汝、逸脱するなかれ

憂慮すべき事柄などなにもないはずなのに、時折、言い知れぬ動揺を覚えることがある。たとえば、憎き仇敵から、「シズちゃん、まだしてないの?」と質問を投げかけられたときなどが、その事例に該当する。癒しがたいまでに薄暗く、狭い路地裏での話だ。
その日は、初秋だというのにいやに肌寒かった。「空っ風が吹いているのではないか」と疑りを入れたほどだ。街行くひとびとの装いも厚手で、ついさきほど夏を終えたばかりとは思えない出で立ちだった。
そういえば、折原臨也は年じゅうジャケットを羽織っているような気がする。「汗をかかない体質だから、いくら着込んでも平気なんだよ」と以前どこかで口にしていたが、思い出せない。もっとも思い出す義理もない。天敵相手に義理立てする筋合いはない。
「ねえ、聞いてるの?」
「聞いてるよ」
「手前の言うことはいちいち癪に障る」と付け足すと、静雄は煙草に火を点けた。真四角に切り取られた鈍い空に、紫煙がひとすじ立ちのぼっていく。その軌跡を目で追いながら、「俺たちの付き合いなんざ、手前には関係ねえんだよ」と言った。
しかし、臨也は「でも、恋人同士なのにおかしいじゃない。三か月も付き合ってるのに、まだ……なんてさ」と食い下がってくる。まるで「全身全霊を賭けて問いただしてやる」と言いたげな口ぶりだ。ふいに、「ここに帝人がいればいい」と思った。もしこの場に帝人が通りががったら、ここに引きずり込んで、押し倒して、くちづけて、納得いくまでかわいがってやるつもりなのに。
そもそも、自分とノミ蟲とのあいだに会話が成立していること自体が不思議だ。会えば殺し合いを繰り広げる仲だというのに、今日はどことなく手出しする気が起きない。仕事してきたばかりだというのに、「忙しい」と適当に口実を設けて追い払おうとしたが、臨也はなぜか話しかけてきた。その内容が、「シズちゃんと帝人くんってさ、いちおう恋愛関係にあるでしょ。でも、俺、風の噂で聞いたんだよね。まだヤってないんでしょ」ときた。
腹立たしい。どこか他人を試すような口調が許せない。
無意味に世故長けた性格が、まず、肌に合わない。丁重にひとを受け入れるふりをして、安易に突き飛ばすそのやりくちを知っているからか、どうしても好きになれない。
クルリとマイルは素直なのに、どうしてこいつはこんなに歪んでいるんだろう。そこまで思いかけて、煙を吐く。臨也の生育環境について思いを馳せる義理も、自分にはない。一ミリすらありえない。
「シズちゃんさあ、いま、『帝人を抱きてえなあ』とか考えてなかった?」
つい、沈黙を返してしまう。
「あ、図星なんだ。うわ、シズちゃんってやらしいなあ。白昼堂々いたいけな男子高校生捕まえて、いたずら考えついちゃうなんてさ。悪いおとなだね」
「悪いおとなだね」という部分はまるで年端もいかない子どもに言い聞かせるような、無邪気な声調だった。
静雄は黙って煙を吐く。帝人がもし成人していたら、あれこれ思い悩むまでもない。日頃「試したい」と思い描いている過激な愛撫の数々だって、「合意のうえ」と判断される。
否、世間様の判断をあおぐために自身の潔白を証明したいわけではないが、それにしても――激しく大胆に、帝人を抱きたいと思った。
いっそ軽蔑されるやもしれぬ妄想を、じかにぶつけてみたい。ほかのどんな他人も入り込めないほど傍に寄って、その顔、手足を我が物にしたい。征服欲。性欲。肉欲。そういった「負」の感情を、彼のなかに注ぎ込んでみたいのだ。
でも、「成人」と「未成年」という境界が、あふれ出る煩悩を堰き止める。
好きだから大事にしたい。
好きだからこそ、自分の自由にしたい。
ふたつの相反する感情のあいだで絶えず揺れ動いては、朝方に目を覚ます。そんな日が、かれこれ二週間もつづいていた。
「もしかして、男同士のやりかたを知らない……ってわけじゃないよね? なんだったら、俺が実技指導してやってもいいけど」
餌を見つけた猫みたいに屈託なく、臨也が笑いかけてくる。「ざけんな」と静雄はひとこと、返事する。
「手前で練習するなんて、願い下げだ」
すると、臨也の笑顔が目に見えて固まった。なに言ってんだよ、シズちゃん。俺だって、君とどうこうなるつもりはないし、そういう妄想するだけでも不愉快になるよ。俺はね、シズちゃんの隣について、帝人くんをどう抱けばいいか、実地で教えるつもりだって言ったんだよ。淀みなく流れる川のように、流暢に流れる声が煩わしかった。
「それもお断りだ。俺もな、男同士のやり方は調べたんだよ。……狩沢に尋ねたりしてな」
職場の上司であるトムならば、もっと的確な答えを述べてくれたに違いないのだが、彼とはあくまで仕事上での付き合いになる。迷惑をかけるわけにはいかない。その点、狩沢相手ならば、ある意味安心だった。男同士の恋愛になぜか強い興味を示している彼女にとって、静雄の疑問など造作ないこと。BL雑誌を山のように読まされたおかげで、知識がすこぶる身についた。
「帝人には痛い思いさせたくねえからな。そのためなら、俺は狩沢にも頭下げるぜ」
「愛されてるねえ、帝人くんは」
そして臨也が空を見上げる。ふだんの彼からはほど遠い、ごく平凡な青年めいたしぐさだった。
「まあ、俺も帝人くんのことは愛してるんだけどね」
「手前、殺されたいか?」
「できれば遠慮したいね。……でもね、俺は帝人くんを手に入れるためだったら、シズちゃんに殺されてもいいかなーとは思ってるんだよ?」
不穏なセリフが、せっかくの雰囲気を台無しにしてしまう。今日こそは、殺し合わずに済むと油断していたのに。
「帝人を寝取るというのなら、俺はこの場で手前を殺す」
ごく自然に、本音が漏れ出た。
いったい、自分はどうしてしまったのだろうと静雄は考える。昔の俺は、ここまでひとりのにんげんに執着したりしなかった。たった一度だけ、幼い時分に恋したことがあったが、それも露となって消えた。人並みはずれた膂力に恵まれた自分は、他人にとって忌避すべき存在であると信じていた。好きになってもらえるはずがないとばかり、思い込んでいた。
「帝人くんだけはシズちゃんを愛してくれるんだよね」
頭のなかを読み取ったような呟きが、聞こえた。
臨也はまだ空を見上げている。今日はやけにおとなしい。殺意が感じられない。
「もしかしたら、シズちゃんにもっと愛してほしいって思ってるかもしれないのに、触ってもらえないなんて、帝人くんがかわいそうだよね」
俺だったら、すぐに満たしてあげられるのに。まるで本心を吐露するかのように、邪気のない声音で臨也が言う。
「帝人くんがかわいそうだ。恋人に構ってもらえない帝人くんが、ほんとうにかわいそうだ。どうせ、シズちゃんのことだから、「自分はおとなで、あちらは子ども」とかよけいな理屈をこねまわしているんだろうな。そんな常識なんかさっさと捨てて、自分のやりたいようにやればいいのに」
「手前のように、好き勝手にやれれば苦労しねえよ」
苦い煙草の味で、口寂しさをごまかす。そういえば、帝人とのキスの味ですら、自分はまだ知らない。

ためいきがてらに、煙を吐き出し、ぼんやりと空を見上げる。今日の空はいつもより高い場所にあるな、と考えて、静雄は視線を落とした。

夜半過ぎ、恋人が家に訪ねてくる。恋愛小説によくある状況である。しかし、よもや、我が身に降りかかってくるとは予想だにしていなかった(そもそも、静雄は恋愛小説はおろか、「本」と呼ばれるものいっさいと縁を切っていたのであったが……)
他人の思考をなぞって感動する趣味はない。だから、テレビもほとんど観ない。映画館にだって、ひとりでは行かない。恋人の要望がなければ、あんな無意味に静まった空間に金払って行く気になれない。
玄関に上がってきた幼い恋人は、「お邪魔します」とひとこと言ったきり黙っている。奥に歩を進め、座布団のうえに座っても、微動だにしない。どことなく思い詰めたような表情を浮かべて、しきりに俯いている。ときどき意味ありげに目線を合わせてはくるが、固く、唇を引き結んでいる。
「学校でいじめにでも遭ってるのか?」
ホットミルクを差し出しながら、軽く探りを入れてみる。だが、静雄の恋人は――竜ヶ峰帝人は黙って、首を振った。
竜ヶ峰帝人。一般人が冠するには、荘厳で仰々しい響きを伴う名前だ。まず、この日本じゅうに「竜ヶ峰」という苗字を掲げる家がどれほどあるだろうか。
交際して間もない頃、帝人は「自分の名前が苦手なんです」と苦い笑みをこぼしながら、言っていた。たいした偉業を成し遂げた人物でもないのに、名前だけが立派だ、自分には似つかわしくない、と。
静雄も、帝人の名を無意識のうちに敬遠していた。大人物を表現している、その響きに苦手意識すら持っていた。
しかし、実際に帝人と会話して、それが思い違いだったと悟る。
帝人は、いまどきの高校生にしてはひどく穏やかな性格をした少年だった。
街を歩けば見知らぬ他人からも恐れられる静雄に真っ向から話しかけ、その微笑みをもって静雄を陥落せしめたのだ。
「凡庸な高校生」というのが、第一印象に在った。だが、気性の激しい静雄と相対して、冷静さを保っていられることがすでに奇跡なのだと思い知った。
たとえば、静雄が暴れているときでも、帝人は逃げずに物陰から眺めてくる。それも、お気に入りのおもちゃを見つけた幼子のように瞳を輝かせて、見つめてくる。
正直、悪い気はしなかった。崇敬の念をまなざしに乗せられて、機嫌を損ねる人物がいたら、教えてほしいものだ。
静雄が街で暴れる。その場に通りがかった帝人が、友の制止に耳を貸さず、一心不乱に静雄を見つめる。その視線の行く先に気付いた静雄が、帝人を見つめ返すようになる。
新羅の家で行われた鍋パーティーがきっかけで、距離が狭まる。
街ですれ違った折りに、どちらからともなく話しかける。
狩沢や臨也に唆されて、帝人に好意を寄せる自分を意識するようになる。
臨也も帝人に思いを寄せていると知って、慌てて交際を申し込む。そして、三か月。順調に交際が進む――、
「しかしいまのこの状況は、別れの場面に似ている」と静雄は考えた。どことなく疲弊しているような、暗い表情を見ていると、疑念が募ってくる。
大勢に囲まれても小揺るぎもしない自分が、たったひとりの少年に翻弄されている。
不安すら抱きながら、少年の口が開くのを待っている。
「……今日、バイト帰りに臨也さんに会ったんです」
俺も今日、路地裏で会った。
言いさして、言葉を切った。まだ俺の話す番じゃない。
「『好きだ』と告白されました。でも、それはいつものことだから、笑って流しました。男が男を好きになるなんて、そうそうあることじゃありませんからね。……ですが臨也さん、『帝人くん、まだシズちゃんに抱かれてないんだろ』って言ってきたんです」
「あいつ、余計なことを……」
そういえば、先刻もそんなことを言ってきた。
ただし、おのれの恋路に臨也が出張るいわれはない。恋愛は、あくまで当人同士で楽しむものだ。第三者のお節介を迎え入れるために、恋しているわけじゃない。
「静雄さんに抱かれてないこと……。僕も気になっていたから、ちょっとびっくりしました。すごくはしたないかもしれませんが、静雄さんに抱かれたらいいだろうなって妄想してたんです。でも、僕は男だから……女の子じゃないから駄目なんだろうなとも思ってました。そしたらなんだかよくわからないけど、悲しくなってきて……」
「すみません」と軽く謝ってから、帝人が話を再開する。
「静雄さんは誠実なひとだから、僕がおとなになるまでは手出ししてこないんだろうなって、想像してました。それに未成年である僕に手を出したら、場合によっては、静雄さんが罪に問われます。だから、我慢していたんですけど……、抑えが効かなくなったんです」
そして帝人が見つめてくる。全身に漂うほのかな色香を、ひとところに詰め込んだまなざしだった。
いつしか魅せられて、静雄は絶句する。
以前、臨也が「帝人くんは、ひとことで言うと『清浄無垢』なんだよ」と語っていた。
清浄無垢とは、帝人くんのためだけにある言葉だよ。世の女どもがありったけの贅を尽くして着飾ったとしても、帝人くんの微笑みには叶わない。帝人くんには、男をたぶらかす素質がある。それも、自分で意識していないのに男を籠絡するんだ。誘惑されるほうからしたら、たまったものじゃないよね。
「ああ、俺も誘惑されたんだ」と静雄は実感する。
けれど、これは必然から生じた恋でもあったのだ。
子犬のようにすがられて邪険にできる男がいたら、お目にかかりたい。恋をしても欲望を感じて苦悩しない、清廉潔白なにんげんがいたら、その垢を煎じて飲んでみたい。
帝人は、一見、凡庸な少年だった。だがその内側で、他人をかしずかせる一面を醸成させている王様でもあった。
「帝人こそが街で噂のダラーズ統率者だ」という事実を、臨也からすでに聞かされている。だから、興味を持ってしまったのだ。「ダラーズ」という巨大組織を一代で作り上げた手腕に、敬意すら覚えていた。
けれど、知れば知るほど竜ヶ峰帝人というにんげんは凡庸で優しくて穏やかで慎ましくて――、だから、統率者という肩書きとの乖離が激しくて、さらに興味をかきたてられるのだった。
はじめて、自分を上回る強大な力に出会ったような気がする。携帯ひとつであまたの仲間を集結させることができる、力。
一高校生が手にするにしてはあまりにおおきすぎる力を携えたとき、帝人がどう反応するか、関心をいだいた。
静雄も「力」に翻弄されていたからだ。思いがけないところで、ふたりのあいだには共通点があったのである。
「帝人がダラーズを取り仕切っている」と気付いている。それを口に出来たら、自分たちの恋はどのように転がっていくだろうか……。
そこまで考えた瞬間、声をかけられた。
「臨也さんは、僕らを見ていると、みっつの単語を想起するらしいです。すなわち、『肉』、『食べる』、『楽園』だと」
「またあいつはおかしなことを口走る」と静雄は思う。帝人ではなく、臨也に対する感想だ。
「肉、とは僕が静雄さんの主食だからだそうです。そんなことあるわけないと思っているんですけど……、臨也さんは、静雄さんが僕に依存している、甘えている、静雄さんが僕を支えているようで、実は静雄さんが僕に寄りかかっていると言うんです。次の、食べる、というのは、そのままの意味で、静雄さんが僕の血肉を食らうという意味だそうです。これもまた、静雄さんが僕に依存しているという事実を指し示した言葉だそうです」
最後の「楽園」というのは、と帝人が説明をつづける。
「ふたりだけの楽園で安楽に過ごすという意味ではなく、聖書でいうところの『楽園追放』というイメージなんだそうです」
「なんだそれは」
すると、帝人が笑みを深めた。
つい頭を撫でまわしたい衝動に駆られ、静雄は右手を握りしめる。
「神の創造した楽園でふたりだけの平和を満喫していたアダムとイブが、蛇に唆されて、食べてはいけない果実を食べて、それがもとで神の怒りを買って、楽園を追放されてしまうという逸話ですよ。その話と僕らがとても似ているんだそうです。臨也さんに言わせると」
あまり愉快な話ではなかった。
アダムが静雄さんで、イブが僕、臨也さんはふたりの平和を奪う蛇なんだそうです、と帝人が言い添える。
静雄は黙して、内容を検分する。
「すると、俺たちは臨也がきっかけで平和を損ねるってことか」
「そうみたいですね」
返事を返す帝人の表情には、どこかしら諦念が感じられた。どこまで行っても、僕たちは臨也さんに邪魔されるのですね。そう言いたげなようすだった。
――抱きしめたい。
ふいに動いた手は、しかし、宙空で止まる。
この三ヶ月間、帝人からの頼まれ事はほとんどこなしてきた。彼が欲しがるもの、ねだるものなら、なんでも与えた。けれど、まだ、キスと抱擁だけは与えずにいる。
劣情任せに抱いて、鳴かせて、鉄鎖で縛るように自分の手許に置きたい。
帝人に出会ってから自覚したが、自分はとても我がままだ。「男を誘う微笑」と称される彼の微笑みを独占しているくせに、まだ飽き足りない。呼吸と同等の熱を取り込みたがって、皮膚の内側で荒れ狂っている。
狂気とも呼べる熱意を、帝人の細い体は受け止められるだろうか。もしかすると、その肌を食い破るほどに、恋心はいやましているというのに。
「僕を抱くのは、嫌ですか?」
途切れがちの独白が静寂を拭う。「嫌なんかじゃねえ」と即答できたらどんなにか楽な心持になれただろう。
「……今日は泊まっていけよ。明日、学校ないだろ?」
「着替え持ってきてやるから」とひとこと言い置いて、立ち上がり、背を向ける。一歩、二歩と歩んでも、こころは帝人の元から離れられない。彼に恋してからというもの、自分のこころはつねに帝人の傍に佇んでいる。
言葉ではうまく伝えきれずに歯がゆい思いを何度も経験した。接点の少ない自分たちの関係を補強するのは言葉しかないとわかりきっているのに、つい声かけをおろそかにした。好きだ、と告げる──ただそれだけでよりよい関係を築けたはずなのに、なにも言えずにいた。
嫌いだから、じゃない。その逆だ。
好きだから、声にするのももどかしい。愛情は、純化されればされるほど、かたちを失くしていくものなのだ。
「待ってください」
立ち上がる気配を察知した。静雄は足を止める。しかし、振り向かずに前を見据える。
渋い色合いのカーテンが目に入る。塵ひとつない床面が目に入る。帝人がくれたライオンのぬいぐるみが目に入る。だが、静雄の目は帝人の面影だけを映している。まなうらに、帝人の残した残像が宿っている。
ひとりのときは、それを追いかけ、我が身を慰めてきた。しかし、いまは本物がすぐ後ろにいる。「静雄さん」と透き通った声を投げかけ、背中にすがってくる。
「僕の体はそんなにも醜いのですか?」
「お前はきれいだよ」
微苦笑を浮かべて返答する。「背中に感じる体温が好きだ」と思う。
「きれいだから抱けないんだよ。お前はまだちいさいから、こういう気持ち、わからねえかもしれないけどな」
この凶悪な両腕に、純潔を汚す資格はない。帝人にはきれいなままでいてほしい。せめて成人するまで、大事に守ってやりたい。
なのに、帝人は言う。「静雄さんが抱いてくれるまでは寝ません。一晩じゅうでも起きてます」と。
「分からず屋」と静雄は少しだけ、憤る。暴力を振るうかわりに、床に押し倒したくなる。
──そこで静雄は気付いた。
今日の昼も、「帝人を抱きたい」という衝動が脳裏をよぎった。路地裏で、臨也に話しかけられた瞬間、強烈な嗜虐心が腹の底から湧きあがってきた。それはいっぽうで臨也に向けられていたが、――いっぽうではその場にいなかった帝人に向かっていた。この世で自分の自由にならない相手たちだ。
臨也には純粋な暴力を振るう。蘇生できないように、八つ裂きにしてやりたいと常より願っている。
しかし、帝人を傷つけたいとは思わない。さきほど述べたように、守ってやりたいのが本音だ。
(でも、ほんとうは)
自分の愛で、帝人を破壊したい。自分以外のひとを見なくなるまで、自分以外のひとを信じなくなるまで、自分以外のひとを愛さなくなるまで、破壊して、破壊して、破壊して、身もこころも自分だけのものにしてしまいたい。醜いのはきっと、帝人ではなく自分なのだ。愛情を理由に、帝人の平和を損ねる自分なのだ。
もしかすると、「蛇」とは臨也でなく、アダムたる自分なのかもしれない。帝人に誘惑される反面、帝人を誘惑したいと切望している――。
このままいっしょに過ごしたら、帝人を壊してしまう。
それがわかっているから、帝人を抱けない。好きなように愛せない。
悪逆非道なおのれの性分を自覚しているから、距離を取ってしまう。
「どうして抱かれたがるんだ」
低声で問いかける。
しばらくして、返事が返ってきた。
「臨也さんが言ってたんです。僕の、静雄さんを想う気持ちはたんなる憧れだって。いまはそうじゃないのに」
「いまは……ということは、昔は俺に憧れてたのか」
「はい」と帝人が言う。背に呼気が当たる。
「昔は、園原さんのほうがずっと好きでした」
「俺よりも好きだったのか?」
「ええ」
眼前に、一瞬、閃光が走ったような錯覚を覚えた。
帝人に好きな奴がいたことも知っていた。けれど、実際に彼の口から告白されると、どうしていいかまごついてしまう。男が女を愛するのが正常で、男が男を愛するのは異常だというのが世の習わしなのに、どうしてこんなに動揺してしまうのか。
「最近の俺は、動揺してばかりいる」と黙考する。真剣に恋すればするほど、精神的に弱くなっていく。帝人がもたらしてくれたものは多い。なのに、弱さと愚かさが際限なく露出していく。そしていま、境界を踏み越えて、帝人を――、
(「帝人を」?)
つづく言葉が見当たらない。漂白された思考の裏側でなにを考えていたのか。
「静雄さん、いま嫉妬しましたよね」
またも呼気が背に当たる。
「臨也さんでなく、園原さんに嫉妬しましたよね」
「するわけねえだろ。……女なんかに」
「嘘でしょう。あなたは園原さんに嫉妬したはずです。だって、臨也さんが言ってたんです。園原さんの話をすれば静雄さんが嫉妬心を募らせて、僕を抱くはずだって――」
「嫉妬なんかしてねえよ」
「いいえ。あなたは嫉妬しています。ほら、脈が速くなってきました」
「……」
「僕のこと、好きにしていいんですよ。遠慮なんかしないでください」
「……」
「静雄さん」と名前を呼ばれる。懇願されているようだと感じて、静雄はまぶたを閉じる。
まなうらに宿った帝人の残像が見える。本物と同量の確かさで、残像が名前を呼んでくる。
静雄さん、静雄さん。
前方と背後から、交互に名前を呼ばれる。その間隔がしだいに短くなってくる。
「――わかった」
決着は一瞬だった。追い詰めて、喘がせて、鳴かせたい。間欠泉のようにさかんに湧き出る欲動に逆らえず、唇を奪った。舌を吸い、口蓋を舐め、唾液を交換する。懇願されたからには、我慢なんてこの際、忘れる。良識的なおとなの仮面を剥ぎ取って、魂の奥底に格納する。
はじめて堪能する帝人の味は格別だった。舐め遊ぶだけでは物足りず、舌先を甘噛みして、おのれの嗜虐心を満たした。しかし、まだ足りない。奪えば奪うほど欲しがってしまう。
突き上げてくる欲望に従い、衣服に手をかけ、引き裂く。
一瞬、帝人の視線が硬化したが、見なかったふりをして優しく押し倒した。「静雄さん」と呼ぶ声を無視して、口唇を塞ぐ。すでに余裕など、遠くに吹き飛んでいる。
「帝人」
唇を離し、視線を合わせ、そして言う。
「これから、いやらしい目に遭わせてやるよ」
期待と憂いを同時に表情にあらわした年下の恋人を見下ろし、引き裂いたシャツの切れ端を慌ただしく払いのけ、肌のうえに痕をつけた。軽く吸い上げてから肌の変色するさまを見届け、また刻印を与える。薄紅色の痣が浮き出るのを眺めるのが、愉快でたまらなかった。
帝人はかつて、自分でない他人に恋していた。「園原杏里」という名の同級生だった。
彼女こそがかつて自分を斬った刀の「親」だ。そう臨也に告げられても平静を取り繕うことができた。過ぎた出来事を掘り返す趣味は持ち合わせていない。
ただし、園原杏里こそが帝人の想い人だった、と知らされた瞬間、胸中でなにかが――とてつもなくいびつなかたちをしたなにかが弾けた。もしくは、自分の一部が崩落した、欠損したとでもいうべきか。
「帝人こそがダラーズの統率者である」なんて情報は、まだほんの序の口だった。てっきり、あのいたいけなまなざしは、自分だけのものなのだと過信していた。それを根底から覆されたとき、いちじるしく動揺した。
動揺。
竜ヶ峰帝人に出会うまで、知らなかった感情だ。彼と出会わなければ、自分はもっと堂々と、威勢良く振る舞えただろう。「恋」という概念とは距離を置いて付き合えたはずだ。ましてや、男同士の恋愛などとは無縁でいられたはずだ。
愛を獲得しえないかわりに、愛のもたらす憂鬱について考える苦難を避けられただろう。
けれど、出会いは必然だった。一途に求められ、追いかけられ、――あれほどまで熱心に崇拝されたら、振り向かずにはいられない。背中に追いすがる視線こそが、恋の端緒だった。振り返ったとき、恋が始まったのだ。
「……まだ、園原とかいう女のことを考えているのか」
「いいえ」とか細い声で帝人が答える。
「嘘だ」と思った。根拠はなかった。本能的に、帝人の返事を否んだだけだ。
静雄は嘆息する。俺の本能には「破壊」という単語しかない。壊したくないという相手に限って、壊してしまう運命にある。初恋もこの手で壊した。膨大な量の物品をこの手で壊してきた。「壊したくない」と願っているのに破壊してしまう。そして、今度は帝人を壊そうとしている。
漠然とした不安をかかえながら、帝人の、薄い胸にすがりついた。情けを乞うように、肌にくちづける。激情はいまや退いた。労わるように、慈しむように、肌にキスを落としていく。
毛先が当たるとくすぐったいのか、帝人が笑う。ふいにその余裕を壊したくなって、噛み付いてしまう。けれど、帝人は拒まない。「好きです」と何度も口にしては、静雄の頭髪に指を絡めてくる。紆余曲折を経て、相思相愛の仲になったのだと感受する一瞬だ。
しかし、帝人はまだなにも知らない。自分がどれだけ帝人を独占したいと考えているか。両手両足、体毛の一房までも我が物にしたいと考えているか。帝人の知人たちですら、――臨也や園原という女ですら、入り込めないほど隙間なく、帝人の内部を自分で埋め尽くしたいと考えているか。
どれほど、帝人を欲しがっているか。
どれほど、多大なる庇護欲と肉欲の狭間で苦しんでいるか。
洗いざらい、すべてをぶちまけてしまいたかった。
いまはそれが許されるときだと、静雄は独断する。けっして、帝人を人形に見立てているわけではない。ひとりよがりのセックスなど、非難されてしかるべきだ。
ただ、欲しいだけだ。帝人が欲しいだけだ。帝人の喉元に愛を突きつけ、こころゆくまで犯したいだけだ。
それを本能というのなら、なんて、みっともないざまだ。年下の、それも成人に達していない少年を愛してしまうなんて。年上に癒されたがっていると思いきや、年下に入れ上げてしまうとは。
けれど、出会いは必然だった。非日常を愛する少年と、日常を愛する青年。池袋という街を背景に、育んできた恋心。もしくは、執着。偏愛。狂ったように求めては、擦れ違い、また求める。その繰り返し。しかし、静雄にはそれが楽しかった。醒めた自分のなかにも情熱の炎が灯っていたことが、このうえなく、楽しかったのだ。
帝人を愛するのは楽しい。犯すのも楽しい。どんな玩具もかなわないぐらい、帝人には魅力がある。いっそ、魔的と呼んでも差し支えがないほどだ。
この少年の魂には、悪魔が棲んでいる。男を誘い、淫らな熱を覚えさせる老獪な悪魔だ。いつもは平凡ななりをしている。無害と表現してもいい。
だが、そのまなざしに潜む色香が放たれた瞬間、周囲の男は煩悩という煩悩に苦しめられる運命を背負う羽目に陥るのだ。どんなに美しい容貌の女でも、この少年の放つ刹那の色気には及ばない。清浄無垢であるがゆえに、男を誘い、破滅させる。恐るべきその能力にかなう女など、この世のどこにも存在しない。
「帝人……。俺のこと想いながら抜いたこと、あるか?」
開けっ広げな問いかけを発すると、目に見えて帝人の頬が赤く染まった。てっきり、「いいえ」と返されると思っていた。だが、帝人はちいさく息を吸い込んだあと、「はい」と答えた。
だが、予想を離れた反応ではない。ダラーズという巨大組織をまとめ上げる手腕を有するのならば、それぐらいの胆力があって当然だ。それにこいつは女ではない。男だ。
「いま自分でやってほしいと頼んだら、受け入れてくれるか?」
下手に出て頼み込む。しかし、静雄はいくばくか、優越を感じていた。帝人はけっして、俺の頼み事を断らない。明白な確信があったからだ。
沈黙をいくらか作ったのち、帝人がベルトをはずす。勢いのない、なよやかな手つきだ。そしてジッパーをおろし、下着のなかに手を滑らせ、
「……っ、」
息を詰め、性器を握る。それから頼りない手さばきで、上下に扱く。家に上がってきたときと同様、口は固く閉ざしている。まぶたも固く閉じ合わせている。
恋人が乱れていくようすをつぶさに観察する。薄い胸が膨らんだかと思うと萎み、萎んだかと思うと、膨らんでいく。その間隔は最初、緩慢であったが、性器が屹立するにしたがって、しだいに急速になっていく。下着のなかで成長していくペニスのようすは、詳しくはわからない。ただ、衣服越しに膨張しているとしか判断できない。ゆえに妄想が実っていく。
あの下着のしたでは、帝人の、細い指が自身に稚拙な愛撫をもたらしている。それを受けた性器が硬度を増す。やがて、勃起した性器は先端から数滴の滴を垂らすことだろう。その味を確かめてみたくなったが、あえて見過ごす。そのかわりに唇を指でこじ開け、歯列を撫でた。
「……あ、」
そして、口内に指を入れる。人さし指と中指を同時に入れて、口蓋に触れた。生温かい息がまとわりつく。はじめて触れる帝人の温度だ。まだ挿入を果たしていないのに、なかに入れたような心持を覚え、気持ちが浮き足立つ。肥大する欲望にせっつかれるまま、指を出し入れした。いりぐちぎりぎりまで抜いて、奥まで突っ込む。ときおり、帝人が鋭くえずくが、気にせず口を開かせる。
よだれを流しながら、帝人が喘ぐ。目許がほんのり色づいていくさまを見届ける。えもいわれぬ快感が背筋を突き抜ける。キスより、もっといやらしいことを自分たちはしている。なにより、帝人の体内に自分の一部が埋まっている。神を蔑《なみ》するよりも楽しい遊びだった。
きっと、これは楽しいことなのだ。血肉を直接屠らず、間接的に支配する。壊さないように気をつけながら、彼の本性を、覆いかぶさった仮面を剥ぎ取っていく。
剥き出しの欲望をぶつけ合う遊び。
けれど、これは命を賭けるに値する真剣勝負でもあるのだ。
喘ぎ声は、いまや静雄の耳にも届いている。強制的に口を開かされているがゆえに、止めることはできない。
俺のこころは蛇と化したのだ。あれほど痛烈に嫌ってきた臨也と同格に成り下がったのだ。苦い気分が込み上げてくる。
だが、その反面、楽しくて、楽しくて、どうしようもなくなってくる。楽しすぎて、破壊したくなる。叫び出したくなる。目に映るものを片っ端から壊して、壊して、殺すように壊して、いっさいを破壊という名の平等のもとに葬り去りたくなってくる。
「殺す」なんてとんでもない。殺さない程度に痛めつけるのが楽しいのだ。だって、自分は「蛇」なのだから。神の寵愛からはずれた、唯一のけものなのだから。
口内を激しく、好き勝手にかきまわすと、帝人がえずく。よだれを流す。潤んだ瞳で見上げてくる。奪うように愛しながら、キスしたい衝動に駆られながら、しかし口のなかを隅々まで指先でつつく。
瞳とおなじく潤んだ口内は、膣を思わせる。けれど、いま抱いている相手は女性ではない。少年といえども、れっきとした男だ。同性なのだ。本来、惹かれる要素のない相手だ。
なのに、帝人は自分をどこまでも従わせる。
「……あ、……っ、」
かすかな息を漏らし、帝人が吐精する。一幅の絵画のように雅びやかな一瞬だった。一瞬、というものはこんなにも美しいものだったのだと、恋をしてからはじめて知った。
帝人の挙動ならなんでも押さえておきたい。彼の好きなもの、嫌いなもの、趣味嗜好、性癖、過去から未来までの由なし事をなんでも記憶しておきたい。
頭で覚えるだけでなく、肉体にも刻みつけておきたい。彼を好きだと思ったこと、恋に落ちたそのきっかけ、ただ彼を見つめたこと、愛したこと、求めたこと、その他の瑣末な事柄すべてを思い出したい。
記憶も積み重なる一瞬もいつかは忘れられるものだけれど、でもきっと、このからだのどこかに蓄積されていくだろう。愛がもたらした感動と汚れは、自分を構成する部品となって、命をつなぐ源となるだろう。
犯すように、愛した。
記憶はいつでも美しく、また、よがり泣く帝人も美しい。
指を引き抜き、帝人の衣服を手で引き裂いた。肌を傷つけないよう注意しながら、彼を覆う衣類すべてを引き裂いた。布地の厚い部分は口で噛みちぎった。いかんなく獣性を発揮しながら、帝人を抱いた。年上の、冷静なおとなを演じる必要は、この場においては塵ほどもない。誘惑されたから、自分も帝人を誘惑するのだ。思いつくかぎりの手練手管を用いて、この魔的な少年を乱れさせるのだ。
濡れ染みを浮かべた下着をちりぢりに引き裂き、俯かせて、双臀のあわいを押し広げた。相当な痛みを感じているはずなのに、帝人は文句ひとつ述べなかった。
「好きだ」と告白したからだと静雄は思った。たったひとことの告白が痛覚を麻痺させてしまったのだと思った。
「俺のこと、嫌いになってもいいぞ」と言った。けれど、帝人は黙ったままでいた。一途に喘ぎをこぼしながら、指を受け入れていた。二本、三本と入れられても、しきりに黙然とし、堪えていた。
ふと、どんな表情を浮かべているだろうと興味が募った。苦痛をこらえたかんばせはさぞかし妖艶で、美しいに違いない。
顔が見たいと思った。だが、体内をかき乱す指に神経を集中させた。傷つけないように、あくまで優しく壊さないといけない。殺害が目的ではなく、破壊が目的なのだから。
懇願するように、希《こいねが》うように、「好きだ」と囁く。帝人の呼吸が一瞬、停止する。
その瞬間を見計らって、ひくつく蕾に棒状の欲望を突き入れた。帝人は声を上げなかった。濃密な熱気が跳ね上がって、彼を翻弄した、ように見えた。
熱心に中を穿つ。奥を暴く。
静雄は翻弄されていた。自身を包む柔らかな肉襞に翻弄されていた。他人と交わる喜びを覚え、肉という肉が興奮の頂を極めた。
息をするのももどかしい。漂白された思考を脳裏にかかえたまま、やみくもに腰を前後させた。優しくする余裕などなかった。
ただ、帝人に覚えてほしかった。どれだけ自分が帝人を欲しがっているか。どれだけ帝人を恋い慕っているか。どれだけ帝人を壊したいと願っているか、あるいは帝人の持つ憧れめいた感情を握り潰したいと願っているか。
細い肢体に、自分のすべてを、記憶させたかった。美しいところも、汚いところも、覚えていてほしかった。
潮のように押し寄せてくる快感に堪えながら、静雄はなかを撹拌する。女のからだではここまで気持ちよくはなれなかったろう。男のからだだから、男が男を征服するという快感があるから、こんなにも気持ちよく濡れてしまうのだ。
「帝人……。お前のなか、気持ちいいな」
わざといやらしい笑みをたたえながら、返事を待つ。
帝人はただ、喘ぎをこぼす。羞恥に苛まれているのか、それとも波打つ快感をやり過ごしているのか。
どちらでも構わない。もっと、恥ずかしい目に遭わせてやりたいだけだから。誰も入り込めないほど、肉親ですら入り込めないほど、帝人の内部を満たしてやりたい。
自分はもしかすると、いま、狂い出しているのかもしれない。愛と狂気は紙一重の場所にあるのかもしれない。
だったら、俺は――狂ってもいい。いっそ狂気に芯まで浸かって、帝人も巻き添えにしてしまいたい。生も死もともにするほどに、たとえば心中でもするように、愛してやりたい。
はじめてするセックスは、まるでそう、心中のようだった。体液に濡れた肉体は泥のようにひとつになって、色情感に満ち満ちた精神は死の淵にまで落ち込んでいた。きりもみ飛行でもするかのように、落ちながら、あるいは上昇しながら、けれど確実に落下していた。
死によって引き裂かれる仲だというのなら、死に逆らって、心中しよう。
まさしく、狂気の沙汰だった。
絡みつく肉の味に催淫されながら、上反りに勃起したものでなかを犯す。奥まで入れて、かきまわして、外気と接する地点まで引き抜いて、また入れる。ただそれだけの単純なセックス。けれど、この単純な反復こそが快感だった。
他の誰でもない、こころを許した唯一の相手を骨の髄まで愛する。失調すらする上下感覚に自我を失くしかけながら、体内を、自身で埋めてゆく。男根を包み込む柔らかな肉に欲情しながら、ひたすら犯す。こころゆくまで、犯す。慈悲を乞われても、犯す。愛情で窒息するまで、犯していく。
臓腑を抉るように、鋭く、犯して、犯して、食らいつく。原始からヒトが獲得してきたであろう快楽の恩恵に浴する。すなわち、愛する者と交情する。その恩恵に浴しながら、また、貫く。
離れるのが惜しくなるほど、帝人を独占する。快感を支配して、快感に服従して、ただひとつしかない一瞬を分け合う。「好きだ」というその想いと同化するまで、溺れてゆく――。
「あ、……ああ……っ、」
幾重にも屈折した喘ぎ声が、帝人の口から漏れる。
と、同時に精液を奥処《おくが》に叩きつけ、絶頂を教え込む。
帝人もまた、精を放ち、そしてふたり、床のうえにくずおれる。あとに残るは、空蝉のように軽くなった体ふたつだけだ。
乱れる息をただしながら、静雄は思う。お前のいだく憧れなど、この手でひねり潰してやる。いま、お前を抱く男がどれほど醜く歪んでいるか、とくと教えてやる。お前を深く愛した男の末路をその目で確かめるといい。
また、お前にはその資格がある。俺の美しさと汚さをあまねく見通す義務が、お前にはある。
お前が憧れた男は、流転の荒野に放逐された一匹の野獣だ。お前が愛した男は神でもなく、英雄でもなく、幼い少年に欲情するただの色狂いだ。
性器を引き抜き、横たわる恋人のからだを仰向けさせ、キスを与える。口内を存分に舐め遊んでは、唾液を飲む。
やがて静寂が戻ってくる。けれど、熱気はいまだ滞っている。
「蛇」と化した自分の姿に、地獄を思った。さよう、この秘められた営みこそは楽園の終わり、地獄の始まりでもあった。「恋愛」と一般に世間で呼ばれる、悲しいまでに美しい地獄の、ささやかな始まり。
とこしえの光は息絶え、恋愛という形骸を擬した地獄が産声を上げる。恋心があるかぎり、花開く闇が終わりを告げることはない。
静雄に憧れを捧げたかの少年は、そのうち、思い知るであろう。恋した男は、一体の「蛇」――この世に降りた邪悪なけもの、もしくは不滅の誘惑者だった、と。

現人神《あらひとがみ》の死は、楽園の死でもあったのだ。

【了】