ブラジルに来てからというもの、寝つけない日が増えた。
「自他ともに認める健康優良児である俺がなんで、どうして」と疑問に思うものの、眠れないのはたしかな事実だったりする。
「昼はバレーとバイトをしているのに、……どうしても眠れないんですよ」
行きつけの軽食堂《けいしょくどう》にて、シーザーサラダを頬張りながら、日向はそっと打ち明けた。
「日本にいた頃は、そんなことちっともなかったのに」
店内に響く談笑の声に消されないよう、若干、声を張り上げる。
壁掛け時計は午後八時を示しているというのに、店の中は多数の客でごった返していた。陽気かつおおらかな国民性ゆえか、はたまた単に警戒心が薄いのか、ブラジルの人々は夜遅くまで出歩くことが多いのである。
「ふうん」
ステーキにかじりつく日向をじっと見据えながら、及川が、
「それって、不眠症じゃない?」
と言った。ちなみに彼はすでに食事を終えている。
「まさか、チビちゃんがそうなるとは思ってなかったけど」
「俺だって信じられないっすよ。──まさか、自分がこうなるとは考えてもいなかったし」
そうして、二人、同時に黙り込んだ。
異国の地で偶然の再会を果たしてからというもの、日向は、毎日のように及川に逢っていた。宿泊先からほど近い浜辺でビーチバレーをしたあとは、二人で食事をする──そんなスケジュールを、ここ数日の間着実にこなしていたのである。
「健康には自信があったんですけどね」
実際問題、幼い頃から病気とは無縁であった。不眠はおろか、風邪すら引いたことがない。
「……病院とか、行ったほうがいいのかな……」
ナイフとフォークを置き、ひとりごとを口にする。
「でも、病院って行くの怖いしなー……」
すると、それまでじっと日向を見つめていた及川が、
「怖いの? 病院のことが」
と静かな声で尋ねてきた。彼のまなざしは、やはりまっすぐに、日向だけを捉えている。
「……あまり、行きたくはないっすね」
はあ、と小さなため息をこぼしたのちに、言葉を返した。笑いもせずに話を聞く及川の目をじっと見つめ返しては、
「ほんと、どうしちゃったんだろ……。健康には自信があったのに……」
と呟く。
談笑の声はいまだ、間近に響いている。
「……チビちゃん」
「はい?」
即座に問い返す。
「知り合いもいない、頼れるあてもそれほどない外国に来たから、精神的に疲れてるんじゃないの?」
「……」
「ほら、こないだも『財布を盗まれた』とか言ってたし。──そういった些細なストレスが積み重なったせいで、疲れが溜まってるんじゃない?」
ためらいなく指摘され、日向はまたしても押し黙った。
この地には、親しき家族や友がいない。滞在先でともに暮らしているペドロとはいまだ、打ち解けていない。ことあるごとにこちらから話しかけてはいるが、期待した答えはいまだ受け取れていないのだ。
昼は昼で体を酷使しているのに、夜になっても眠れない。ゆえに、どうしても疲れが癒えない。──及川が言い表したところの「些細なストレス」が蓄積されたために、眠れずにいるのかもしれない。
「なに、チビちゃん。やっぱりメンタルやられちゃったの?」
いきなり突きつけられた問いを、曖昧な笑みでかわす。心の中の深い場所に隠した本音をずばり言い当てられ、困惑したゆえの反応だった。
「……」
ブラジルに来てからの日々を思い起こす。
異国での暮らしに、心が悲鳴を上げている──それは秘めようがない事実であった。仲間も家族も友もいないこの地で孤軍奮闘しているためか、心は晴れない。胸に兆した小さな痛みは、昼夜問わず、自身を苦しませている。
愚痴のひとつでもこぼせば、精神的に楽になれるのかもしれない。けれど、弱った姿など、どこの誰にも見せたくなかった。
男たるもの、そうやすやすと他人に甘えたりすがったりしてはならない──いまさら信条をくつがえすつもりなど、さらさらなかったから。
「俺は、」
浅く酸素を吸ってから、日向は言葉を続けた。
「──俺は、男だから。だから……、そう簡単に弱ったりしません。きついのは本当だけれど、でも、……この苦しさから逃げたらいけないって思っているんです」
談笑の声が遠くなる。
いつの間にか、客の数が大幅に減っていた。いまや、店内に残っているのは、数名の従業員と日向たちのみである。
「俺はそう思わないけど」柔和な笑みを含んだ表情で、及川が言った。
「男だろうが女だろうが、きついときは『きつい』って言っていいと思うけどね。まあ、俺も負けず嫌いだから、チビちゃんの気持ちもなんとなく理解できるけど」
そして、またも、二人して沈黙する。
なんだかいたたまれなくなって、日向は目線をわずかに下げた。「この話を及川さんに持ちかけて良かったのだろうか」と、いまさらながら思い悩んだ。
けれど、言ったあとに後悔しても、どうしようもない。
太陽のように明るい音楽が耳をかすめて、脳に染み入る。
「……じゃあ、さ」
及川がなにげないふうに、口火を切った。
「おまじないをしてやるよ。チビちゃんが眠れるように、おまじないをかけてあげるから」
目線を上げ、
「……おまじない、ですか?」
と小声で問う。
「それをしてもらったら、俺、眠れるようになりますか?」
「たぶんね」
親しみのこもった笑みが、及川のおもてを美しく彩っている。
「おまじない」の内容など見当もつかないが、しかし、──いまの日向にとってその申し出はとても魅力的なものに思えた。
だから、言った。「お願いします」と。
病院に行かずに治せるのならば、それに越したことはない。
「お願いします」
頭を下げ、いま一度繰り返す。
「同性に頼りたくない」という心の声はとりあえず、忘れることにした。
いま受けている苦しみから逃れうるのならば、なんでもするつもりでいたのだから。
「じゃあ、脱いで」
言われて、日向は戸惑った。
無理もないだろう──及川が泊まっているホテルに連れ込まれ、真っ先に脱衣を命じられたのだから。
しかし、いまの声は精神的疲労がもたらした幻聴かもしれない。いや、そうでないと、俺が困る。
「ええと……。あの、いま、『脱いで』って言われたような気がするんですけど……、」
「うん、そう。いまさっき、そう言ったんだけど……。聞こえなかった?」
男二人が寝そべってもなお余りありそうなベッドに腰かけながら、及川が言った。
「それとも、先にシャワーでも浴びたいの? チビちゃんって、結構綺麗好きなんだねえ」
「……」
一瞬、背筋に冷たいものを感じた。施設内は暑くも寒くもない──はずなのに、どうしてもさむけが募る。
「あの……。及川さんってもしかして、男が好きなひとだったんですか……?」
「まさか」
機嫌の良い猫のように瞳を輝かせながら、及川が応じる。
「こういうことはお前にしかしたくないんだけど」
「……で、どうして、俺が脱がなくちゃいけないんですか?」
「不眠、治したくないの?」
問いに問いを重ねられ、日向は激しく困惑した。驚きのあまり、全身が硬くこわばる。
「そりゃあ、治したいに決まってますけど……」
「でしょ? だったらいますぐに脱いで、こっちにおいで」
脱衣所でないところで裸になるなんて、嫌に決まっている。一方的に脱ぐように命令されたことも。
けれど、
「それとも、なに、できないの?」
と挑むように尋ねられると、無視できない。強情なおのれの心がまったくもって、呪わしい。
罠だ、と直感が訴えている。
「これは逃げるべき場面だ」ともそそのかしている。
だけど、ここまで来て逃げるわけにはいかない。同性の前で脱いだところで、羞恥心など覚えるはずがないのだし──。
「──わかりました」
自棄気味に答えたあと、一枚一枚、震える手で脱いで、足許に衣服を投げ捨てた。「見られている」と意識するだけで、心拍数が驚くほどに跳ね上がる。
素直な反応を返されたことが面白いのだろうか、それとも別の理由があるのだろうか、及川は嬉しげに瞳をたわめている。
「……脱ぎましたけど」
全裸になって、じっと及川の目を見やる。「どうせ脱がせるのなら、女の子のほうがずっと楽しいだろうに」と考えたが、その思いはあえて封じた。
「じゃあ、こっちに来て。横になって」
誘導されるがまま、ベッドの傍にまで歩み寄って、──なにも告げずに身を横たえる。
「ふうん……。チビちゃんって、本当に扱いやすい子なんだねえ。飛雄とは大違いだ」
「なぜそこで影山と比べるんですか」
「早くおまじないをかけてほしい」と願いながら、声を発する。
すると、
「ああ、ごめん」
と及川が苦笑を返してきた。
「チビちゃんってさ、日本にいた頃、飛雄とよくつるんでたじゃん? だから、つい、あいつと比べてしまうんだよね」
「……別につるんでなんて、」
日向は口を閉ざした。
「つるんでなどいない」と言ったら嘘になる。だって、卒業までの三年間、日向たちは、当人にしかわからぬほどの深い絆をはぐくんできたのだから。……二人は、影のように日のように、寄り添い合って生きてきたのだから。
入学直後までは、影山に敵対心を持っていた。「倒すべき敵」だと認識していた。
けれど、──いまは違う。
友人とも知人とも趣を異《こと》にする、無二の「相棒」だと認めている。選んだ道はまったく別物だけれどそれでも、「心のどこかでつながっている」と日向は強く信じている。
「お前らのそういうとこ、俺はうらやましく思うよ」及川が言った。
「この俺ですら入り込めない『なにか』が、お前ら二人の間にはあるんだろうからね……」
「……及川さんには、岩泉さんがいるじゃないっすか」
ほのかに光る照明を見据えながら、日向は呟いた。
「けどお前は、俺と岩ちゃんの仲を羨ましがったりしないだろ?」
「まあ、それはそうですけど……」
「ね。だから、俺は、お前らのことが気になってしょうがないんだよ。飛雄のこともチビちゃんのことも」
意外だった。
自分たち二人が及川に強い関心を寄せられているだなんて、想像すらしていなかった。
だが、その及川は、穏やかな声で告げるのだ。「『たとえば、俺とチビちゃんが同じ部に所属していたら』って考えることがあるんだよね」と。どこかしら夢見ているような、しごく優しい表情で。
「最初はチビちゃんのことを、『飛雄のおまけ』だと思ってた。俺の前に立ちふさがる飛雄の『付属物』だとすら考えていたよ」
「ひどい話だ」と日向は内心、腹を立てた。いまも昔も、影山の付属物になどなった覚えはない。
「でも練習試合を終えたあと、なぜか、──『付属物』であるはずのチビちゃんのほうに意識が向かったんだ」
日向はあえて、無言を貫いた。
目に映る白い光は、夢のようにまばゆい。
「他の誰がなんと言おうが、頑なだった飛雄の心を変えたのはチビちゃんだ。……そして俺の心を変えたのもね、チビちゃん、お前なんだよ」
「俺が?」
「そう。お前は、飛雄だけでなく、いろんな人間のいろんな心を変えていった。他の奴らはどうだかわからないけど、俺はもはや、お前に出逢う前の自分を思い出せないんだよ」
ぎしり、とベッドが鳴った。及川が、日向のすぐ傍にまで移動してきたのだ。
「知らず知らずのうちに、お前は俺という人間の在り方を変えていった。俺の心を奪っていった」
「俺、そんなことした覚え、まったくありませんけど」
「だろうね」
及川が、ひそやかに相づちを打つ。
「でも、お前には、ひとを変えるだけの力があるんだよ。お前本人が自覚してなくともね、俺や飛雄がそれを証明している」
──わからない。
及川が告げた話をうまく、咀嚼できない。
自分と彼は、元はと言えば、敵同士だった。いまはなぜか共闘しているけれど、かつては勝敗を競う仲であった。
だから、惑う。「及川さんはどうして、俺のことをそんなに意識しているんだろう」と。「影山のことを意識するのはまだわかるんだけど」と。
しかし、及川はなおも語る。「お前は俺をまったく意識していないんだろうけど、俺は時々、お前のことを考えていたよ」と。信じがたいほどに、優しい声音で。
「昔、『チビちゃんのことを埋めたい』って言ったの、覚えてる?」
「ああ、……はい、覚えてます」
できれば、忘れたい記憶なのだけれど。
「俺、いまもチビちゃんのことを『埋めたい』って思っているんだよね」
そこで、日向は、がばりと起き上がった。
「お、俺……、埋められたくなんかないっす……!」
「冗談だって」
及川が楽しげに打ち笑う。
「でも、昔、『埋めたい』って思ってたのはほんとだよ。……いまは、『もっとすごいことをしてやりたい』と願ってるけど」
「……もっと、すごいこと……?」
「うん。すごいことをしてやりたい。……たぶん、お前が考えているよりもずっとすごいことを、ね」
「いったい、なにを」と言おうとしたそのとき、
「……っ……、」
柔らかな感触に、唇を塞がれた。
それはまごうかたなき、及川の唇がもたらした感覚であった。
反射的に手足をばたつかせ、逃れようとしたが、あえなく動きを封じ込められてしまった。多少体が育ったとはいえ、両者の腕力差はいまだ詰まっていないのだと思い知る。
まことに悔しい話だが、──主導権は完全に、及川が握っていた。肌身をさらす日向とは違い、及川は衣《ころも》一枚とて脱いでいないのだ。
「…………っ……、」
口が離れた瞬間、急いで酸素を取り込んだが、またしても唇を塞がれてしまった。息の継ぎ目を完全に見失い、日向は軽く混乱する。
「チビちゃん、鼻呼吸しな。……そしたら少しは楽になるだろうから」
差し向けられた言葉に従い、口呼吸を中断する。
「……ん……っ……、」
指示に従ったところ、息がだいぶ楽になった。
けれどそれで、口端から伝う唾液をぬぐえるはずがない。
「及川、さん……、俺、唾、が……、」
と訴えるのがやっとである。
いまや、日向は完全に追いつめられていた。
(追いつめられているって……。どこに?)
自身に問うたが、答えは出なかった。
全身で危険を察知してはいるのだが、逃げる方法がまったく思い浮かばない。
第一、まだ、「不眠を癒やすおまじない」を受けていないのだ。帰れるはずがない。
唾液の行方を気にする日向をおもんぱかってか、
「ああ、唾ね。……そのままにすればいいんじゃないの?」
及川が、惑う日向の身を抱きながら言った。
「別にシーツに落ちたところで、俺は困らないし」
「なんて傲慢な言いぐさなんだろう」と日向はまたしても憤った。
「……ひどいっす」
思ったことを、そのまま声に置き換える。
「俺、眠れるようになるおまじないを教えてもらいに来たのに……」
「ああ、いまのがファーストキスだったんでしょ」
笑いながら断言され、日向は思わず身じろいだ。
「チビちゃんって、反応がいちいち素直すぎるんだよね。だから、『おそらくはじめてなんだろうな』って考えてた」
「それがわかってるのなら、いますぐに俺を解放してください。俺、キスされるためにここに来たわけじゃないんですから……」
すると、ぎゅ、と強く懐に抱かれた。続けて、
「……気持ちよくなかった?」
と、甘い声で質問を投げかけられる。
「別に。……気持ちいいかどうかとか、俺にはわかんないっす……」
「はじめてだったから判断できなかったんだ?」
「そんなんじゃないっすけど……」
日向はこっそり自嘲した。早く離れなくちゃいけないのに、体が勝手に快感に流されている。この続きをなぜか待ち望んでいる……。
「男同士でキスしたところでどうにもならない」ってわかっているはずなのに。
「……及川さんの言う『おまじない』って、つまり、えっちのことですか?」
「それ以外に考えられることってある? いまのこの状況で」
問う声には答えずに、広い胸に片耳を寄せた。とくとくと響きわたる心音が、喉許にまでせり上がっていた警戒心を、たちどころに削いでいく。
──いつしか、期待、していた。
これからひどい目に遭わされるのだとしても、逃げるつもりはさらさらなかった。
「一度のセックスで不眠が全快するのなら安いものだ」とすら考えていたから。一抹の好奇心がなけなしの羞恥心をおおきく上回ってしまったから──。
恋愛感情など持っていないが、体だけの関係になるが、それでも良かった。「夜、思うように眠れない苦しみ」を克服できるのならば、どんな目に遭ってもかまわない。
「バレーができるのなら……」
「ん?」
日向の体を抱いたまま、及川が聞き返してくる。
「元通り、バレーができるようになるのなら、俺、男に抱かれてもいいっす」
「……」
「及川さんの言う『おまじない』にどれほどの効果があるのかわかんねえけど、──バレーができるようになるのならなんでもしてください」
「やっぱり」及川が言った。
「そう言うと思った。チビちゃんは、女じゃなく、バレーに恋しているもんね……」
そうかもしれないっすね、と日向は胸のうちで返事をした。
もしかすると自分は、女性でなく、バレーに熱意を捧げているのかもしれない。性欲よりも肉欲よりも、「バレーがしたい」という我欲にとらわれているのかもしれない。
だからこうして、同性を受け入れようとしているのかもしれない。蹂躙を是としているのかもしれない……。
「ああ、なんだかぞくぞくしてきた」
柔和な笑顔はそのままに、及川が日向の背を撫でる。
「バレーのことしか考えてないチビちゃんを独占できるのかと思うと、なんだかすごく──わくわくしてくる」
言って、及川が顔を寄せてきた。
「また、キスをされるのか」と思い、日向は薄く目を閉じる。
ところが、予想は完全にはずれた。目を開けた瞬間飛び込んできたのは、日向の鎖骨に唇を這わせている及川の姿であったのだ。
「……っ……、」
虚をつかれ、日向は体をよじらせた。けれど、身をいましめる二つの腕が拒絶を許さない。
触れる吐息は鎖骨を犯し、胸を犯し、──右の乳首をも犯した。
「……あっ……、」
ふいに出た声は、嬌声と呼んでも差しつかえがないほどに高いものであった。
まさか。
まさか、そんなところが性感帯になりうるなんて。
予想しえなかった展開が、日向をさらに混乱させた。もはや、主導権がどうとか、男としてのプライドがどうとかいう問題を越えていた。
ちゅくちゅくと音を立てながら、口が乳首を吸い立てる。
しこる肉粒をやんわりととらえたり、舐められたり、扱かれたりすると、それだけで生唾が口内に溜まった。
針のように繊細な刺激が、素肌に、皮膚に、筋肉に染みて、日向をさらに喘がせる。派手な汁音とともに吸い上げられると、
「……っ……、」
無意識のうちに、背中がしなった。
「チビちゃん、心音、すっごく速いよ……?」
心までもをとろけさすような、甘い、とても甘い声で、及川がささやく。
「乳首吸われただけでよがるだなんて、結構やらしいんだね……」
言われた瞬間、肌という肌がおびただしい熱を持った。事実をきっぱり指摘されただけに、なんだかとても悔しくなる。
「まあ、かわいいからいいんだけど」
告げて、及川が左の乳首に唇を移した。
濡れた舌を感じた刹那、刺激を受けたその部分が勃ち上がるのをいち早く、感じ取る。
「……気持ちいい?」
「いいえ……」
しかし、喘ぐ声を抑えきれず、何度も何度もしつこいぐらいによがってしまう。足の間で息づく箇所までもが力を持ち、吐息のように濡れていく。
やがて、利き手をそこに下ろした及川が、
「ああ、チビちゃんってば。嘘ばっかり言うんだから」
とほのかに笑んだ。
目を逸らし、きらびやかな夜景を映す大窓に視線を投げた。
及川の手につかまれた肉茎は、さらなる刺激を求めて、熱く、鋭く脈打っていた。それを自覚しているからこそ、視線をずらしたのだ──かつての敵将が浮かべた皮肉っぽい笑みから逃れるために。
「チビちゃん、こっち向いて。せっかくかわいい顔してるんだからさ。俺に見せてよ」
「……嫌です」
「ふうん。──そんなこと言うんだ」
放たれた声に不穏な響きが混じる。それに気づいた日向は、急いで視線を戻す。
そうして、
──日向は、息を、飲んだ。
目に映る及川の表情に、微細な変化が訪れていると察知したから。憂いなき表情の底に、得体の知れない感情が浮き出ているように見えたから。
「あ、あの、及川さん……、」
「ん? なに」
「俺……、怖い、です……」
「どうして」
「……」
言えない。
「及川さんが、最初に出逢ったときのような底知れない笑みをたたえているから」などとは、口が裂けても絶対に。
けれど、及川は、
「ああ、俺を恐れているんでしょ」
とたやすく見破るのだ。たぐいまれな観察力をもって、
「チビちゃんは俺のことをとっても怖がっているんだ……」
と看破するのだ……。
(ああ、このひとと俺の間には、)
喉を圧す喘ぎ声を必死に抑え込みながら、日向は思った。「このひとと俺の間には、けっしてまじわることのできない、薄膜のような『壁』があるんだ」と。「その『壁』を打ち砕く方法はどこにもないんだ」と──。
単純明快を地で行く日向と、複雑怪奇を地で行く及川。両者の間には、「バレー」という競技しか共通項がない。
だからこそ、及川は、日向のことを気にしているのかもしれない。容易に理解できぬ相手に執着しているのかもしれない。
それが彼にとってどのような影響をもたらすのか、日向にはさっぱりわからないけれど。
──などと考えをめぐらせていたところ、
「あ……っ……、」
手のうちで硬度を増しつつあった肉茎を、二、三度擦られた。と同時に、日向は女のように艶めかしい声を上げる。
「ははっ、チビちゃんってば、そんな声を上げるんだ。……やらしいねえ」
ふくらみを帯びた亀頭をいとおしげに揉み立てながら、及川が言う。美しい笑顔の中に少量の「毒」をひそませたような、なんとも形容しがたい表情で、脈打つ陰茎を眺めやる。
狂気。
まさしく、それこそが、いまの及川さんを駆り立てている感情なのだろう──なぜだか知れないが、日向はそのような感想を胸に抱いた。
整ったてのひらで揉みしだかれるうちに、先端がいやらしく濡れてきた。くちゅくちゅと忍びやかな水音が立つたびに、日向の体が微動する。指先はおろか、足先までもが恐怖と期待で波打つように震えた。
粘る体液が及川の指と日向の陰部をつなぐ。くちゅくちゅというささやかな音声が、ぐちゅぐちゅという派手な汁音へとうつろってゆく。
両手で口を塞ぎ、喘ぎを殺そうと試みる。
けれど、制御を失った肉体は願いに反して、ひくひくとけいれんする。嬌声だってこぼれゆく。
頭の奥が、煮え立つような愉悦に襲われる。悦びにわななく肢体をごまかすことなど、もはやできそうにない。
「……っ……、や、やだ……」
「あはは、嘘ばっかり」
狂人めいた笑みが、及川の美々しいおもてを飾り立てる。
「嘘つきなチビちゃんには、お仕置きをしなくちゃね」
低い声で告げるやいなや、及川が、日向の両足の間に身を割り込ませてきた。
そして、
「……ひっ……、」
おののく日向をよそに、強引に、秘処《ひめと》へと指を滑らせてくる。
「及川さん……。なんで、そんなとこ……、」
「ん? おまじないの一過程だよ、こんなのは」
わからない。
これからされるであろうことがなんなのか、まったくもって予測がつかない。
先走りで濡れた指が、蕾のように収縮する場所に埋まる。
「……っ……、」
かたかたと震えながら、未知なる感覚を受け止めた。ずちゅずちゅという濡れた水音が、耳について離れない。
「ほら、……もっと力抜いて」
「冗談じゃない」と思った。俺は、女のように挿入されて悦ぶような淫乱じゃない。
けれど、
「──あ……っ……、」
奥にとどまる一点を突かれたとたん、全身に軽い電流のような甘やかな刺激が走った。
と、時おなじくして、前がとろとろとしたぬめりを帯びる。
「や、やめ……、」
「まさか。ここまで来てやめるだなんて言わないよね?」
正直なところ、逃げたい。
だが、実際に、逃げられるはずがなかった。
快楽を引き出されたこの体をどうにか処理するまでは、どうあがいても逃げられやしないのだ──。
「ほら……。チビちゃん、ここをこうすると気持ちいいでしょ……?」
奥まった部分を、容赦ない手つきでいじられる。
もはや、日向には喘ぎを散らすことしかできない。目尻に溜まる涙の粒を払いのけることすらかなわない。
「さて、と……。じゃあ、おまじないをかけてあげるね」
一瞬、及川の体が離れた。
一瞬、逃げ出すチャンスが生まれた。
けれど、
「あ…………、……っ……、」
──生まれ出た好機を活かすより先に、中を、熱いもので犯された。信じがたいことに、男性器がほぐされた蕾を貫いたのである。
「及川、さん……、俺、こんなの……」
「さすがに、これははじめてなんだ? そうだよね、いくら飛雄と仲良しだからといっても、こんなことはさすがにしてないよね?」
「どうして、そこで、影山が……、」
「さあね。……俺にもわかんない」
熱い。
尋常ならざる熱を持ったかたまりが、滑るように体内を行き来している。
日向は泣いた。はしたない喘ぎ声を、雄を感じる雌の声を振りまきながら、そっと涙した。
貫通を許した時点で、──肌を許した時点で、抱擁を拒絶しうるすべは消滅した。狂気と劣情と妄執を、全身で受け止める「器」へと転落した。
「及川さん、俺は、女の子じゃ、ない……」
「知ってるよ、そんなこと」
強い揺さぶりをかけながら、及川が答える。その顔からは笑みが消え、かわりに、熱烈な獣性が覗いている。
「知ってる、お前は女の子じゃないんだって。……お前は、俺の手の届かないところで輝いている『小さな獣』なんだって……」
ぎしり、ぎしり、と鳴る振動音が両耳の奥にこびりつく。乱れがちに響く重厚な音が、日向をいっそう恥じらわせる。
男の前で裸になるなんてどうってことなかったはずなのに、──いまは恥ずかしくてたまらない。
「手に入らないのなら、俺の手で汚すまでなんだってこともわかってる……」
数瞬の間、うつろなかげりが及川の顔をよぎる。
「本当に、俺はどうして──お前に執着しているんだろうね」
言って、及川がさらに揺さぶりをかけてきた。膣のように潤んだ蕾はいまや、男をくわえるための性器へと変質している。
「あ…………、ああ……っ……、」
身を裂くような痛みが、次第に言い知れぬ快感へと変換されていく。奇妙なまでに甘美で危ういその痛苦は、日向の心を確実に魅了していった。
必死に及川の背にすがり、
「……こんなの……、駄目、……」
と訴える。けれど、
「駄目じゃないよ、なにも駄目なことなんてない」
という声とともに、さらなる律動を加えられてしまう。
いかんともしがたい快感に全身を犯され、日向は幾度もよがり、苦しみ、喘ぎ、涙した。
もはや、及川の名を呼び、そのたくましい腕にすがることしかできない。自身を征服する雄に従う「雌」として、振る舞うことしか許されていないのだ。
しかし、それは、思ったよりも悪くない感覚であった。最初からまるでそうとしつらえられていたかのように、日向の肉体は男のそれを柔軟に受け入れているのだから──。
擦れ合う素肌の感触が、欲情を加速させる。どうしようもなく汚らわしい行為をしているはずなのに、──なのに体は及川に従ってしまう。
やがて、中で雄がはじけ、同時に日向も精液をしぶかせた。
「あ……っ……、……っ……、」
高らかに響く悲鳴を、唇で封じられる。男同士で味わう淫らな行為に我を忘れながらも、及川の唇を従順に追いかける。
今夜、熟睡できるのか、自分でもよくわからない。
けれど、
──けれど、重なる心音に耳を澄ましていると、なぜだか安堵感が湧いてくる。
身のうちを駆けめぐるこの感情に名前を付けるのだとしたら、いったい、なにがふさわしいのだろう。
情欲か、それともその他の感情か。
それとも──、愛情という名の狂気か。欲望か。
「及川さん……」
強い力で抱きしめられながら、征服者の名を声に乗せる。
「俺のこと、好きですか……?」
「さあね……」
及川が言った──双の瞳に甚大な狂気をにじませたままで。
「もしかすると、俺はすでに狂っているのかもしれないね」
甘さと美しさをかけ合わせた声が、耳許をそっとすり抜ける。そよ風のようにささやかなその響きは、どこかしら日向を陶然とさせた。
(もしも『そんなに嫌じゃなかった』と言ったら、及川さん、どんな顔をするかな……)
「バレー以外ではじめて、情熱を捧げるにふさわしい存在に出逢えた」と教えたら、いったいどんな表情をするだろう。
教えた結果、二人はどんな道へと転がり出るのだろうか。
「好き、かも……」
「なにが?」及川が問い返す。
「だから、……俺、及川さんのことが……、好き、かも……」
「そう」
そして、無言のまま、頭を数回撫でられた。彼にしては珍しい、慈しみと労りに満ちたしぐさであった。
与えられるぬくもりをしかと感じ取りながら、日向は目を閉じる。
愚かしくも尊い行為にただならぬ安らぎを感じ取りながら、意識を闇の彼方へと飛ばす。
それは、きっと、恋人たちだけに許された、安穏たる眠りなのかもしれなかった。
【了】