猫には猫のプライドがある

空腹感がひどすぎて、いまなら、そんじょそこらに生えている雑草すら食えるような気がした。なけなしの理性がかろうじて働いたため、実行には移さなかったが。

「あ~、でも、腹減った……。死ぬ……」
食糧を求めて人里に降りたが、もうかれこれ半日ほどなにも口にしていない。望まぬ断食直前に食したのは、ごくちっちゃなきのこ一本のみだ。
適当に人間たちの住む町をさまよい、残飯でもあさって飢えをしのぐつもりでいた。だが、繁華街に到着するより先に空腹のほどがひどさを増し、ついには一歩も動けなくなってしまった。
さらに運の悪いことに、黒雲が天に渦巻き、粒のおおきな雨を容赦なく降らしてきた。
なので、どこぞの屋敷の大門の下に座り込みつつ、雨宿りをしているのだが──。
クリーム色のパーカを目深《まぶか》にかぶり、降りしきる雨を恨めしく見つめやる。しばらくはやみそうにない雨は、日向の憂いとか焦りとか不安などをあざ笑うかのごとく、絶え間なく地表を濡らし続けている。
「こんなものさえなければよかったのに……」
苦い表情で呟きながら、フードをめくる。中から現れ出たのは、みかん色の尖ったふたつの耳だ。なお、尻からは尻尾が生えているのだが、それはあえてそのままにしておいた。

日向とてはじめは、ごくふつうの人間としてこの世に生を受けた。たしか、五歳ぐらいまでは、猫耳もしっぽも生えていなかったように思う。
けれども、長ずるにしたがって耳やしっぽが生えてきて、行動までもが猫らしくなってきてしまった。
ゆえに、日向は──捨てられた。「純粋なヒトでなくなった」というただそれだけの理由で、両親に捨てられたのである。

「そこでなにやってんの」
ふいに響いた声が、日向の意識を我に返した。
門の下に座り込んだまま、顔だけをわずかに上げる。
そして、日向は──息を飲んだ。目に映った青年の顔があまりにも美しくて、それはそれはもう完璧なまでに美しくて、一瞬で心を奪われてしまったのである。
「人間……?」
「そりゃあね。見ればわかると思うけど」
爽やかな青で彩られた傘を閉じると、彼は言った。
「猫」たる日向を前にしても、その青年は顔色ひとつ変えなかった。まるで、仲のよい友人を相手にしているかのようにリラックスした表情で、
「で? お前、……猫だよね?」
と尋ねてくる。
瞬間、日向はたじろいだ。ひどい動揺が胸のうちを貫き、ちいさな口を重くする。
だが、青年は、くす、と楽しげに口許を歪めるのみで、日向を追い払おうとはしない。信じがたいほどに優しい目をして、惑う日向をまっすぐ見下ろしている。
「俺はね、徹。及川徹っていうの。青城高の三年でバレー部の主将をしているんだけれど……、猫のお前にこんなこと言ってもどうしようもないか」
そして、その及川は親しげな笑みをちっとも崩さぬまま、日向のすぐ隣に腰を下ろすのだった。
日向は、またもたじろいだ。驚きのあまり、「口から心臓が飛び出すんじゃないか」という妄想に駆られたほどである。
正直に言おう。
人間と肩を並べるなど、恐怖以外の何物でもなかった。

この星における「猫」のほとんどは、ごくふつうの人間の家庭で生まれ、成長する。
出生時からしばらくの間は、「人間」として育つ。
しかし。
しかし、だ。
成長するにしたがって、耳やしっぽが──生えてくるのだ。本人の望みとはまったく無関係に。
ゆえに猫は、──猫たちの多くは、保健所にて処分される運命にあった。「ヒトによく似た外見を持ちながら、異常にすぐれた運動能力を持つ『猫』は、人類にとっておおきな脅威になる」と、お上が判断したためである。
よって、猫たちはふだん、山や軒下や空きビルなどに身を隠し、いつついえるとも知れぬ命をつないでいるのであったが……。

「ねえ、チビちゃん」
突然呼ばれたために、日向は反応を忘れた。
雨の降りしきる大門の下「及川」と名乗った青年と肩を並べ、その場に座り込んでいるいまの状況がどうにも信じられなくて、心を遠くに飛ばしていたのである。
「……なんすか?」
とりあえず、声に出して尋ねる。
及川は出逢ったそのときからずっと、機嫌よさげに唇をたわめている。
「お前さ。………ペットにならない?」
「は?」
「だーかーら、『俺んちの飼い猫になっちゃいなよ』って言ってんの! その様子だと食うに困った生活を送ってるんでしょ。チビちゃん、やたら体が細いしさ」
「おれ、『チビちゃん』って名前じゃないっす」
「ふうん。……じゃあ、なんていうの?」
「日向翔陽といいます」
「ふうん」と及川がまたしても呟く。
「チビちゃんのお名前はショーヨーというのか……」ひとりごとめいた言葉が彼の口からこぼれる。
すると、及川が突然、にこりと笑いかけてきた。
「ショーヨー」
明るく柔らかな声がそれに続く。
──どきりとした。ただ名前を呼ばれただけなのに、腰の底が一気に重みを増し、肌が切なく疼き、心が鞠《まり》のようにおおきくはずんだ。
本当にどきどきした。
ただ名前を呼ばれただけなのに、耳の先まで熱を持ったほどであった。
「すっごい反応するんだね。顔だけじゃなくて、耳まで真っ赤だよ」
にやりとほくそ笑みながら、及川が言った。
雨脚は強くなる一方である。
「俺の声聴いて下着を濡らしちゃった女の子が、過去にいたけど……。もしかして、チビちゃんも下着ぐしょぐしょにしちゃった?」
「知りません!」
ぷいと顔を背け、あらぬ方向に目を移す。
「人間なんかと馴れ合ったら大変なことになる」と心のどこかが警告を発している。実際、人間の良心とやらを信じたために、ひどい扱いを受けた経験だってある。
けれど、不思議なことに、及川と話しているとなぜか警戒心を忘れてしまうのだ。緊張をほぐすような甘い響きに耳をくすぐられると、それだけですっかりリラックスした心地になってしまうのである。
「俺んちの飼い猫になりなよ。そしたら餌を探す手間も省けるし、風呂にだって毎日入れるし、野犬に襲われる可能性だってぐっと低くなる」
「で、でも……。おれはよくても、及川さんにとってはなんのメリットもないじゃないっすか」
「メリットかあ……。そうだね。ないよね」
なにがおかしいのだろう。及川が「あはははは!」と高らかに笑った。灰色の空めがけて、
「うん、メリットなんてあるわけないよな」
と言い連ねる。
「でも、俺、チビちゃんのことが欲しいんだ。自分でもなんでそう思うのかよくわかんないんだけど、チビちゃんが欲しくてたまらないんだよ。だから……、」
及川がやおら振り向き、距離を一気に詰めてきて、日向のおとがいを優しい手つきで持ち上げた。
そして、──唇を、奪った。
触れ合わせるだけのごく軽いくちづけ。けれど、ファーストキス未経験の日向にとって、それはまさしく、腰の奥に溜まる熱を押し上げる力に満ちたくちづけであった。
「ん、……っ……」
唇と唇をぴったりと隙なく合わせ、喘ぐ呼吸さえもを支配下に置いたのち、及川がゆっくりと口を離した。官能と煩悩を同時に刺激する、とんでもなく手慣れたキスであった。
「というわけで、チビちゃん。俺んちの猫になりなよ。ちゃんと役所にも届け出を出すからさ!」
抱き留められるがまま、日向はこくりとうなずいた。キスの余韻があまりにも気持ちよすぎて、他のことなどなにも考えられない。

雨はやまない。
けれど及川の腕にすがり、甘え、寄りかかっていると、雨の行方なんてどうでもよくなる。
このあたたかな腕の中にさえいれば、世を襲うすべての厄災から守られるのではないか──。

そんな予感が胸の底に生まれ、喘ぐ日向の心身を、春風のように優しく包むのであった。

【了】