美しい眠り

日向の恋人は時折、突拍子もないことをやってのける。交際開始前からも、日向にやたらちょっかいを出してきたし、時には、口説いているとしか思えないような言葉を差し向けてきた。
及川からのアタックに根負けするかたちで付き合いを始めたあとも、無理難題を口にして、日向を困らせることがあった。それは、健全な高校生が言うような内容ではないので、ここでは省くことにする。

とにもかくにも、日向は、年上の恋人に振りまわされていた。
けれど、今日は、──今日だけは、振りまわされることを是《ぜ》とすることにした。
「だって、今日は大王様の誕生日ですから」
誰もいない及川宅にて、日向はそう告げた。思ったよりも明るい声が出たのは、好きな相手に面しているせいである。
押しきられて交際を始めるようになったけれども、日増しに相手のことを好きになっていくのは、日向とておなじであった。寝る前にはいつも及川の顔を思い浮かべるし、なんだったら、そのまま彼の夢を見ることもある。
「おれ、なんでも言うこと聞きますよ? あ、……おれにできることならって条件が付いちゃいますけど……」
目の前に座る恋人は、突然の日向の言葉にすっかり言葉を失っているようだ。軽く目を見開いたまま、微動だにせずにいる。
「驚いた顔もかっこいいな」とかなんとか考えながら、日向、固まったままの恋人に顔を近づけ、そのまま浅いキスをした。自分からそんなことをするのははじめてだったのでうまくできるか心配だったが、無事にくちづけを与えることができた。
「なんだ。おれもやればできるんだな」と、奇妙な感動を胸に覚える。──あらかじめ脳内でシミュレーションしていたとはいえ、こうもうまく行くと、かえって不安な心持にすらなった。
対する及川は、なにも言わない。ただひたすら目を丸くして、顔にキスする日向を見ている。
今日は互いの部活が休みであるがゆえ、ふたりとも私服を着ている。
ゆえに、日向は少々どきどきしていた。私服を身にまとっている恋人を間近で見るのは、はじめてのことだったので。
「ほんと、おれ、なんでも言うこと聞きますよ。だって、今日は大王様の誕生日ですからね」
言って、今度は、及川の鼻先にキスを降らせた。積極的に相手に触れているのは日向のほうだが、どうしてだろう、──緊張で、やたらまばたきの回数が増える。
「じゃあ……、」
ようやく、及川が口を開いた。その顔はいつになく、真剣そのものだ。
「はい?」
「じゃあ、俺に、」
一瞬。
ほんの一瞬だけれど、日向はちょっとだけ後悔をした。少し意地悪な側面を持つ大王様のことだもの、もしかすると無理難題をふっかけてくるかもしれない。
身構える。
けれど、及川が次に放った言葉は、予想からおおいにかけ離れたものであった。
「じゃあ、俺に膝枕をして!」
「……」
言葉を失う。
「だ、だってさ! チビちゃん、前に、夏ちゃんに膝枕をしていたじゃん!」
「夏」とは、日向の妹の名前である。
「俺が家に遊びに行ったとき、夏ちゃんに膝枕をしていたのを見て……、その……、羨ましくなったんだよ。『俺もチビちゃんに膝枕をされたい!』って、すっごく思ったしさ」
「嫌ならいいけど」とすねるように呟く声を耳にして、日向は慌てて、
「嫌じゃないっすよ」
と返事をした。
「おれの膝で良ければ、いつでも貸しますよ。ていうか、そんなんで本当にいいんですか? もっと、別のお願いを聞いてあげてもいいんですけど……」
「いや、俺は、チビちゃんに膝枕をされたいんだ」
「……わかりました」
そっと足を折り曲げ、
「どうぞ」
──真剣な表情を浮かべたままの恋人に笑いかけた。
及川が日向の膝に頭を乗せて、横になる。その姿を見て、日向はくすくすとひそやかな笑声《しょうせい》をこぼした。
「……なに?」
けだるげな面持ちで、及川が問うてくる。
磨き抜かれた窓から射し入る日の光は、豊かなまでのまぶしさをはらんでいる。
「いや……。こうして見ると、大王様っておおきな猫みたいだなーって思えちゃって……」
「ね、猫……? この俺が、猫だって!?」
よほどショックを受けたのか、「猫……」「この俺が、猫……」と、及川が口の中で何度も繰り返す。
「だって、本当に猫みたいですもん。ふだんの大王様とは別人みたいに、かわいいっす」
「言ったね」
及川が、そっと笑いかけてくる。「でも、かわいいのはお前のほうだから」
「おれだって、『かっこいい』と言われたいっす」
「それは無理かな。チビちゃんは、やることなすことかわいいからね」
「それ、なんかちょっと、気に食わないんですけど」
「ははっ、怒らない怒らない! ……それにしても、俺は幸せ者だよ。こんなにかわいいチビちゃんに膝枕をしてもらえるなんて……」
「おおげさですね。おれに膝枕をしてもらいたがっているのは、夏のほかにいないのに」
「いや、ほかにもチビちゃんに膝枕をしてもらいたがっている奴なら、いるんじゃないかな。たとえば、飛雄とか飛雄とか飛雄とか飛雄とか……」
「影山が……?」驚きのあまり、声が裏返る。
「冗談言わないでください。あいつが、おれに膝枕をせがむと本気で思っているんですか?」
「違うかな」
「違いますよ!」
「俺としては、違わない話なんだけどね。……ま、いいか。そんなことより、チビちゃんのかわいい膝を堪能できて、及川さん、とても幸せだよ……」
そして、その呟きを最後に、及川は──寝入ってしまった。
すうすう、という健やかな寝息が、日向の耳にまで届く。膝にかかる重みがなんだか嬉しくて、日向は、及川の頭を何度も撫でまわした。

──そして、数年後。
日向は、またしても及川に膝枕を施していた。所は変わって、「地球の裏側」ことリオデジャネイロの話である。
「いや、まさか、またお前と再会するなんて思ってもいなかった」
ひとの寝静まった夜更け方、満足げに微笑みながら、及川が言った。
海のように広いベッドの上で、ふたりは静かに語り合う。
たとえば、いままで経験したことについて、だとか。
たとえば、今後の進路について、だとか。
それからバレーの話も少しだけ交わしたのだけれど、でも、それはすぐさま打ち切った。
バレーに関する話題ならば、及川が滞在しているこのホテルの外でも存分にやった。だから、そう時間を要せずして、話を中断してしまったのである。
そして彼の泊まるホテルに誘われて、のこのこついていったのだが……。
「──三年離れていたのが嘘みたいっすね」
「やっぱり、及川さんって猫みたいだなあ」としみじみ思いながら、呟きをそっと落とした。
「……怒ってるの?」
ちいさな声で問われる。
「いいえ」日向は即答した。
怒りなんて湧かない。湧くはずがない。
三年前、突然、連絡を打ち切られたときはそれなりに悲しかったし、落ち込んだけれど、──すぐに気持ちを立てなおした。「いつまでもくよくよ思い悩むような性分ではない」というのが第一の理由で、「『大王様にまた逢えるような気がする』という想いに目覚めたから」というのが第二の理由であった。
「またどこかで逢ったら、自分からまた、『おれと付き合ってください!』と言えばいいや」とすら思っていた。日向はもともと、何事も楽観視するたちなのである。
──そして、
「また逢えるかもしれない」という予感は、見事的中した。
まさか、再会場所が日本でなく、日本から遠く離れたリオだとは想像すらしていなかったけれど。
大好きなひとの髪にまた触ることができて、本当に、──本当に嬉しかった。「もう二度と触れられないのかもしれない」と、なかばあきらめていたから。
楽観的な性格をしているといっても、いつもいつも前向きでなんかいられない。時には気が塞ぐことだってある。わけもなく落ち込むことだってある。
気分が低下するたびに、自分を叱咤《しった》してきたけれど、でも──立ちなおれないこともある。及川に再会する直前までがそうだった。
でも、いまは違う。
彼に再びまみえて、際限なく気分は上昇している。「浮かれすぎて、どうにかなってしまうのではないか」と危ぶむほどだ。
「ああ、俺、まだこのひとのことが好きなんだ」と思った。思いながら、美しく整えられた頭髪を指でもてあそんだ。
「チビちゃん、」
「はい?」
「いまでも、俺のことが好き?」
「嫌いだったら、こんなことしませんよ」
「それもそうか」及川が照れたように笑う。
「俺もチビちゃんのことがまだまだ好きだし。こうして再会したのもなにかの縁だし。……俺たち、また付き合わない?」
「いいんですか?」
「そのセリフを言いたいのは俺のほうだよ。……チビちゃん、怒ってないの? 俺、一方的にお前のことを捨てたんだよ?」
日向は、「別に……」と呟いた。
「『なにか考えがあって、俺に別れを告げたんだろうなあ』って思ってたし、また逢えるときを楽しみにしていたから、怒ってなんかいません。それより俺、及川さんにまた逢えてすげえ嬉しいっす。『また、こうして、膝枕をしてやりたい』と思ってたし……」
「俺も。──俺もチビちゃんの膝枕で寝たいって、ずっと思ってた」
軽い笑い声が、及川の口からこぼれる。
「チビちゃんの膝、すっごく気持ちがいいんだよ。このまま眠ってしまいたくなる」
「……だったら。眠ってもいいですよ……」
日向の膝に頭を乗せたまま、及川が背を丸める。その姿はまるで、熟睡を試みる子猫のようだ。
「俺の膝で寝るときの及川さんって、やっぱり猫みたいっす」
安らかな寝息を立てはじめた及川の髪をいじりながら、日向は薄く微笑んだ。
塑像《そぞう》のように綺麗な寝顔を眺め下ろしては、
「たぶん、俺は一生、あなたのことが好きですよ」
とささやく。
あまりに優しいその声に、我ながら驚きを隠せず、つい照れ笑いを浮かべてしまった。

とろけるように甘い夜は、まだ始まったばかりだ。

【了】