愛の妙薬

朝が来て、夕暮れが来て、夜が来て、また朝を迎える。昼は学校に行き、放課後は街をうろつき、夜は布団をかぶって寝る。そういう単調な繰り返しは、少なくとも高校を卒業する三年もの間、続くのだろうと思っていたし、まず疑いすら持っていなかった。入学してから好きな女の子が出来たし、昔別れた親友とも再会出来たし、思い残すことなんてないだろうと思っていた。――いや、それは嘘か。
僕は望んでいた。退屈な日常、平々凡々な毎日を毛嫌いしていた。どういう心理が働いているのか分析するのも面倒だけれど、物心ついた頃から、いわゆる「非日常」に強い憧れと関心をいだいていた。「学生生活が過ぎ、就職して、家族を養って、穏やかな余生を送り、墓に入るという一連のサイクルにいやおうなしに巻き込まれていくのだ」と想像がついていたせいかもしれない。「いくら望んでも自分は田舎に暮らす一学生に過ぎない」という現実に打ちのめされていたせいかもしれない。
そんな自分を変えたくて、上京した。
そして、今日。
夕暮れが不吉なほどにきれいなこの日、僕は静雄さんに抱かれる。

路地裏の真ん中を、熱気をはらんだ風が通り抜けていく。学校を出てたった二十分程度歩いただけでも、肌は汗ばんでいる。田舎だったらセミの鳴き声が聞こえてくるはずだけど、ここは池袋だ、室外機のうなる音しか耳に入ってこない。その機械は、埃にまみれたカラオケボックスの外壁に沿うように設置されていた。
ここは静かだ。静かすぎて、人も犬も猫も通らない。虫一匹飛んでこない。書き割りのように清潔な一角だ。けれど、昼でも薄暗くて、心細くなってくる。
だから、目の前の静雄さんに抱きついた。路地裏で交わるようになってからというもの、半ば習慣と化しつつある行動だ。
引き締まった胸元から、煙草の匂いが立ち込めてくる。風にさらわれ、強みを増したその匂いを嗅いで、少し安心した。静雄さんがここにいる。ここにいて、僕を受け入れてくれる。友人とつるむときとは別の安心感に満たされた。緊張もするけど、それ以上になにか、懐かしさのような感慨が湧いてくる。もっとも静雄さんは街で僕の姿を見つけたときから、煙草を消している。
このひとを誘うのは、いまの僕にとっては簡単なことだった。出会った当初は距離を測りかねていたけれど、いっしょに鍋を囲んでからは案外とっつきやすいひとだとわかったし、向こうも僕を気に入ってくれたみたいだった。
街中を歩いていると、視線を感じることがたびたびあった。そういうとき振り向くと静雄さんがいて、なにか言いたげに煙草を吹かしていた。
そして僕は黙って会釈をする。正臣や園原さんが不思議そうな顔をして僕を見るけど、ちょっとの間無視して、静雄さんに会釈をする。すると、静雄さんが嬉しそうに目を細めて、また煙草を吹かす。サングラスをかけていて目の表情が見えないときもあったけれど、おそらく静雄さんは笑ってたんじゃないかな。僕のうぬぼれかもしれないけれど。
背丈も、生まれた地域も、職業も年齢も違うのに、僕は静雄さんを見ているとなぜか惹かれてしまう。「非日常だからじゃないのか」と心のどこかにいる自分が問いかけてくるけれど、それは違うと思う。非日常を体現しているひとはほかにもいる。首のないセルティさんのほうが、より非日常に近いと思うし。
拙くぎこちないやりとりを何回か交わして、その末に僕は静雄さんと懇意になった。だからこうして、静雄さんに抱かれようとしているわけだけれど。
「怒ってますか」
尋ねると、静雄さんは黙って僕の頭を撫でてきた。
「怒ってねえよ。何度も言わせんな」
「でも、僕は静雄さんを……いちばん卑怯な方法でつなぎとめているんですよ」
「殴ってもいいですよ」と言うと、静雄さんは、「殴らねえよ」と返した。

静雄さんをつなぎとめるために選んだ、いちばん卑怯な方法。それは、静雄さんの体を僕の体に依存させることだった。
セルティさんの家に遊びに行ったときに、新羅さんから持ちかけられた実験の話が事のはじまりだった。帝人くん、そんなに静雄が好きなら、自分自身が静雄専用の媚薬になっちゃえばいいんじゃない?
セルティさんが仕事で席をはずしていたとき、いきなり新羅さんが明るい声でそう言ったので、僕は面食らった。
え、どういうことですか。
尋ねると、新羅さんはおおらかな語調で、――躊躇すら感じさせない口調で、「いま治験者を探しているんだけど、ほら、うちっていちおう闇医者だからさ。……ちょうど、体細胞を媚薬に変換する実験をしていてね。帝人くんは静雄のことが好きみたいだから、打ってつけじゃないかなと考えてさ、誘ってみたんだけど」と答えた。
未成年者を治験者に選ぶという型破りな決断に唖然としたけれど、このひとも僕にとっての「非日常」だったのですぐさま考えを改めた。それよりも、静雄さん専用の媚薬に僕がなるという話に強い魅力を感じた。
あのひとと僕のあいだに接点なんてものはない。静雄さんは僕よりも臨也さんの体臭によく気がつくらしい。僕は静雄さんに匂いを気取らせることすら出来ない。でも、もしそれが可能になるとしたら。
「お願いします」
僕は新羅さんに頭を下げた。

「帝人の体ってどこもかしこもうまそうだよな」なんて言いながら、静雄さんが僕の服を脱がせていく。そして鎖骨に唇を這わせ、丹念にキスを施していく。くちづけを与えられた体は喜びに打ち震え、次の展開を待ちかまえている。柔らかな舌が肌のうえを滑る。僕は静雄さんのベストを握りしめる。
「ああ、悪かった」
言って、静雄さんが僕の唇にキスをしてきた。風の音が止んだような、けだるい静けさが辺りを覆った。僕は静雄さんの首に腕をまわす。口を開いて、静雄さんの舌を受け入れる。甘ったるい息が鼻を抜けていく。獣に屠られていく、死に際の草食動物みたいにおとなしく征服されていく。
甘やかな官能の気配が目覚めていく。僕はそれに抗わない。静雄さんが僕を変えていくのなら、僕は進んで変質するだろう。ひとを好きになるということは、そういうことだ。心臓付近で燃えている本質に手を加えることを許す。愛し合う者だけで約束された取り決め。僕たちは、紙きれに基づかない契約を暗黙裡に結んでいる。
唾液が口端を伝い落ちていく。静雄さんの指がそれを拭ってくれる。無言の契りのなか、僕たちは愛を交わす。

僕の体が静雄さんを陥落させるこの世で唯一の媚薬となった日、僕は静雄さんのまえに姿を見せ、効能を試してみた。いつもどおり、街で立ちどまって会釈をする。静雄さんはひとりで、僕もひとり。実験するには好都合の状況だった。そして、その日はじめて僕は自分から静雄さんに歩み寄って、話しかけたのだった。
「静雄さん、いまから僕を抱けますか?」
我ながら、よく誘えたものだと思う。人通りの多い通りで同性を誘うなんて、大胆にもほどがある。でも静雄さんがうなずいてくれたから、結果としては万々歳だ。僕と静雄さんは人のいない路地裏にまで歩いていって、抱き合った。そして、今日も。

静雄さんが僕の肌に噛みつく。衝動を抑えきれないのだろう。
僕という薬は、静雄さんが生きるうえでの糧だ。静雄さんにはもう、飲食の必要がない。食べ物がなくても水がなくても生きていける。もし体がおおきく損壊しても、僕と交われば瞬く間に再生できる。逆をいえば、静雄さんは僕を犯さないと生きていけない。僕という母体にすがらないと、死んでしまう。
僕が生きているかぎり、静雄さんはけっして死なない。でも、僕の死は静雄さんの死を意味する。
だから、僕は自分自身を昔よりも大事にしている。ダラーズの管理もブルースクウェアとの連絡もできるかぎり避けているし、危ないところには近づかない。夜はなるべく、家でじっとしている。僕が死ぬと、静雄さんが死ぬ。その事実を肝に銘じているからだ。
あらわになった肌を、静雄さんの舌が吸う。痛みを伴う感覚が気持ちよくて、思わず声が出る。手で口を塞ぐ。でも振り払われる。
――声が聞きたい。
言葉では示されなかったけれど、なんとなく理解した。これまでも、こういう事態はいくたびかあった。感じすぎて、恥ずかしさのあまり、口を手で塞ぐ。あるいは声を殺す。でも、強引に振り払われる。
静雄さんはきっと、僕の声を聞くのが好きなんだろう。だから僕は抵抗せずに、声を上げた。
「あ……、や……やだ……」
でも、これは全部、嘘だ。嫌とは思わない。むしろ、もっとしてほしい。もっとくまなく、体じゅうの至るところを食い尽くしてほしい。静雄さんのものなんだと確信が持てるまで、遠慮なんかせずにどうか抱いてほしい。
爪先立ちになって、静雄さんに唇を許す。なにも言わずに、でもなんらかの明るい確信を持ちながら、僕たちはキスをする。
そういえば、静雄さんは「帝人の体じゅうから、味や匂いを感じる」と言っていた。僕の体液は、彼のかつての大好物だったバニラシェイクよりもはるかにおいしいらしい。「何度飲んでも飽きの来ない味だ」と言って、彼はよく、僕の精液を飲み干した。
こんこんと湧き出る泉のように、僕のなかから精液があふれて、静雄さんの喉を潤したときはどうしようかと身構えたけれど、静雄さんは、「帝人の体はどこもおいしい」と、喜んでくれた。その言葉に僕は力を得て、静雄さんに身を任せる。それは今日も同様だった。
性急な調子で僕のスラックスを押し下げると、静雄さんが性器に舌を這わせてきた。静雄さんの舌は、軟体動物みたいによく動く。縦横無尽に動き回る舌によって、かんたんに気持ちよくさせられて、僕は叫びを押し殺す。声は喉許まで出かかったけれど、羞恥心がわずかに作用して、僕は口をかたくなに閉じる。でも、口端に付いた唾液の跡が犯される快感を根強く物語る。舌で舐められ、唾をなすりつけられ、好き勝手に口内でなぶられ、未知の快楽につながれてもなお、僕は抵抗しない。静雄さん相手に抗うこと自体が間違っているからだ。
(告白さえしたことないのに)
「ういう交わりをするのはモラルに反する」と頭の隅で誰かが――思慮分別のある誰かが、声高に指摘する。その、叱責するような硬い声を僕は愉悦という檻に閉じ込め、喘ぎ声の奥深くに密閉する。そして、モラルうんぬんを追及する声を、肉の疼きのなかに沈める。
静雄さんに求められているのなら、……僕を糧とする静雄さんに求められているのなら、ためらいもせず、体を差し出す。邪悪な衝動が静雄さんのこころをひきずって、その結果として、静雄さんに捕食されるのだとしても、僕は静雄さんを否定しない。
僕は僕の生命を担保にして、静雄さんの全人生を肯定する。すなわち、男同士の恋愛に未来がないとか、男女の愛が正統だとか、そういう使い古された道徳観や倫理観は、愛の前ではすべて消去される。
熱風が吹き、汗がシャツを濡らす。会話もせずに、ふたりきりで、絶対的な無音の懐に置き去りにされて僕たちは求め合う。つながる瞬間を夢見て。ただ、その瞬間の到来だけを真摯に願って。
日常。常識。あらかじめ設定された数々のゲーム。そんなくだらないものは捨てて、僕たちは愛し合う。かといって、愛こそ絶対、愛こそ至上というわけでもなくて、離れればそれぞれの日常に戻って、それなりに「周囲から期待された自分」へと適応していく。そしてそれなりに満足しながら、友人の輪に入っていく。
友達といるのは楽しい。同年代の他人に対する親近感が手伝ってか、なんだかすごく安心する。
だけど、ときどき。
なんの不満も持っていないはずの友人関係がふと面倒になって、街に出て、ひとりになって、無名の個人になりたくなる。そのまま街をさまよって、行き交うひとの流れに乗って、ひたすら浮遊したくなる。
つながりを得るのも快感だけれど、つながりを捨てるのも僕にとっては快感だ。でも、それを全部捨てるほど強くはないから、ネットという楽園に避難する。
僕は静雄さんに、寄りかかっているだけなのかもしれない。「街をさまよう無名の個人」である僕を損なわない、便利のいい他人。静雄さんは僕よりもずっと強くて、生半可な攻撃じゃ倒せないひとだから、僕は、友人とはまた違った安心感を感じてしまう。
「後ろもいじってください」
僕が言うと、静雄さんは舌の動きを止めて、見上げてきた。
一瞬、目を逸らしたくなった。自分で自分のいまの表情が認められないから、客観的に物事を推し量れないから、とにかく逃げて、顔を整えたくなる。
ダラーズの統治者としての自分。澄ました顔をしてひとを取りまとめる自分が、たやすい力で崩されていく。
自分を見失う不安と、新しい自分に出会える感動、それから、もちろん――静雄さんを独占できる感動が、足先から這いのぼってくる。
新羅さんの作った薬を飲んだときに感じた感覚が、体細胞のひとつひとつが生まれ変わっていく新鮮な驚きが、僕を満たす。
でも、静雄さんはもっとより効率的な方法で、僕を惑わせる。セックスという抗いがたい方法で、僕を絡め取る。僕もまた同じように、静雄さんを絡め取る。僕たちは、互いを互いのなかへ取り込むために生きている。
ひと息ついてから、僕は後ろを振り向く。静雄さんはなにも言わない。けれど、たぶん、視線は僕が用意したローターへと釘付けになっているだろう。
静雄さんにとっての不死の霊薬、愛の妙薬になってからというもの、僕は自分で自分を慰める手段を見つけ、実行するようになっていた。静雄さんがいるときでもいないときでも、通販で買ったローターやバイブを後ろに突っ込んで、自分でいじるようになった。
静雄さんが僕でしか感じないというのなら、臨也さんの匂いよりも強く、僕の匂いを嗅ぎ取るというのなら、責任を取らなければならないと思う。
静雄さんの命を握っている責任が、僕にはある。
だから、僕は自分自身を静雄さん専用へと変えていく努力をしなければならない。静雄さんを体だけで満足させられるように、努力しつづけないといけない。
「僕」という媚薬に遭遇したあとも、静雄さんは僕から逃げないでいてくれた。世界でもっとも卑怯な方法で静雄さんをつなぎとめてしまったというのに、静雄さんは僕の束縛を許してくれた。
静雄さんは僕の体を味わっているときがいちばん興奮するらしい。そういう体質へと変貌してしまったらしい。
ならば、僕には静雄さんに愛を注ぐ義務がある。よしんば、愛情が義務でなくとも、静雄さんを求めてしまうのだろうけど。
「こういうのを入れて、街をうろついていたのか?」
壁に目を遣ったまま、僕はうなずく。
シャツのポケットからスイッチを取り出して、ボタンを押すと、
「あ、……ああ……っ」
振動が奥を苛んだ。粘膜をいたずらになぶられ、思わず喘ぐ。立っていられなくて、中腰になる。僕はあえて、電源を入れたままにした。
命の自由を奪われても、静雄さんは僕を愛すと誓ってくれた。
いや、告白なんて洒落たことをするようなひとじゃないから、そういう色っぽい展開を迎えたことはないけれど、でも僕の匂いを目印にして、逢いに来てくれる。ときどき家に上がってきて、抱いていってくれることもある。静雄さんの家につれこまれて、体じゅうを舐めまわされるときもある。それを迷惑だと思った経験はない。
僕は静雄さんにかつて憧れていた。それはしだいにひどい独占欲になって、僕自身を悩ませるようになった。園原さんが気になったとき、「これが恋か」と思ったけれど、静雄さんに対する感情ときたら、もっとひどくて手に負えないものだった。
たとえば、園原さんの姿をこっそり目で追いかけていたときでも、僕は彼女と抱き合うなんて妄想はしていなかった。
一介の高校生にしては清らかすぎるのだろうけれど、僕は園原さんとは喋っているだけで満足だった。園原さんはあまりに清純すぎて、どうしても「汚してはいけない」という気持ちにさせられてしまうのだった。
僕は、彼女を女神やその他の神聖な存在に置き換えていたのかもしれない。僕の、彼女に対する愛情はもはや、崇拝に近かったのかもしれない。
静雄さんへの気持ちも、最初は軽い崇拝のつもりだった。噂を聞きつけて、跡を追いかけて、事の真偽を確かめて、その類まれなる力に惹かれて、――あとはどうなったか、自分でもよくわからない。
気がつけば、静雄さんを欲しがっていた。気がつけば、好きになっていた。
男の身の上で男を好きになるなんて、自分でもほんとうによくわからないのだけれど、それが世の中なのだから仕方がない。世界は、いつだって自分の頭の外にある。世界の広さに比べれば、自分のかかえる妄想なんて狭い。
ローターの作動音が耳をかすめる。振動とともに伝わってくるその音が、僕をたまらなく恥じらわせる。性器代わりに後ろを使うなんて、とても恥ずかしい。静雄さんのまえじゃないと、こんなことは出来ない。好きなひとの前でしか、こんなことは出来ない。
やみくもに喘いで、静雄さんの反応をうかがう。気に入ってくれただろうか。とても気になる。「毎回おなじことをしやがって」と呆れられたりしていないだろうか。
(もっと違ったことしなくちゃいけないのかな……)
でも、僕の頭じゃ、静雄さんをより満足させる方法なんてめったに思い浮かばない。
壁に手をつき、快感の波をやりすごしていると、腰を掴まれた。
「こんなの入れやがって……」
引き抜かれる。煙草の匂いが迫ってくる。
「これじゃなくて、俺のを入れとけって言っただろ」
これ、と声がしたのと同時に、ささやかな落下音が響いた。
足先に固い物体が当たる。ローターだった。僕はスイッチを切って、手放す。
池袋に土塊(つちくれ)ののぞいている場所なんて、ごく限られた範囲にしかない。公園とか、学校とか、公共の施設が大半だ。
土のうえを固めるアスファルトが、熱を反射する。四方八方、熱気に取り囲まれ、僕はいよいよ自分を見失う。でも、静雄さんの姿だけは鮮明に見える。姿は見えないけれど、心に焼き付いている。
「濡れてる……わけねえよな」
指を入れられた。一本ずつ、なんて優しい真似はしてこない。最初から、二本入れられた。
それぞれ別々に動きまわるものだから、いやでも感じ取ってしまう。
神経がどうにかなっているんじゃないというぐらい、感じた。女の子よりもはしたない声を上げて、僕は背後にいる静雄さんにすがる。
「やっぱり、濡れてたのかもな」と静雄さんが言う。
潤滑剤を塗ったように、指は自由に出入りする。指のかたちに沿うように、粘膜が作りかえられていくのを止められない。
静雄さんのを、もうすぐ入れられる。考えるだけで、欲望が煮えたぎってくる。
静雄さんへの愛情は、清らかなだけではなく、多少汚れてもいる。
でも、愛情は汚さないと手に入らないものなのかもしれない。プラトニックな愛情には、愛の一側面しか映っていないのかもしれない。こころからひとを好きになると、ひとは堕落してしまうものなのかもしれない。
愛を全方位から掴み取ろうとすると、汚れも掴んでしまう。静雄さんが教えてくれたことだ。
指が入ってくる。いいように犯されて、僕は乱れる。粘膜だけでなく、声もこころも、静雄さんの指先で変えられていく。どうやら僕は、静雄さんの支配下にいるらしい。
僕と静雄さんを分かつ境界線が溶け出す。静雄さんの熱がなだれこんでくる。男のものにしては繊細な二本の指を、出し入れされる。
僕は乱れる。声とも悲鳴ともつかないわななきが、鼓膜に響く。
「帝人」
静雄さんの声が耳元で聞こえた。
「お前って、男と女のちょうど境目にいる生き物みてえだと思うんだよな。男なのに濡れてるようなかんじがする」
そして、前をいじられる。先端を甘く擦られて、「あ、」と声を上げる。反射的に口を手で塞ごうとしたけれど、その手を押しとどめた。
僕の体はいま、僕のものじゃなく、静雄さんのものだ。静雄さんのためだけに作り変えたそのときから、僕の体は静雄さんただひとりのものだ。
粘ついた感触が太股に伝う。足先にまでこぼれるそれは、静雄さんの指をしたたかに濡らしていく。腰の奥で、熾火がちろちろ燃えているような気がして、焦れったくなって舌を噛む。激痛で目が覚める。でも、器用に動く指たちに意識をかき乱されて、あえなく喘ぐこととなる。
客観的に見るならば、いまの僕は健全ではないだろう。だらしなく口を開き、すすり泣いて、静雄さんの前に屈する。弁解のしようがない。学校の友人がいまの僕を見たら、目を背け、見なかったふりをするだろう。ふだんの僕とはおおきくかけ離れた痴態に、戸惑うことだろう。
体が、発作を起こしたように痙攣する。まだ指を入れられただけなのに、期待感が高まって、ついでに射精感も高まる。痛いほどに勃ち上がったものがますます濡れて、雫を垂らす。
髪を振り乱し、悲鳴する僕を見て興奮したのか、静雄さんが耳を甘噛みしてきた。
静雄さんは事の最中に、ときどき僕の耳を噛む。噛んでから、耳を舐める。まるでペニスを舐めるように丁寧に舐める。犬に舐められているようなくすぐったさを覚えて、僕は微笑む。今日も耳を舐められて、僕は笑みをこぼす。舐められるたびに肩を震わせる。
とはいっても、前と後ろをいじられているので、すぐに余裕を失くす。前を扱き立てられ、後ろの、いちばん感じるところを突かれ、僕はいよいよ泣いてすがる。
意味のなさない声が喉奥からせりあがる。しつこいぐらいに静雄さんの名前しか呼べなくなる。それをお守りのように大事に繰り返しながら、僕は精液を吐き出す。
淫らな衝撃がしたのと同時に、指を抜かれた。熱っぽい余韻の残るなか、なんだか頼りない気分になって、振り向く。
――そして、僕は聞いたのだった。
「帝人」
「呼ばれた」と思ったとき、容赦なくねじ込まれた。やはり、優しさや労りなんてものはない。ひたすら荒々しく、ひたすら獰猛な蹂躙が僕を襲った。
「……あ、………ああ……」
熱風吹きすさぶ、静かな路地裏に僕の声が響く。室外機のうなり声にかき消されるほどの、ちいさな悲鳴だった。
声を殺すつもりはなかったけれど、無意識のうちに声の音量を下げるよう努めていた。
待ち望んだ瞬間を少しでも長引かせたくて、達してしまいたい衝動を抑えた。その底辺には、静雄さんを満足させたいという願いがあった。
自分だけが快楽に浸っては、ふたりでする意味がない。
セックスなんて会話とおなじだ。どちらも、ひとりではできない。相手がいるから、セックスも会話もできる。どこから始まって、どこにつながって、どこに転がっていくのかわからないまま、行為を楽しむ。僕はこの行為を楽しみたいと思ってるし、また、楽しませたいとも思っている。
ひとりでセックスしているわけじゃない。僕の相手は静雄さんだ。世界でいちばん好きなひと相手なら、どこまでいっても怖くはない。
下腹部から音がする、入れられるたびに、抜かれるたびに立つ粘液の音だ。
混ざり合った体液が、僕の下腹部を濡らす。情感を宿らせた吐息が、次々にこぼれる。
入れながら、静雄さんが僕の耳を噛んでくる。静雄さんの体と、静雄さんのこころ。欲しくて仕方のなかったものが、手のうちに収まっていく。
「好きです」と言った。
返事はなかった。
静雄さんはいつもそうだ。「俺も」とか、そういう甘い言葉は言わない。ただ、行動で示す。逢うたびに、僕を抱いてくる。話すらろくにしないのに、黙って抱いていく。そして、そのことを他人に吹聴したりしない。
静雄さんいわく、「ふたりだけの秘密だから、大事にしたいんだよ」とのことだった。
僕は嬉しかった。ひとりでかかえる秘密は重くて暗いものばかりだけれど、ふたりでかかえる秘密はなんだかわくわくする。子どもの頃作った秘密基地みたいだと思う。ふたりだけで綴る時間を崩れぬように重ね合う。それはとても尊い行為だと思う。ひとから見たら、すごくひとりよがりな行為だけれど、僕は「ふたりでかかえる秘密」を大事にしたい。
あらかじめ指で探られていた場所を、突かれる。狙いさだめたように触れられると、四肢が震えた。
手で、壁を叩く。
若干、色のくすんだ、白い壁だ。
手の甲に痛みが走る。
僕のなかを犯しながら、静雄さんが僕の右手を手に取る。そして、柔らかく包み込む。擦り剥けた皮膚を撫でて、それから、指を絡め、手を包む。
静雄さんはなにも言わない。でも、これでじゅうぶんだった。てのひらから、静雄さんの温度が、ぬくもりが伝わってくる。それだけで、じゅうぶんだった。
熱化しきった楔が、感じる部分を的確に突いてくる。静雄さんは、僕以外のひととしたことがないらしいけれど、僕はたやすく導かれてしまう。襞が静雄さんのものを締めつけていく。その、悩ましい感覚が自分でもよくわかって、消え入りたくなる。好きなひと相手じゃないと、こういうことはできないなと思う。
「帝人」
呼ばれて、首の角度を少し傾ける。
静雄さんと目が合った。言葉では誘われなかったけれど、なんとなく気配を察してしまって、気がつけばキスをしていた。乾いていた唇が湿っていく。唾液を啜り合うようにキスをしながら、僕は静雄さんに抱かれた。ほかの誰とも築けない関係だった。
浅く抜き差しされると、つい、腰を静雄さんの動きに合わせてしまう。抱かれてから知ったのだけれど、僕は快楽にひじょうに弱い。体をいじられると、勝手に昂ぶってしまう。自分では性欲の少ないほうだと考えていただけに、意外だった。耳を噛まれるのも好きなくせに、キスするのも好きだから、どちらを選ぼうか迷ってしまう。
でも、静雄さんとつながっているのなら、なんでもいいのかもしれない。静雄さんに愛情を伝えられるのなら、どんなに醜い姿をさらしても許せる。基準は僕の感情じゃなく、静雄さんの感情だ。
――そうして、僕らは深いところで結ばれる。静雄さんのものをきつく締めつけ、泣き顔を見せながら、僕は達する。精液を撒き散らし、静雄さんの体液を奥で感じながら、果てる。脈打つ肉塊との一体感を覚えながら、僕はすすり泣く。目尻を、静雄さんの指が拭ってくれる。それが嬉しくて、また、泣いてしまう。
おそらくは、明日もあさっても、その次の日も、えんえんと静雄さんに抱かれてゆくのだろう。何度も肌を寄せ合って、今日のようにつながるのだろう。静雄さんの命をもてあそんだ、その償いを補うために。愛の代償の厚みを思い知りながら。
けれど、僕は罪を罪とは思わない。静雄さんの魂を得ること。それが僕の望みだったのだから、罪悪感など感じる根拠がない。
「帝人」と静雄さんが僕の頭を撫でてくる。優しいてのひらだった。暴力を振るう手だけど、僕はこの手がとても好きだ。「好き」と言葉で言い表せないから、背伸びして、キスをする。

愛の告白すら交わしていないのに、愛を語っている僕たちは、他人の目から見たら、とても奇妙に映るだろう。だけど、いまはそんなことは考えない。
静雄さんに愛され、自分からも静雄さんを愛する。死によって分かたれるまで、強く、愛して、愛される。

不死の霊薬であり、愛の妙薬でもある僕の運命だ。

【了】