告白の言葉は酷薄

スリルを伴う恋って、どうしてこんなに楽しいのだろう。仲間にばれたら、まずいことになるとわかっているのに。
月曜の夕暮れ時、及川の部屋の隅に寝転びながら、日向はそのように思った。
猫のように伸びをしては、机に向かう及川の背を横目で見る。
彼はこちらを顧みない。教科書とノートを交互に見やっては、与えられた宿題を淡々とこなしている。
「……大王様」
呼んでも返事はない。
「大王様」
声を高めて、再び名前を呼んだが、彼はやはり振り返らない。
仕方なく口を閉ざして、真白い天井を眺めやる。シーリングライト特有の無機的な光が、木漏れ日のように静かに舞い降りてくる。
「……」
わかっている──自分の望みなんて。
「本当は、ライバル同士でなく、仲間として出逢いたかった」と。
烏野に進学したことを後悔してはいないけれど、「もしもおれが青城に入学していたら」と考えることならば、これまでにも多々あった。「大王様が烏野の生徒だったら」と空想することも、たびたびあった。
かなわぬ願いを抱《いだ》いたところで、どうにかなるわけではない。
だからこそ、ふたりは秘密の交際を続けていた。
広い背中に視線を移す。シャツの上からでもそうとわかるほど、彼の筋肉は美しく発達している。肩甲骨《けんこうこつ》の描くゆるやかな隆起《りゅうき》が、とりわけ印象に残る、実に雄々しい肉体である。
「いいなあ」
自然、呟きが口から漏れた。
「……なにが?」
及川がようやく振り向いた。
「いま、『いいなあ』って聞こえたような気がしたんだけど」
問いかける声も、おもてに浮かぶ表情も、等しく柔らかだった。
日向は顔をそむけた。傷みのない畳に目を落としながら、
「だって……」
と言いよどむ。
「なんていうか、その……」
「──俺に見とれてたの?」
胸のうちに秘めていた本音をいともたやすく暴かれて、日向は、
「う……」
とちいさくうめいた。
「あはは、顔真っ赤だ。チビちゃんって、ほんっとわかりやすいよねえ」
明るい笑いを響かせる及川へと、目を向ける。
室内も戸外も深い静寂に包まれている。庭に茂る木立《こだち》の群れも、今日はとても穏やかだ。
「宿題終わったんですか?」
「うん」
「だったら、もっとおれに……」
「──おれに?」
続きを言いさしたところで、再度口を閉ざした。
言えるはずがなかった。「もっと、おれにかまってください」という台詞を吐けるはずがなかった。
なりはちいさいが、日向とてれっきとした男性だ。少々放置されたぐらいですねるだなんて、女々しすぎるにもほどがある。
「チビちゃん」
ふふ、と楽しげに笑いながら、及川が言った。
「俺の得意科目、知ってる?」
「……あ、はい……。たしか英語だったような……」
「そ。俺、英語は学年トップなんだよね。……他の科目もそこそこできるけど」
「なにが言いたいのか」としばし訝《いぶか》る。──自慢でもしたいのだろうか。
でも、なぜ? どうしていま、そんな話をするのだろうか。
困惑する日向の心境を知ってか知らずか、彼は、
「昔教えてもらったから、英語はかなり得意なんだよ」
と告げた。これまでになく嬉しげな顔を、彼はしていた。
頭の中で警告音が鳴り響く。「これ以上は耳を傾けてはいけない」と直感が働いた。
けれど、──募りゆく好奇心をどうしても抑えられない。いますぐにでも部屋から出ていきたいのに、足が動かない。
緊張で呼吸が速まる。
「昔付き合ってたガールフレンドが、アメリカ人とのハーフでさ。その子に教えてもらったんだ」
心臓のあたりが、一瞬、ずきりと痛んだ。
及川が女性にもてるのは知っている。ゆえに、過去の女性関係を問う真似だけはしなかった。耳にしたが最後、落胆するのは必至だったから。
付き合った当初から、覚悟はしていた。「いつかは大王様の元カノの話を聞かされるんだろうな」と、心に思っていた。
いかんともしがたい感情が、胸のうちを熱く揺さぶる。
体内をめぐりゆくその激情の名は、きっと、「嫉妬」だ。及川の「彼女」だった少女に、いま、自分は激しく嫉妬している──。
「……ねえ、チビちゃん。辛い?」
当たり前だ。
「俺の昔の彼女の話、聞きたくない?」
そんなものに興味はない。
それにしてもなぜだろうか。ふだんは気持ちをまっすぐ吐き出せるはずなのに、及川と過ごすときだけは、想いを胸中に封じ込めてしまう。彼に尋ねたいことなど山ほどあるのに、どうしても言葉が詰まってしまう。
「綱渡りのように危うい恋だ」とあらためて感じた。よりによって、他校の主将と秘密の恋をしているとばれたら、退部を強《し》いられるかもしれない。
「ねえ、チビちゃん。……俺のこと、嫌いになった?」
短い沈黙を挟んだのち、日向は、
「嫌いになんてなれないっす……」
と答えた。これもまた、偽らざる本音であった。
好きだった──彼のことが、とても。
愛していた──彼のことだけを、一途に。
はじめに告白してきたのは及川のほうだったけれど、交際を開始してから数週間経過したいま、日向は彼に強く惹かれていた。
彼のいない日々などもはや考えられないし、考えたくもない。湧き上がる恋心に逆らうすべなど、どこにもない。
「健気《けなげ》だねえ、俺のチビちゃんは」
瞳を綺麗に瞬かせながら、及川が呟いた。
「俺のことが好きで好きでたまらないって顔してる」
日向は押し黙る。図星を指された都合上、反論などできるはずがない。
「中1のときに付き合ってた子だよ。……もう別れたけど。バレー以上に夢中になれなかったしさ」
「……」
「他にもいろんな子と付き合ったよ。──だから、チビちゃんが何番目の『カノジョ』なのか、俺にもわからない」
「……」
「ねえ。やっぱり、俺のこと嫌いになったでしょ」
黙したまま、首をちいさく横に振った。そして、
「無理です、そんなの」
と一言告げる。
そうして、がばりと立ち上がり、及川の傍らへと歩み寄った。
「チビちゃん……?」
怪訝そうな顔をする彼をなかば無視して、
「……っ、」
自分からキスを仕掛けた。声を漏らしたのは、日向のほうである。
おのずから口を開き、舌を差し出し、膣《ちつ》のように濡れた口内《こうない》を一心に探った。くちゅくちゅと鳴る水音を拾うたびに、羞恥で体が火照ったが、接吻を止めるつもりはさらさらなかった。
心拍数が一気に跳ね上がる。だが、くちづけはそれでも止めない。
粘膜が擦れ合うたびに、ひどいめまいに襲われた。腰の奥が一気に重くなる。
──やがて、及川の舌が口の中にするりと入ってきた。自律したひとつの生命体のようにうごめくそれは、ぬるむ口蓋《こうがい》をしつこく犯してゆく。
口と口を隙なく合わせ、互いの息さえ奪うようなキスに没頭する。そっと抱き込まれ、畳の上に押し倒され、今度は唾液を交換した。交尾よりも荒々しいキス、絶頂よりも生々しいキスに煽られて、日向はまつ毛をひとしきり震わせる。
名残惜しげに唇を離す及川が、日向の身を抱きしめたまま、
「チビちゃんってさ、雛鳥《ひなどり》みたいだよね」
と口にした。耳をかすめる呼気が熱い。
「なんだか、餌付《えづ》けに弱そうだしさ」
「んなことないっす」
「嘘だね」
どこまでも静かな室内で抱き合ったまま、会話を続ける。
「すぐひとになつくからね、チビちゃんは。だから、ときどき、むしょうに意地悪したくなる」
触れる呼気はいまだ、相当な熱を持っている。
「……だから、元カノの話をしたんですか?」
「そう。お前にやきもちを妬かせたかったんだよ。どうしても」
「ひどいっす……」
でもやっぱり、嫌いになれない。なるはずがない。
「──チビちゃん、」
「なんすか」
「ずっと、いっしょにいようね」
「……はい」
そうして、ふたりは密に接触し、互いの体を愛撫する。切なる想いを唇に、腕に、心に込めては、秘めた恋情《れんじょう》を思う存分解放する。
抱き合うたびに、キスするたびに、恋しい気持ちが加速する。
愛よりも崇高《すうこう》で、恋よりも野蛮なその感情を、どう名付けるべきなのか。
日向にはわからない──けれど、無理に答えを求めずとも良いと思う。

見つめ合い、キスをして、また見つめ合う。
夕暮れ時の室内で相手に身を委《ゆだ》ねながら、日向は軽く目を閉じた。

夜はいまだ、訪れずにいる。

【了】