多くのひとは及川のサーブを「大砲のようだ」と表現するけれど、日向にとってはあれはまさしく、「流れ星」だった。
強い光輝を放ちつつ鮮烈な軌道を描いて、美しく伸びていく──誰がなんと言おうが、彼のサーブは「流れ星」としか形容しえなかった。
うまくレシーブで返せなかったけれど、それよりもなによりも及川の打つサーブに見とれた。ついでに彼の顔にも見とれた。
信じがたいほどに美麗なかんばせ、すらりと長く伸びた手足、頼もしささえ感じさせる広い背中、──それからコーチもかくやと思われるほどの的確な指示の出し方。
そのどれもが日向の心を一瞬にして、縛った。縛りつけた。
さすがに試合中はプレイに集中したけれど、終わってからというもの、日増しに及川の一挙一動を鮮烈に思い出すようになった。
別段、いまのチームに不満があるわけでない。先輩方は厳しくも優しいし、影山との連携だって徐々に精度を上げている。
谷地や潔子など、マネージャーとの仲も良好だ。
けれど、夜寝る前などふとした瞬間に、及川の立ち居振る舞いを根強く思い出してしまう。
もしも自分が彼の味方であれば、あの爽快な笑みを向けてくれるのだろうか。
もしも自分が──青城生であれば、もっと傍にいられるんだろうか。
(……傍に?)
夜中家族の皆が寝静まった頃、ひとり飛び起きる。心なしか、息が荒い。肩で呼吸をしているほどだ。
おかしい。
「及川の傍にいたい」だなんて、どうしてそんな願いをいだいてしまうのか。
べつに彼と自分の間にはろくな接点がないのに、なぜ。
「……」
台所に行き、ミネラルウォーターをグラスに注ぎ、一息に飲み干した。けれど一度昂ぶった心が収まるはずもなく。
(……おれ、大王様になにを求めているんだろう)
考える。
でもくよくよ思い悩むのは性に合わない。
だから、日向は決意した。
……告白しよう。
そしてものの見事に玉砕しよう。
嫌われても蔑まされても見くびられてもいいから、とにかく告白って奴をやってみよう。
おれと大王様の間に接点なんてほとんどないから、この恋は絶対に成就しないけど──、でもこのまま、胸に秘めておくにはあまりにも惜しすぎる。
次の日、日向は青城高の正門前にてずっと待っていた。想い人の姿を見つけることはなかなかできなかったけれど、それでも待った。待ちつづけた。
「え、なんで烏野の子がいるの……?」とか、「誰か待ってるのかなあ……」とか、通りすがりの青城生が振り返り呟いたけれど、まるっきり無視して及川だけを待った。ひたすら待った。
実を言うと本日に限り、部活を休んでしまった。
いけないことだとは重々承知している。部長の澤村などに知られたら、大目玉を食らうことだろう。
けれどそれでも──逢いたかった。及川に逢って、直接話をしたかった。
一部の男と大勢の女にもてる及川のこと、すでに相当の場数を踏んでいるに違いない。日向ひとりが思いを寄せたところで、「あ、そう。ふーん」の一言で追い返されるに違いない。
でも、それでもよかった。
このまま乱れた心をかかえて苦悶するよりかは、はるかにましだ。
今日だけ。
今日だけ、ふだんの自分とは違う行動を取る。同性に対する告白をする。そしてたぶん……いや、きっと玉砕する。
そしたらふだんの「明るく元気な自分」に戻れる──はずだ。振られたからといって、女々しく泣いたりしないはずだ。
だから、──だから早く、及川に逢いたい。逢って、こっぴどく振ってほしい。「男同士の恋愛なんて気持ちが悪いだけなんだよね」とか、そういったひどい言葉を投げつけられてもかまわないから、堂々と振ってほしい。
中途半端に期待するのはとても苦しいことだから。
下校する生徒の数がまばらになってきた。夕暮れ時の空の下《した》、カラスがかあかあ鳴いている。
(青城は月曜がオフらしいし……。今日は火曜日だし……。たぶん、そのうち来ると思うんだけどな)
ぼうっと物思いに耽っていると、
「あ、チビちゃんだー!」
場違いに明るい声が響いた。
とっさに振り向き、声の主を探す。
数メートル隔てた先に、待ち人が──及川徹が立っていた。部活を終えた帰りなのだろう。ジャージを身に着けている。
「烏野の10番……? なんでこんなところに……」
及川の隣にいた岩泉が目を白黒させる。
「まあまあ、岩ちゃん。野暮なことは言いっこなしだよ。……それよりもチビちゃん、よくこんな遠いところまで来てくれたねえ。途中、道に迷わなかった?」
「お、おれ、ガキじゃねえっす……」
「だよねえ。子どもじゃないもんねえ」
どうしたものだろう、及川の表情は底抜けに明るい。部活を終えたばかりとは思えぬほどの、活力に満ちた明るさだ。
「大王様、お疲れじゃないんですか……?」
「べっつにー。それよかチビちゃんの顔を見たら、元気になっちゃった」
ふいに胸の奥がずきんと痛んだ。
たぶん……、このひとは「他校生のチビちゃん」として、日向を愛でてくれているのだろう。あくまで、「ひとりの選手」として扱ってくれているのだろう。
けれど。
自分は違う。
キスしたい、とか。抱かれたい、とか。恋人同士みたいな関係になりたい、とか。
そういうよこしまな思いをいだいている。
(おれのせいで大王様が汚《けが》れていくような気がして、怖い)
そのような危惧すら抱《いだ》いている。
「で? 待ってたんでしょ、俺のこと」
「……っ、」
ゆっくりと顔を上げ、綺麗に整った及川の顔を見つめる。「おなじ男のはずなのに、大王様ってどうしてこんなに綺麗なんだろう」とすら思う。
「クラスの子から聞いたよ。『ホームルームが終わってからずっと、烏野の男子生徒が正門前にいる』って。それも『人待ち顔で誰かを探しているようだ』ってね」
「……」
吹きつのる風は柔い。
「俺の思い過ごしであればいいんだけど……。君、もしかして俺のことをずっと待ってたの?」
とたん、全身が尋常でない熱を帯びた。
動悸がいちじるしく速くなる。
「そ、そんなことは……」
「ごまかさなくていいよ」
焦る日向とは正反対に、及川の表情はどこまでも晴れやかだ。
「チビちゃんって、つくづく嘘つくのが下手だねえ。『及川さんに逢いに来たんです』って、顔に書いてあるよ」
「……」
うつむいて、羞恥心をごまかした。けれど一度兆した恥ずかしさは、なかなか消えてくれない。
「あ、かわいい」及川が言った。
「チビちゃんって、そんな顔もするんだ。……かわいいよ」
二度も「かわいい」と言われ、日向はますます面食らった。
こわごわと目線を上げる。そこには、満面に温かな笑みを宿した及川の姿が在った。
「それで、用件はなに? 俺になにか言いたいことがあったから、こんなとこまで来たんでしょ」
「……はい」
発した声はとてつもなく震えていた。
でも言わなきゃいけない。言わなくちゃ、この逢瀬は終わらない。
振られることが目的なのだから、とにかくみずからの意志で声に出さないと──。
「おれ、……好きなんです。大王様のことが。すごく……好きなんです」
しん、とした空気が正門前に広がる。
及川も、彼の背後に控える岩泉も、なにも語らない。
「男同士だし、ライバル同士だから、この恋は叶わないとわかっています! ……でもおれ、それでも大王様のことが好きですごく好きで、どうしようもなく好きで、……ああもう、とにかく大好きなんですっ!」
半ば捨て鉢になって、告白の言葉をぶつけた。
対する及川は実に涼しげな表情をしている。
「俺のどこが好きなの?」
「……サーブ……」
「え?」
「おれ、大王様のサーブが大好きなんです! 皆は『大砲』って言うけれど、おれからしたら大王様のサーブって『流れ星』みたいに美しいものなんです。大砲だなんて無粋なものじゃなくて、流れ星みたいにとっても美しいものなんです……!」
どうしよう。
語っているそばから、足先が震えてきた。
……もう潮時なのかもしれない。言いたいことは全部打ち明けたのだから。
「あの……。おれが言いたいことはこれで全部です。これだけが言いたかったんです……」
──と。
「ありがと」
優しい感触が肩に、腰に、触れた。及川の腕だった。
「だ、大王様……っ!?」
「そんな無粋な言い方はやめてよ。どうせなら、『及川さん』って呼んでほしいな」
「……」
しばしためらったのち、日向は、
「……及川さん?」
とだけ口にした。
とたん、及川の声がはずむ。「そう、それでいいの。やればできるじゃん、チビちゃん!」
全身が震えた。大好きなひとの大好きな腕に包まれるなんて夢みたいだ。「これが夢なら、いっそ覚めないでほしい」とすら願う。
「今日の俺、かなりついてるね。大好きなチビちゃんから告白されるなんて、超ついてる!」
「え……」
「俺もずっと、君のことが好きだったよ。試合中の真剣な目も、試合後のふにゃっとした顔つきも、抱き心地がたまらなくいいところも、女の子みたいに高い声も、──全部全部大好きだよ」
「えっと、それはつまり……、」
「うん。つまり、俺たち、両片思い状態にあったわけなんだねえ」
「まさかそんなはずは」と訝しんだ。けれどあの及川が、この手の冗談を口にするとは思えない。
「信じていいんですか? 及川さんと両思いだって信じていいんですか……?」
しつこいぐらいに確認を取ったところ、
「もしかすると俺のほうが先に、チビちゃんのことを好きになっていたのかもね」
という、あたたかな声が戻ってきた。
なんたる幸運だろう。
まさか、唯一の想い人と心が重なっていっただなんて。
及川の背後にいる岩泉が、「あーもう、勝手にやれや。バカップル」とぼやくが、それもまた気分を高揚させる材料に過ぎない。願い事が無事実ったいま、日向の胸には幸福感しかないのだから。
正門前というロケーションゆえ、数名の青城生がこちらをちらりとのぞき見ていくが、知ったことか。
むしろ思いもがけぬ幸せというものは、見せつけるためにあるのだから。
(ねえ、そうでしょう? 大王様)
熱い抱擁を受けながら日向はそう思って、──今年いちばんの笑みを浮かべた。
【了】