。
石ころのように硬く冷たい感触が、中指にこつりと当たる。
「これは……」
取り出して、純はまた唇を結んだ。
それは、指輪だった。婚約の儀の際、月世より贈られた緋色の細工物である。
「やっぱり本物だったのね」
遠くを見晴るかすような目をしながら、時田が言った。
「月世様のお気持ちに嘘偽りなどなかったんだわ」
「どういうことだ」
短く問うたところ、彼女は、ふふ、と薄い笑みをこさえ、返事を返した。「その指輪はただのアクセサリーじゃないの。渡良瀬くん、あなたは何も知らされていないでしょうけどね……」
と、そのとき。
森の彼方に広がる天が、朝焼けのように輝いた。
──音もなく。
鮮やかな光が木漏れ日のように降り注ぐ中、時田奏の呟き声が耳に届く。
「あれは確か、月世様が中学に入った頃かしら。ある冬の午後──ちょうどこんな冷たい風の吹く日に、あの方は自室にいて、魔術書片手に作業を行なっていたの」
純は思わず、前のめりになった。
自分の知らない月世の過去に、興味を惹かれたためである。
「あの方はその頃から、定期的に呪文を唱えるようになったわ。朝も昼も夕もまじない言葉を口にしたの。ある目的を果たすために、最上級の護りの魔法をね、その指輪に込めたのよ……」
「──これに?」
右手に持った指輪を突き出すと、彼女はこくりとうなずいた。
「天宮の血を継ぐ者は、あらゆる種類の魔法に通じているの。そして月世様は、──あの方は、守護魔法を得意としているわ」
穏やかな面持ちで、時田が語る。
──と。
パチン、と。
唐突に、彼女が指を鳴らした。
十六
「ぐぉぉ……」と低いうなり声を上げながら、けものが消えゆく。
「ごめんなさいね。二人きりでお話したいから、使い魔に消えてもらうことにしたの」
「……使い魔?」
「ええ。さきほどにも語ったように、あの魔物は私が使役している子なの。名前はエドラっていうのだけれど、まあそれはどうでもいい話よね」
儚げに笑みながら、時田が言った。「それに、今出した子は幼獣なんですもの。本来の力はあの程度のものじゃないわ」
「あれで子どもだってのかよ……」
純は苦笑いを浮かべた。「あれで幼獣だなんて、ちょっと信じがたいよな」などと胸のうちで思う。
そのときだった。
突如としてまぶしい光が出現し、純と時田の身を取り囲むようにして広がった。目をくらますほどの強烈な光量に恵まれたこがね色の光が、はじけるように拡散していったのだ。
キィン、キィン……、と高い音を立てながら、光が満ちる。視界いっぱいを覆っては、さらに輝きを増していく。
「うわっ……!」
反射的に顔を伏せ、まずは目を守った。「あんなものを直視したら、視力に影響が出てしまうかもしれない」と懸念したためであった。
音は鳴る。キィン、キィンと高らかに。ハンドチャイムのように澄んだその音は、さらに高く響いていって──。
「……あれ?」
冷たい風を体に感じて、純は顔を上げた。目に映るのは、何の変哲もない学校の屋上であった。
「ここも異空間……ってわけねえよな」
「当たり前でしょ」
声が聞こえた。
目の前に立つ時田が、あきれ顔で返事をしてきたのである。
「さっきの話の続きをしてもいいかしら?」
「……さっきの話?」
「月世様が長年、指輪に魔力を込め続けていたという話よ」
そこで純は、ようやく思い出した。「月世が指輪に魔力を込め続けてきた」という話を。
「渡良瀬くん、その指輪はあなたのために月世様が作ったのよ」時田が言った。
「どんな災厄もあなたの身を脅かさぬよう、あの方が魂を削って作り上げた一点物なの。だから、大事にしてちょうだい。この指輪には、──ムーンライトリザレクションには、月世様の真心がすべて詰まっているのだから」
「ムーンライトリザレクション……」
純は小声で呟いた。
「なあ、それがこの指輪の名前なのか?」
「そうよ」時田がすぐさま返答する。
「護りの魔法を得意とする月世様が、総力を結集してこしらえた細工物──それがその指輪の正体なの」
十七
「意地悪をしてごめんなさいね。お詫びに、あなたを月世様のところに導いてさしあげるわ」
言って、時田が右腕を前に突き出した。
彼女のてのひらから、躍る光が生まれる。
やがてそれは石床と接触すると、楕円形の魔法陣と化した。
「さあ、その上に乗りなさい。そうすれば、あの方のもとにたどり着けるわよ」
純は彼女を振り返った。そして、時田の表情をその目に焼きつけると、
「……いいのかよ?」
と一言尋ねた。
「どういうことかしら?」
涼やかな声が返ってくる。。
純は、はあ、と小さく息を吐くと、
「いや……。お前だって好きなんだろ。あいつのことが」
と言った。寒さの募るこの場所から離れたいのはやまやまだったが、それよりも、時田奏の泣きそうな表情が気になったのである。
「私ならいいの」
時田が笑いながら言った。けれど、その目尻にはかすかに光るものがある。
「両想いになれなかったのは残念だけれど、それでも……楽しかったから。片思いするのもそれなりに楽しかったから、私はいいの」
「でも……」
「いいの」時田が柔和な声で遮る。
「私は今も幸せよ。好きな相手に告白さえできないのは苦しいけれど、でも、苦しさよりも幸せな気持ちのほうが上回っているんだもの。だから、いいの」
──かなわないな、と純は思った。
もし自分が彼女の立場にあったなら、おのれのわがままを押し通すためにあの手この手を打つであろう。一切引き下がらないであろう。
だから、時田奏にある種のいとおしさを感じた。恋が成就せずとも幸せだと言い切る彼女の強さやいじらしさに、強い好感を持ったのだった。
「時田ってかわいいよな」
「あら? 今頃気づいたのかしら?」
「うん」
純は大きくうなずいた。それから声を若干低めて、
「……ごめんな」
と言う。
「月世のこと、奪っちゃってごめん。お前のほうがずっとあいつのことを想っているのにな……」
すると、時田は笑った。泣きながら、満面の笑みを見せてくれたのだ。
「大丈夫よ、私なら。……それに、月世様が愛していらっしゃるのは、渡良瀬くん、あなたなんですもの。邪魔するなんてとてもできないわ」
そして、彼女は床に設けた魔法陣を指さすと、
「さあ、急いで。早く、あの方のもとに行ってちょうだい。私のためにも行ってちょうだい」
と言った。
純はまたしても、首を縦に振った。
寒風の吹く屋上にて、足音をかせる。一歩、また一歩と魔法陣へと近づいていき、──とうとうその上に両足を置いた。
「行ってくる」
陣形の外に立つ時田へと、言葉を放つ。
時田が泣き笑いの表情で、
「行ってらっしゃい」
と応える。
魔法陣はそうして、音もなく光を出した。
青く輝く澄んだ輝きの向こうに、時田の笑顔や、彼女の目尻を飾る涙が見えたような気がした。
十八
魔法陣に誘導されたその先は、純にとって、非常に見覚えのある景色であった。
幼き日、迷子になった山中であったのだ──間違えるはずがない。
しかし、純はしばらく歩いたのち、ある事実を悟った。季節は冬の真っただ中であるはずなのに、妙に気温が高いのだ。
まるでここら一帯だけ、春の暖気に包まれているようである。
「あいつだな……」
純の胸にて、ちょっとした確信がひらめいた。こんな辺鄙な山奥を好んで訪れる人間なんて、早々いるはずがない。
乾いた土砂の混じった舗道を大股で歩く。満月が照っているおかげで、視界は明瞭だ。
舗装路をやや右に折れて、ひときわ巨大な樹木へと歩みを進める。
その下には──、探していた男がいた。
「……早かったな」
手にした魔術書から目を離さぬまま、男が言った。完璧に程近い造形美を持つ完全男性体《アルファ》──天宮月世である。
「どうやってここに来た?」
「時田に送ってもらったんだよ。ついでに、あいつと天宮の家の関係もいろいろ聞いてきた」
そこでようやく、月世が顔を上げた。と同時に、彼の手にしている魔術書が忽然と姿を消した。
おそらくは、魔法を使って本を消したのだろう。魔力すら持たぬ純でも、それぐらいは推測できる。
この世に存在する完全男性体《アルファ》は、全員、魔術の使い手なのだから──そう、ただのひとりの例外もなく……。
月世は、相も変わらず、野袴を着ていた。羽織を着ておらずとも平然としているのは、おそらく、気温調整の魔法を使っているためであろう。
──何か言いたい、と純は思った。
けれど、いざ、彼を前にすると何を言ってよいのか、とても迷った。悩みもした。喋ることは苦手じゃないはずなのに、どうしても喉が詰まってしまうのだ。
ためらいを見せる純を見兼ねたのだろう。月世が先に、
「時田さんと俺たちの関係をすべて知ったというんだな?」
と尋ねてきた。
「あ、ああ……」
純は力なく答える。
「ごめん……。家庭の事情を勝手に嗅ぎまわるような真似をして、ごめんな。謝るよ」
すると、月世はかぶりを振った。
「お前が気にすることではない。時田さんの件はいずれ、お前にも話すつもりだったのだから」
「でも……」
「気にするな」
それからしばらく、月世からの声はなかった。純も声を出さずにいた。
空に架かる満月だけが、暗い山中を明るく照らしている。
十九
「こういう日だったな……」
おもむろに、月世がひとりごとをこぼした。「幼き日のお前と出会った夜も、こういう月の照る夜だった」
純は「そうだな」と相槌を打った。
生ぬるい夜風が樹間をすり抜けるようにして、吹きつけてくる。
「時田はこの世界でたったひとりの『本物の女の子』なんだよな?」
「そうだな」
「時田は、『月世様のことを愛している』って言ってた」
「そうか」
「……なあ、今からでも遅くないんじゃないか? 俺との婚約はやめて、時田と結ばれたほうが……」
「それはできない相談だな」
ぴしゃりとした口調で、月世が言った。「俺は純、お前のことしか愛したくない。お前の完全男性体《アルファ》として、つがいとして、生涯をまっとうしたいんだ」
「なぜ、そんなにおれにこだわるんだよ」
「……なぜだろうな」
そこで、月世が初めて微笑した。
普段の彼らしからぬ表情に面して、純はしばし面食らう。
「純。お前は気づいていないかもしれないが、お前には素晴らしい長所がたくさんあるんだ。物怖じせずに生きているところ。天宮家の住人になっても、すぐに順応するところ。男女分け隔てなく、仲良くしようとするところ。年長者を敬うところ。年少者には親切にするところ。……その他にもたくさんある。だから、」
一呼吸置いてから、月世が続きを言った。
「──だから、俺はお前を好きになったんだ」
「おれがただの高校生だとしても?」
「ああ」
胸の底がじんわりと熱くなった。
月世にこうも愛されていたのだと知って、心に深い感動を覚えたのだった。
「俺たちが決めたのは、運命という名の不可視の力かもしれん。だが、俺はそれでもいいと思っている。純のような素敵な人間に出逢えたことを誇りに思っているのだから」
「じゃあ、……じゃあ、おれの前から逃げたのはなんでだよ。どうして、おれを避けるような真似をしたんだよ」
すると、月世は珍しくばつの悪そうな表情をして、
「お前がまだ高校生だからだ。なのに、おれは……お前を抱いてしまった」
と告げた。
「お前が成人しているのなら、まだ『双方の合意』で済ませることができる。だが、純はまだ高校生だ」
「だからおれを避けたってわけ? 高校生に手出しをしてしまったことに罪悪感を覚えたから?」
月世は無言だ。
けれど、それは肯定の意を表すなによりの証左でもある。
二十
「なんだ、そんなことで逃げやがったのかよ!」
純はからりと打ち笑った。
対する月世はきょとんとした面持ちで、明るく笑う純を見ている。
「成人男性が未成年に手を出すなんて、問題以外の何物でもないと思うのだが……」
「あ、それ、おそらくは問題にならねーから。だって、俺たち、婚約者同士なんだからさ。遅かれ早かれセックスぐらいやるだろ」
「しかし……」
「あ~、もう、月世は頭が堅いなあ。済んだことをいつまで言ってもしょうがないんだしさ、頭切り替えていこうぜ」
確かに、あの夜の月世は発情期のけだものみたいに雄々しかった。純の心身を支配下に置くために、ありとあらゆる手段に手を染めた。
「怖くなかった」と言えば、嘘ではない。
けれど、それよりもはるかに、「求められる喜び」が断然上回った。「元は同性同士である」とか、「きょうだいのようにして育った」とか、そういった情報をすべて無視して、月世に焦がれた。彼の愛を得ることに夢中だった。
──離してほしくなかった。
──愛されたかった。
同じ強度で持てる愛情をすべてぶつけ、ともに絶頂したかった。
あの夜の願いはただ、それだけだったのだ。
「月世はちっとも悪くねえよ」
月の光が静々と降る山の中、純は月世の左頬にキスをした。一秒、二秒、と長めのキスを施した。
それから唇を離して、相手の瞳をまっすぐ捕らえて、
「しょうがねえから、お前の女になってやるよ。だって、月世はおれのことが大好きなんだもんな!」
と言った。
「よく回る口だ」
月世が苦笑する。けれど、その笑みにはどことなく、照れ笑いも混ざっているように純の目には映った。
遠い空にレガリアの姿が見える。
新しく生まれた一組のつがいを祝福するかのように、美しく、雅やかに回り続けている──。
終章
周囲の人々からの反応や戸籍変更など、なにかと手間取ることが多かったのだが、一か月もする頃には元の平穏な生活に戻った。
それはまあ、よいのだけれど……。
「呆れた。渡良瀬くんって、世界史以外壊滅的なのね」
冬の日のある放課後。
麗門高の正門前にて、時田奏がそう口にした。
「他の科目は平均点にすら届いていないんですもの……。これじゃ進学はおろか、進級だって危ないわ」
「まったくだ」
同意の声を発したのは、時田とともに純の前に立ちはだかる天宮月世その人である。
「百点満点のテストで、たった四十五点しか獲れないあたり、ひどいものだな……。なんだったら、家庭教師でもつけるか」
「ええっ! 冗談はやめてくれよ」
周囲は、授業帰りの生徒たちでごった返している。けれど、彼らの視線の先にあるのは正門の向こうに広がる街──ではなく、険しい顔でテスト用紙を凝視する時田と月世の姿であった。
学内の有名人である時田奏と、たぐいまれなる美貌を誇る月世は、耳目を集めるにふさわしい理由をその身に備えているのである。
「補習は免れないわね。あまりにも結果が酷すぎるもの」奏が言った。
「なんなら、俺が勉強を教えてやってもよいのだが……」月世が言った。
緊張で背筋をぴんとのばしたまま、純は、ここにいない親切を呪った。どうしてあいつ、今日に限ってお稽古事なんか入れちまっているのだろう……。いつもなら、一緒に下校してくれるなのに。
しかし、彼を恨むのはお門違いだ。親切が長い間、ピアノを習っていることぐらい知っているじゃないか。
「では、純」
「……な、何?」
「お前がひとつ正答を出すごとに、俺からキスをしてやろう」
「はぁ!? なんでだよ」
「俺はお前の婚約者だ。一夜をともにした仲でもある。ならば、今さらキスぐらいどうってことあるまい」
「そうね。そのほうがいろいろと捗るかも」
時田が無邪気に微笑む。
「よし。では、帰宅したらまず俺の部屋に来い。もちろん、教科書類を持ってな」
「だから、なんでそういう話になっちゃうんだよー!」
けれど、このとき、純は気持ちが軽くなるのを感じていた。
肌と肌を触れ合わせても、キスしても、セックスしても、二人の関係に大きな変化はないと知り、ひそかに安堵したのだ。
「セックスすることにより関係性に変化が出てくるのではないか」とおびえていたけれど、それも取り越し苦労で済んだようだ。
月世がいる。
自分がいる。
遠い空にレガリアがある。
世界は変わらずめちゃくちゃで、謎だらけだけれど、それでもいい。日々楽しく、のびやかに生きているのだから。愛する人たちとともに過ごせているのだから。
純はそっと背伸びをし、月世の左頬にキスをした。
それはまごうかたなき、愛する男への誓いの口づけでもあった。
【了】