獣のたしなみ

情事を終えたばかりだというのに、どうしても寝つけない。
例のごとく、及川の自室で抱き合ったあとの話だ。

夏を間近に控えたその日も部活に臨み、それなりに体力をつぎ込んでから及川邸に泊まり、セックスへとなだれ込んだ。
疲れている──はずなのだ。朝練にも参加したし、授業だって真面目に受けたし、夕方も夕方で飛んだり跳ねたりした。体はたしかに、疲労を訴えているのだ。
けれど、なぜだろう。意識がなかなか沈んでくれない。もう真夜中をすでに過ぎているのだが、それでも眠気はやってこない。来る気配すら見せない。
浮き彫りの施された木造りの天井を、無言で眺めやる。及川と体を重ねるようになってからというもの、かれこれ十回近くは見た風景だ。
い草の香りがほのかに漂う、畳敷きの部屋。なんの変哲もない、ごくふつうの和室。
けれども、「いま、まさに恋人の部屋にいるんだ」と思うと、どこかしら落ち着かない気分になる──べつに、今日はじめて肌を許したわけではないのに。
すぐ傍で眠る及川は、塑像《そぞう》のように美しい寝顔をさらしている。健やかな寝息と規則正しく上下する胸が、深い眠りの中にいることを、なによりも雄弁に証明している。
寝返りを打ち、及川のいるほうに体ごと向ける。試合中に見せる好戦的な表情は、完全に失せている。
水蜜桃《すいみつとう》のように瑞々《みずみず》しい面立ちをすぐ傍で見てしまい、日向はひとしきり微笑を浮かべた。「恋人の寝顔を独占できて嬉しい」と、胸のうちでひそかに思う。
闇は深く、とても穏やかだった。
暗闇をおびやかす鳥獣《ちょうじゅう》のたぐいも、この家屋の近隣にはいないようであった。
昔は、闇の良さがまったくわからなかった。「ちいさい頃、おばけ屋敷で泣かされたトラウマが、微妙に影響しているからだ」と日向自身は考えているのであるが、それはさておき。
及川と付き合うようになって以降、闇への恐れもおびえも完全に消滅した。
夜になれば抱き合って、愛し合って、互いの体を探り合う。
夜が来れば、他校生同士とかライバル同士だとか、そういう複雑な事情を忘れることができる。
だからいまは、夜のことも好きだ。
日向は思う。
「もしかすると、おとなになるということは、自分が思うよりもはるかに幸せなことなのかもしれない」と。
だって、年齢を重ねれば重ねるほど、好きなひとや好きなものや大事な思い出がひとつひとつ、増えていくから。生きていれば、──生きてさえいれば、たいせつな宝物にめぐり合えるから。生きていれば。生きてさえいれば。
今夜もし眠れなくても、一向にかまわない。恋人の寝顔をもっとも近い場所から見ていられるのだ──これ以上望みうる幸せなんて、いったいどこにあるだろうか。
手を伸ばす。
及川の右頬に、軽く触れる。
ほのかなぬくみが指先に染みる。命ある者のみが持ちうる体熱を肌で感じて、日向はさらに笑みを深めた。
嬉しい、と思った。
ただひとりのいとしいひとの傍にいられることが。
彼とおなじ時間、おなじ空間、おなじ世界を共有できることが。
──無防備な寝顔を見つめる特権を与えられたことが。
嬉しかった、なにもかもが。
「このまま朝を迎えたとしても、おれはきっと後悔しないだろう」とぼんやり思った──そのときだった。
ゆっくりと。
そう。とてつもなくゆっくりと、及川が、目を──開けた。
「チビちゃん……。まだ寝てなかったの……?」
焦点定まらぬ瞳はそのままに、とろりとした口調で問うてくる。
「あ……、は、はい。……あの、大王様の寝顔に見とれていたんです……」
すると、及川の目許に明るい笑みが閃いた。
「馬鹿だねえ、お前は……。俺の寝顔なんか見たって、ちっとも面白くないだろうに……」
「そんなことないっす」
なおも打ち笑う恋人を真っ向から見据えながら、日向は言った。
「おれ、大王様の寝顔が大好きなんです」
「どうして?」
「おれが見てきたなかで、いちばん綺麗な寝顔だから……」
「夏ちゃんの寝顔はどうなの?」
「夏」とは、日向の実妹《じつまい》の名前である。
「あの子の寝顔も綺麗だと思うよ、俺は」
日向は、「いいえ」と口を挟む。
「夏の寝顔は、世界でいちばんかわいい寝顔なんです。世界でいちばん綺麗な寝顔じゃありません」
「……へえ」
すっかり目を覚ました及川が、上機嫌な面持ちで日向の頬にキスをした。
「な、なにを……」
日向はもう一度、「……なにを……」と繰り返した。
不意打ちをまともに食らったため、どうしても言葉が続かない。
「いいじゃん。嬉しいことを言ってくれたんだからさ。ご褒美だよ、いまのは」
「キスがご褒美なんですか……?」
「嫌?」
慌てて、「嫌じゃないっす!」と打ち消す。この手のご褒美ならば、いつだって欲しい。毎朝毎夕、いつでも欲しがるに決まっている。
「チビちゃんさ、」
ふいに及川の両眼が、すっと細まった。
「──明日、朝練あるよね?」
「……うす」
「もう夜中だしさ、そろそろ寝ないと朝が辛いよ?」
「わかってます。けど、どうしても寝つけないんです。羊の数を数えたんですけど、それでも無理でした」
「羊じゃなくて、及川さんの数を数えればいいのに」
深い闇に、一瞬の沈黙が生まれる。
「ま、いっか。……じゃあ、俺が子守歌でも歌ってやるよ」
「大王様が、ですか……?」
「嫌ならやめるけど?」
「……嫌じゃないっす」
むしろ、いますぐ聴きたい。恋人の歌声ならば、いつでも聴いてみたい。
窓外から射し込む月の光が麗しい。
けれど、夜に美しさを醸すのは、なにも月のみではない。空を彩る星々もまた、掛け値なしに美しい。
及川が日向の目を真正面から見つめる。微笑のかたちにたわめられた、まれならず優美な瞳で。

──そして、彼は歌う。
深々とした闇夜を払うような、尊い美声を絶えず駆使して。

不足を満たす君の足跡
欠如を補う私の吠え声
螺旋を駆け下り、地下に潜る
そこは私の特等席
いびつに育った神の御座《みくら》
蠱惑を秘めた天地《あめつち》の牙
数々の武器をこころに仕込んで
くろがね造りの扉を開くの

明けゆく空はいまだ遙か
悲しみ塞ぐ汚濁《おだく》はまだか
呼べど叫べど夢想は叶わじ
これこそまさしく獣のたしなみ

嘆きを満たす君の足音
幻夢《げんむ》に寄り添う私の体温
沼地に寝そべり、真下に沈む
そこは私の特等席
いびつに汚れた光のきざはし
蠱惑に佇む天地《あめつち》の歌
数々の武器をこころに仕込んで
しろがね造りの扉をたたくの

明けゆく空はいまだ遙か
悲しみ塞ぐ汚濁はまだか
呼べど叫べど夢想は叶わじ
これこそまさしく獣のたしなみ

肥大する欲望 加速する激情
かかえきれない衝動 熱く熱く
焔《ほむら》のように荒ぶって

明けゆく空はいまだ遙か
悲しみ塞ぐ汚濁はまだか
呼べど叫べど夢想は叶わじ
これこそまさしく獣のたしなみ

けだるい真昼の雑踏で
いまは別れたあなたを想う

「うっかり、フルで歌っちゃったけど……。チビちゃん、ちゃんと聴いてた?」
「……」
「……チビちゃん?」
「……すげえ」
「えっ、」
「マジですげえ、大王様! 意外と、歌上手かったんですねっ」
「すげえ」「すげえ」と連呼する日向に微苦笑を差し向けながら、及川が、
「あのさ……」
と会話を切り出す。
「まさかとは思うけど、俺のこと、音痴だと思ってたの……?」
「はい!」
屈託なく、日向は答える。
「だって、顔がよくて、身長高くて、ファッションセンスがよくて、家が金持ちだなんてちょっと盛りすぎじゃないっすか。そのうえ、歌もうまいだなんて……、大王様、前世でどんな徳を積んだんですか?」
「さ、さあ……。前世のことはさすがにわからないかな……?」
たじろぐ及川に向かい、みずからすり寄る。それから胸にあふれる想いをそっくりそのまま、声に託した。
「おれ、今度はちゃんと眠れそうです。大王様がおれのためだけに歌ってくれたから……」
「本当に?」
「おれ、嘘は言いません」
「……だろうね。どうせ嘘をついたところで、この俺がすぐに見破っちゃうから」
「大王様、嘘を見破るの、すげえうまそうですもんね。試合の時も、相手の弱点を攻めるのがやたらうまいし……」
「チビちゃんの性感帯を攻めるのも得意だけどね」
軽口をたたき合いながら、なれたしぐさで、唇を重ねる。
最初は軽く、ついばむように。次第に深めて、舌を絡めて。
やがては唾液すらすすり合って、ふたりは愛を確かめ合う。
すれ合う肌の感触が、触れる呼気のあたたかさが、最高に心地よい。ただ触れているだけなのに、──触れられているだけなのに、比類なき幸福感が全身にまで満ち満ちてしまう。
深い闇が窓の外を覆っているけれど。
朝はいまだ、遠いままだけれど。
でも真夜中のひとときが、いまはなぜか、ひどくいとしい。
生きていること、生きようとしていること、生き延びてきたこと、──命ある世界を選びつづけていること。
時に世界は残酷だけど、それでも、いつか命が終わるまではこの世界にとどまっていたい。生きていたい。
大好きなひとのいるこの世界を、全力で肯定したい。
生きることに意味なんてなくてもいいから。
意味なんて絶対に求めないから。

「大王様、また歌ってくださいね。……おれだけのために」
返事の代わりに、唇にキスを受ける。

優しくも幸せな眠りは、もうじきやってくるだろう。

【了】