指先に祈りを込めて

おれの血族はちょっとだけ変わっている。
「世界を変えるようなすごい力を持っている」とか、そういう意味じゃない。途方もなく強い力なんて、おれの家族は持っていない。……おそらくは先祖も、なんだろうけど。
でも、よそ様の持たない要素ならばひとつだけ、確実に備わっている。親も妹もいとこも──たぶん、「日向家」の血を引く人間なら誰でも持っている秘密だ。
それは思春期の頃によく現れるらしい。恋をすると発現するらしい。
だから、おれは「恋なんてしたくねえな」って思っていた。ずっと思っていた。
とはいっても、恋愛に興味がないわけじゃない。女の子のことは大好きだ。特に、年上の綺麗なお姉さんには目がない。実は清水先輩みたいなクールなひとが、好みのタイプだ。
まあ、あくまで先輩後輩の間柄だから、今後一切、恋愛関係に発展することはないだろうけど。「秘密」が他人にばれたら面倒なことになりそうだし。
天地がひっくり返っても告白はしない。絶対にしない。
かりにそんなことをしでかしたら、田中さんたちに、
「抜けがけすんなっ!」
と叱られると思うから。だから清水先輩への感情は、「憧れ」の段階にとどめている。
それに、おれはいま、清水先輩とは別のひとに恋をしている。しかも両思いだ。参ったか……って、誰に自慢してるんだ。誰に。
──ともかく、おれはいま、恋をしている。
いや、「恋するように仕向けられた」と言ったほうが正しいんだろうか……?

互いの部活がオフになった、とある日の夕暮れ時。
「恋をするとこうなるんです」
虹色に輝く爪を及川さんに見せながら、おれは笑った。
「恋をすると、爪が全部、虹色に光っちゃうんです。……これが、おれの家の秘密なんですけど」
及川さんの自室で向かい合って座りながら、明るい口調で言った。もっともおれは性格的に「明るい」らしいので、自然と口調も明るくなるのだけれど、それはまあ、別の話。
それよりなにより、「恋をすると爪が虹色に輝き出す」というのは、ほんとのことだ。
たいていのひとは(というより、虹色の爪を見たひとの全部が)驚きに目を丸くするのだけれど、及川さんも似たような反応をした。
「チビちゃん。これ、ネイルしてるわけじゃないよね……?」
「おれ、男ですよ? んなもん、するわけないっす」
「いや、男でもネイルするひとはするよ?」
「そんなもんなんですか?」
及川さんは返事をしなかった。その代わり、びっくりしたようにまぶたをぱちぱちさせながら、おれの右手を取った。そして思いっきり、爪を引っ張る。
「いた……、痛い痛い痛いっ! やめてくださいっ!」
涙目で乞うと、すぐに指は離れた。
「本物なんだ……」
響く声はぼうっとしている。
「おれが嘘をつくと思いますか?」
「思う」
「……」
「冗談だよ、そんな顔しないで。……落ち込まなくていいんだからね」
この日はじめて、及川さんがやっと笑った。目尻と眉尻《まゆじり》を軽く下げた、ひどく綺麗な笑み方だった。世界でいちばん好きなひとの、いちばん好きな表情に面して、おれは思わずうつむいた。
好きだと思った。
大事にしたいと思った。
最初は及川さんから告白されて、「またからかわれたんだろうなあ」と悲しくなって、力なく微笑み返したら、
「俺、本気だよ?」
なんて意外な言葉を告げられた。そのときの及川さんは、コートの上で見せるような、とても真剣な目をしていた。
及川さんはまるで、台風のようなひとだ。うちの学校の正門前にいきなり現れて、突然告白してきたのだから。
周囲には下校中の生徒が大勢いたけれど、及川さんに群がりたがる女の子たちもたくさんいたけれど、及川さんはおれだけをまっすぐ見つめてきた。
それから、
「好きだ」
と言って、うろたえるおれをしっかり抱きしめてきた。周りにひとがいるとか、先生に見つかったらどうしようとか、そんなことよりも、はじめて性的に触れられてどきりとした。口から心臓、いや、内臓全部が飛び出しそうな気分になった。
その日の翌日、またも待ち伏せされ、今度はバス停の近くでキスをされた。
「ひとが見てたらどうするんですかっ」ときつい目つきで抗議したけれど、それはまったくの無駄に終わった。
「大丈夫だよ。もしなにかあったとしても、俺がうまくごまかしてあげるから」
すこぶるいい笑みで答える及川さんを見て、おれはまたもどきりとしてしまった。
ゴムまりのように跳ねる心音をきっちり自覚しながら、
「──昂ぶるこの気持ちはいったい、なんだろう」
と不思議がった。
その日の夜、爪をふと見てみたところ、ごくささやかな変化が生まれていた。

夕空が闇に染まりゆく。──やはり、及川さんの自室でのことだ。
「綺麗な爪。貝殻みたい」
おれたちは、ふたりしてタオルケットの奥にもぐって、裸でじゃれ合ったり、けもののように戯れたりしていた。
その際、及川さんはおれの爪を「綺麗だ」と言った。「貝殻みたい」だと言った。
おれは少しだけ口をつぐんだ。まさか、貝殻にたとえられるとは想像すらしていなかったから。
「ああ、チビちゃんと海に行きたいなあ。そして、虹色の貝殻をふたりで探すんだ。……楽しいだろうなあ」
歌うように呟く及川さんに向かって、
「無理ですよ、そんなの」
と控えめに応える。
「おれたち、敵同士だし……。ふたりで堂々と外歩くなんて、絶対に無理ですよ」
しばらくおれの顔をじっと見つめたのち、及川さんが笑みを崩さずに言った。「チビちゃんって、恋愛のことになるとかなり悲観的になるんだねえ」
くすくす笑いながら指摘され、ちょっとだけ落胆を覚えた。
わずか二学年しか違わないのに、及川さんは随分とおとなびた表情をする。いや、考え方だって、おれなんかよりずっとおとなびている。
それに及川さんはいつだって、おれの胸中をきっちり見透かしてくるんだ。おれの中にひそむ悩みとか不安とかおびえとか、そういった負の感情をまるごと引き受けたうえで、解決策をもたらしてくれるんだ……。
過去に、母さんが、
「学生時代の二歳差っておおきいからね」
と話していたけれど、いまはその意味がすごくよくわかる。たしかに、及川さんとおれの間にはおおきな隔たりが在る。もしかすると年齢だけじゃ埋まらない「なにか」が、ふたりの間に横たわっているのかもしれないけれど。
「すねた顔もかわいいよ」
言って、及川さんがおれの右頬にキスをする。
「べつに……。かわいくなんかないっす!」
──顔ごと背けたはずなのに、すぐさま片手で引き戻された。
そういえば、おれたちの間には、「圧倒的な腕力差」も在るのだった。及川さんが本気を出したら、たぶん、おれが……いや、きっとおれが負ける。
まず、体格からして全然違うし。
なにしろ、おれの身長は160センチぐらいしかない。対する及川さんの身長は、180センチ以上も在る。本気を出されたらひとたまりもない。三秒と経たないうちにねじ伏せられてしまうだろう。
けれど、及川さんは乱暴なことなど一切しない。少なくともおれにはしない。
ただ嬉しそうに笑って、──とても嬉しそうに笑って、おれのことを甘やかしてくる。出会った頃は冷たい目をしていたくせに。
「ちっちゃくてかわいいよね、チビちゃんのここも」
綺麗な笑みを浮かべながら、及川さんがおれの爪にくちづけを与える。余裕いっぱいのその笑顔を見ていると、なんとなく悔しくなってくる。
体格でも腕力でもバレーでも勝てない相手だ──おなじ男として悔しさを覚えないほうがおかしいだろう?
(だけど)
──だけど、一方的に甘やかされるのもさほど嫌いじゃない。
だから困る。すごく困る。どうしようもなく困る。絶対的に困る。
男なのに男に抱かれて悦ぶなんて、おれってたぶん、変態なんだと思う。おれの周りにいる男は皆、女の子のことを好いているんだから。
「……おれ、男なのに」
「ん?」
「男なのに、男である及川さんのことが好きだなんて、変かも……」
「なにをいまさら」
頭を軽く撫でられる。くしゃくしゃと髪の毛をかき撫でられると、まるで犬猫になったような気分になる。
そういう扱いも嫌じゃないから困る。
「やること済ませた仲なのに、いまさらなにを嫌がる必要があるの?」
「それはそうだけど……」
再び口をつぐみ、微笑する及川さんの顔をにらむ。
「かわいい顔」
呟いて、及川さんがおれの左頬にキスを降らした。
「そんな反抗的な目つきをされると、ますますかわいがってあげたくなる」
手首を弱く握られ、おれは、「あ」と声を上げた。
──そうだった。
このひとは、反抗的な態度を取られるとがぜん、燃えるのだった。いろんな意味で。もちろん、性的な意味においても。
「俺、チビちゃんみたいに元気な子が好きなんだよね。従順でおとなしい子もいいけどさ、ちょっとは愉しませてもらわないと」
手首にもキスしながら、及川さんが言う。「素直な子は好きだよ。でも、歯向かう子を手なずけるのはもっと好きなんだよね」
ごくりと唾を飲み込んだ。胸を満たす期待感が体温を高め、神経を熱く昂ぶらせる。
「たとえばの話になるけど、チビちゃんってさ、こうされるの好きだよね?」
笑いながら、及川さんがおれのうなじを軽く撫でた。
「……っ、」
びくびくと身が震える。徹底的な開発を受けた体が及川さんを欲しがって、ねだるように疼いている。さっきも抱かれたというのに、まだ欲しがっている。乱されたがっている。
「こういうことをされるのも好きでしょ」
薄い胸をおおきな手が這う。押しつぶすように乳首をこねられて、おれはさらに声を出した。出さざるを得なかった。
指の爪で胸を引っかかれる。涙目でおれは乱れる。
自分でも驚くほどに、甘ったるい声が出た。友達はおろか、家族にすら聞かせられない声を、おれはいま上げている。
いたたまれなくなって自分の指を口許に持ってゆき、ぎり、と強めに噛んだ。それを及川さんの手が止める。
「せっかくいい声出してるんだからさ。……俺のために聞かせて?」
「でも……」
「でも、じゃないの。……まあ、恥ずかしがるチビちゃんもかわいいからいいけどね」
「べつにかわいくなんてない……」
ひとりごとのように呟いたそのとき、及川さんの手がおれの下半身に、──触れた。
ほどよくぬくもった手に突然触れられて、さらなる喘ぎがこぼれる。
本当は、声なんて聴かせたくなかった。最中に漏れるこの声を聞いていると、自分が自分でなくなったような気がして、なんだか怖くなるから。「同性に屈服している」という事実に打ちのめされそうになるから。
けれど、羞恥心よりも、期待感と悦びがまさる。
自分でも信じがたい話だけれど、おれたちは、すでに「やることを済ませて」いる。敵同士なのに、他校生同士なのに、──本来なら結ばれてはいけない仲なのに、体をつないでしまったんだ。
そのことに対する後ろめたさは、かなり在る。部活仲間の顔を思い浮かべるたびに、謝罪の言葉を口にしたくなる。
快楽に流されて、……あるいは愛される幸福に流されて、仲間よりもライバルチームの主将を選んだ。ひどい話だと思う。立派な裏切り行為だと思う。
だから、この恋がいつか皆にばれたなら、そのときはきっちり謝るつもりだ。そして、及川さんのことを「『おれの恋人です』」って紹介しよう」と考えている。
節々の目立つ美しい手に犯されながら、断続的に喘ぎながら、おれは覚悟を固める。「及川さんは、おれが守るんだ」って。
と。
その及川さんが不満げな顔を作りながら、手の動きを止めた。
「チビちゃん」
「……はい?」
「いま、別のこと考えていたよね? なんか、心ここに在らずって表情をしてたし」
おれは急ぎ、目をそらした。「ほんと、勘の鋭い恋人を持ったもんだなあ」という想いが心の奥にぽっかり浮かぶ。
考え事をしていたのにも関わらず、及川さんはおれを叱らなかった。その代わり、とても優しい声で、
「こっちを向いて。俺の目を見て」
と命じてくる。
こわごわと視線を移す。
十数センチほど隔てた先に在る及川さんの顔は、真剣そのものだった。
告白してきた日とおなじ表情に出合う。
心が一瞬、強く動いた。
及川さんは、県内はおろか、県外にも名の知れている美男子だ。劇的なまでに顔がいいからか、女の子にもてる。とにかくもてる。
でも及川さん本人は、自分の顔のことなどどうでもいいらしい。そして自分の顔目当てに群がってくる女子のことも、そんなに好きではないらしい。
とりあえず愛想よく接するけれど、「手紙も差し入れも捨てる」と言っていた。
最初、おれはそのことに対してすごく怒った。困ったようにたじろぐ及川さんに向かって、
「女の子たちの気持ちを踏みにじらないでください!」
と詰め寄った。
そのときの及川さんの悲しそうな顔は、とてもよく覚えている。「俺だって、好きで捨ててるんじゃないよ」という一言が、おもりのようにおれの胸に沈んだことも。
そのときはじめて、「自分こそが無神経だったんだ」と気づいた。
なみはずれた美形であるがゆえに、好きでもない子に追いかけ回される。
ゆえにいつでも、どんなときでも、明るく対応しないといけない。疲れていようが落ち込んでいようが、アイドルみたいな笑顔で颯爽と振る舞わないといけない。
それはそれで、かなりの苦痛を伴うのではないだろうか。
そう結論づけたおれは、及川さんにすぐさま謝った。頭を下げて、自分に非が在ることを認めた。
及川さんは笑っていた。でもその笑顔がなんだか、とても疲れているように見えた。
いまの及川さんはどうだろう。おれはちゃんと及川さんを癒やせているのかな。
「おれ、及川さんの顔が大好きです。綺麗なひとは皆好きだし」
布団の上に仰向けになりながら、言葉を放つ。
「でも、顔だけが好きなんじゃないんですからね。それだけは誤解しないでください」
すると、及川さんが嬉しそうに微笑んで、
「俺のどこが好きなの?」
と尋ねてきた。
「えっと……。ふたりきりになると優しくなるところとか。おれの気持ちをいつも優先してくれるところとか」
「他には?」
「笑うと意外とかわいいところとか。部活だけじゃなくて、勉強も真面目に頑張っているところとか」
「他には?」
「チームをうまくまとめているところとか。意外と他人のことを考えているところとか」
「他には?」
「……かっこいいところとか。かっこいいところとか。とにかくかっこいいところとか……」
「さっきから、『かっこいい』としか言ってないんだけど?」
「だって、及川さんは本当にかっこいいから……。特に、おれ、バレーをしているときの及川さんが好きで、すごく一生懸命な目をしてるから、バレーをするときの及川さんが好きで……」
──それから先の言葉はあえて告げなかった。
「いちばん近くにいて、及川さんの活躍を見届けたかった」などと口にしたら、きっと及川さんを困らせてしまうだろうから。
そもそも、おれなんかが及川さんみたいなすごいひとを束縛できるかというと、そんなことはない。断じてない。
好きだから自由でいてほしい。束縛なんてしたくない。
執着心は醜いだけだから。執着の中に、おれの目指す愛情はないから。
物理的にも精神的にも、及川さんとおれの間にはおおきな隔たりが在る。
でも、いちいち嘆くわけにはいかない。逢えないのなら、次に逢う機会を楽しみに待つ。秘密の関係だからおおっぴらに付き合えないけれど、また逢えるときを楽しみに待つ。一途に待つ。
及川さんが好きだ。
だから束縛したくない。わがままだって、なるべくなら言いたくない。困らせたくない。好きだから、相手の自由を守りたい。
「あ……」
「おれたちの間に在る距離はけっして埋まらないものなんだ」と悟ったとたん、涙がこぼれた。
「ごめんなさい……」
「すみません」でなく、「ごめんなさい」という言葉が自然に漏れた。
「どうして謝るの?」
優しい口調で、及川さんが問う。
手で涙を隠しながら、「おれが泣いたら及川さんが困るから」と小声で答える。
すると、くす、と笑う気配がした。そして、まぶたを覆う手を払われる。
及川さんは、やっぱり、笑っていた。獲物をくわえる肉食獣みたいな獰猛な笑みじゃなく、慈愛にあふれた何者かのように清らかな微笑をたたえていた。
「あのね、チビちゃん。そうやって、隠れて泣かれるほうが俺は辛いんだよ? どうせなら俺の胸で泣きなさい」
「でも……」
「大丈夫だから」
そうして、おれはゆっくりと抱かれた。行為に応じなきゃいけないのに泣き出してしまった自分が、とてももどかしくて、何度も何度も泣いた。
おれを抱く間、及川さんはなにも言わなかった。責めもせずなじりもせず、慰めもしないで、ただ、おれの中をいっぱいむさぼった。
「愛している」とか「好きだ」とかそういう甘い言葉すら与えずに、及川さんはおれを抱いた。
おれは抵抗せずに、泣きながら抱かれた。キスマークを付けられても中を貫かれても、激しく揺さぶられても抗わずに、ただ抱かれた。
室内光を浴びた指先が、虹色に光る。
それに及川さんの唇が静かに触れる。労るように、愛するように、なだめるように、舌先が爪に触れる。
あらためて、「このひとが好きだ」と思った。
「及川さんのことが大事だ」とも思った。

七色に輝く爪がいっそうまぶしく、瞬いた。
流れる涙のように気高く尊い輝きが、かげりゆく視界に鮮やかな残像を残した。

もうじき夜が来る。

【了】