「ずっと晴天が続いたらいいのにな」と日々、祈るように願っている。
農業に従事しているひとからしたらとんでもない発想かもしれないけれど、それでも与《たすく》は毎日のように願っている──雨の日が来ないことを。
「だって雨の日は、君、きまって発情するもんな」
大きなロフトベッドの上で群青色のセーラー服を脱がされながら、与は背の高い青年をぼんやりと見上げる。子どもじみたおもちゃが床上に散乱しているこの部屋のあるじの姿を。
正直な話、指先が震えそうなほどの恐怖心を胸に感じていたが、しかし、目は閉じなかった。憐れむように笑みながら覆いかぶさってくる彼の一挙一動を見逃したくはなかったから、青年のなすことをひたすら凝視し続けた。
雨雲が近づいてくると、あるいは気象予報士が雨を報じると、与は、市街地のはずれにあるスレート屋根の一軒家を訪れた。それも歩いてでなく、走って門前まで向かい、続けざまにインターフォンを押した。
勾配のゆるい坂道の頂に建つ、太い喬木《きょうぼく》に囲まれたその家の周囲には、人家も小屋もなかった。店もなかった。路線バスの停留所もむろんなかった。
一見すると何の変哲もない洋風の小さな家屋──そこは、発情した肉体を鎮めてくれる「護民専従官《ごみんせんじゅうかん》」の常駐先であった。そしてかの青年は、国が設立した「特定の疾患を持つ女性のための保護施設」で働く労働者だったのである。
「……仕方ないでしょう。僕はトランスエフなのだから」
めくるように衣服を脱がされながら、与は言った。「名も知らぬ青年に裸にされつつある」という屈辱から意識を逸らすために、わざと雨音に心を集中させ、
「トランスエフは、雨の日になると必ず発情するんだから仕方ないでしょう」
と続ける。
青年からの言葉はない。
水の響きが聞こえるのみだ。
塗装の剥げた外壁を持つ施設の外では、雨がしきりに降っている。小雨ではない。ざあざあと砂嵐のような音を立てて響く六月の冷たい雨が、窓外を囲むこぶりな木々を容赦なく濡らしている。
世界が閉じていく。雨音を媒介にして、見慣れた世界が閉ざされていく。
脱衣が進んでいくたびに、──筋張った手のひらに優しく触れられるたびに、日常が遠のいていくような気がして、それが募る不安をさらに煽り立てた。
けれど弱音は吐かなかった。
「僕はトランスエフだから」とだけ呟いて、それきり与は口を閉じた。
沈黙の時間がしばし流れる。
と。
ぎしり、とベッドが上下にきしんだ。青年が突然、顔を近づけてきたのだ。
「──怖い?」
彼が言った。笑いながらの問いかけであった。
「挑発されているんだ」と察知し、与は激しい怒りを体に感じた。胸のどこかに残存している「男性」としての自意識、あるいは自負心を大いに刺激されて、それが青年への対抗心と化し、失いつつあった目力をぎりりと強めたのである。
「君、不便な体をしてるよねえ。トランスエフになったら二度と男に戻れないうえに、雨が降ると発情しちゃうんだから」
「だから、護民専従官という職業が成立しているわけなんだけどね」と、青年が付け足す。
降り注いでくる軽薄な笑声が恐怖を払い、さらなる怒気を呼び起こす。
トランスエフ。
それは前世紀の末頃から見られるようになった、二十歳未満の男性にしかあらわれない病である。発病のメカニズムは十数年経ったいまでも不明だ。原因も同じ。
けれど、いくつか判明している事実がある。
トランスエフ。
この病にかかった者は、肉体が徐々に女性へと変質してゆく。まず陰部から男性器が消え、次に喉仏がなくなり、次第に声域が高くなり、やがて皮下に脂肪が溜まり、──そして女性化が完了してしまうのだ。
この現象を経て女になった者は、二度と男に戻れない。性転換手術を受けないかぎり、肉体的性別はずっと女性のままだ。
それから厄介なことに、「彼女」たちにはもうひとつ、共通点があった。
雨が降ると必ず発情してしまうのだ。本人の意思とは無関係に、体が勝手に男を求めてしまうのである。
「だから僕はここに来るんです。雨が降ったら、いつも。……ほんとは来たくないけれど」
「またまた強がっちゃって」
男が笑いながら言った。「与くん、言葉のうえでは嫌がっているけれどいつも協力的じゃん」
「それは……早く終わらせたいからです」
「なにを?」
無邪気な口調で、青年が問いかけてくる。
雨音が耳の底に沈んだ。
「言えない?」
外気に触れて震える体を丁寧に抱きながら、青年が耳許でささやく。「もう何回も肌を重ねたのに、それでも言えないのかな?」
「……」
「潔癖症だね」
短い嘲笑が聞こえた瞬間、全裸にされた肉体が激しい熱を帯びた。「このひとに気を許したくはない」という気持ちに反して、絶頂の感覚をすでに知っている子宮がずくりと疼いたのだ。
こんな軽薄な男とお知り合いになんてなりたくなかった。
いっそ女にさえならなければ、他人のままでいられたのに──!
瞳に涙がにじんだ頃、唇をそっと塞がれた。姫君を労る騎士のように優しいくちづけであった。
「泣かないでよ」
いったん唇を離した青年が、またも耳の傍でささやいてくる。
「……あなたなんか嫌いだ」
けれど快感を求める体は、青年が注いでくるであろう精液をあからさまに欲している。……蹂躙されたがっている。
「いやらしいなあ、君って子は」
右頬に唇を押しつけては、青年が試すような口ぶりで言った。「好きでもない男に抱かれたがるなんて、とっても悪い子だ」
「仕方ないでしょう。あなたの仕事は、発情したトランスエフを鎮めることなんだから」
「うん、そう。……そうだけど」
再び、唇を塞がれた。今度は長いくちづけだった。息の行方さえ奪い尽くすような、しごく乱暴なキスでもあった。
「……っ、……ン…………」
酸素を得るために口を大きく開いたところ、青年が見計らっていたように舌を入れてきた。
うまく呼吸できずに混乱する与を置き去りにして、舌はなまめかしく動き回り、唾液の溜まっていた口内を見境なく征服してゆく。
「……ぁ、……っ……、やめ……」
制止の声を上げる。
しかし、青年は舌の動きを止めない。まるでピストンでもするかのように前後させては、自分の唾を与の喉へと送り込んでくる。
「……、は、ぁ……っ……」
生々しいぬめりが食道を下るたびに、漏れる声が濡れた。
純白のショーツの下で、男の器官を模した部分が──一般にクリトリスと呼ばれる女性ならではの感覚器が、突き立つように勃ち上がる。
じわりと染みる愛液が未成熟な肉襞をいたずらに湿らせた。
「あぁ、……、っ………」
唇ひとつで翻弄されるおのれが歯がゆくてたまらない。深々と舌を差し込まれて嬉しがる体が恨めしい。青年のやることなすことを疎んじているはずなのに流されてしまう自分が恥ずかしくてたまらない──。
「……大丈夫だよ」青年が言った。
「いつものようにじっとして、俺を受け入れて。いまだけは他のことを全部忘れて、俺だけを見て」
ふいに聞こえた優しい言葉が、怒りを鎮め、戸惑いをもたらす。完全に女の子になりきったわけじゃないのにお姫様のように扱われている倒錯感が、揺れる瞳に熱い潤いを与えた。
「なんで……」
「ん?」
青年が目で尋ねてくる。
与は顔をそむけて、
「なんでそんなに優しくするんですか」
とだけ言った。恋人同士じゃないのに大事に扱われているのが、どうしても我慢ならなかったのだ。
二人が交わるのは雨の日だけだ。空が晴れたら、他人に戻る。
なのに、青年は毎回、与をうやうやしく抱いてくるのだ。愛する女にするようなひどく優しい手つきで、与の顔に、肌に、指に、性器に触れてくるのだ……。
「こういうの、お気に召さないのかな?」
与は首をわずかに傾け、のしかかってくる青年へと視線を送る。
「もしかしてもっと乱暴にされたい? そういう趣味を持っているのならそうしてあげてもいいんだけどな」
「いや……。そういうわけじゃないんですけど」
「だったらいいじゃん、いまのままで。俺だって女の子に乱暴なことするのは辛いしさ。心ゆくまで一緒に愉しもうよ」
「別に愉しんでいるわけじゃないです」
「まあまあ」
にっこりと笑いながら、青年が与の頭を撫でてくる。節々の目立つ指が、長くのびた黒髪に絡む。
「綺麗な髪だ。……いいにおいがする」
雨音を遠くに聴きながら、与は青年を見上げ、
「いいにおいって……。どんなにおいなんですか?」
と尋ねた。
すると彼はからかうような口ぶりで、
「男を誘う女のにおい」
と答えた。
──殺す。
明確な殺意が生まれた。もしもこのとき、凶器として使えそうなものが手近にあったならば、実行に移していたかもしれない。
だがキスのもたらした淫らな余韻が消えぬいま、そんなことなどできるはずがなかった。せいぜい、相手をにらみつけるのが関の山といったところだ。
「……、っ……」
唇が触れてくる。喘ぎを漏らす口を舐め、唾液の筋に沿うようにあごの周りを舐め、それからまた口を舐めてくる。
ミルクを啜る子猫のようにぴちゃぴちゃと音を立て、青年は与の唇粘膜をひとしきり舐める。ただそれだけの軽い愛撫が怒気を消し去ってゆくのを感じ、与はひそかに絶望した。
青年と肌を重ねるときは、いつもこんな具合で事が運ぶ。抱かれる前は抵抗するが必ず丸め込まれてしまうのだ。
(ああ、まただ……)
執拗に唇をなぶられながら、与は屈辱の涙をこぼした。けれど、それすら青年のぬるい舌先に舐め取られてしまう。男としてのプライドが萎えゆくかわりに、秘め隠していた雌の本能が──「愛されたい」という望みが兆す。
男と女、二つの性の間で心が揺れる。理性のうえでは行為を拒絶している反面、青年の与えてくる愛にそむけず、やがて「快楽」という名の生き地獄へと堕ちていく。拒みたいのに、逆らいたいのに、それでも子宮がずくずくと疼いて男を求めてしまうのだ……。
「……、あ……ん、……っ……、」
さほど厚みのない乳房をゆるい手つきで揉み込まれる。薄くて柔いその部分を、乳首ごと執拗に狙われる。幼児のようになだらかなふくらみを左右交互に揉みしだかれると、いよいよ嬌声が止まらなくなった。
与は泣いた。両目のきわよりあふれる滴の温度におののきつつも、肩を震わせ、ひたすら泣いた。あられもない声で喘ぐ自分のことも、恋人のように抱いてくる青年のことも怖かった。虚勢を張る余裕など、もはや完全に失っていた。
「大丈夫だよ」
告げて、青年が頭を撫でてきた。その手はひどく優しくて、だからこそ与はますます泣いた。身のうちを責める切なさに突き動かされるまま、たどたどしく嬌声を上げ、そして泣いた。迷子になった子どもののように、親を求める赤子のように、大声を出して涙を散らした。
「大丈夫。大事に抱くから……」
抱きしめてくる二つの腕のぬくもりは、ほのかな熱にさらされている。
泣きじゃくっては青年にしがみつく与の肌も、淫らな微熱を帯びている。
「欲しくないのに……。あなたなんかいらないのに……」
青年が無言で抱きすくめてくる。
バラの香のような艷やかなにおいが絡むように漂ってきて、与の理性を大いに乱してゆく。
──崩れていく。なにもかもが。
これまで大切に培ってきた男としての自我も自意識も、雨音の響きと青年の体温によって崩されていく。
発情した肉体が浅ましく濡れる。汗で湿った全身が、男を求めて悶え苦しんでいる。……飢えている。
痴態をさらすのが怖い。
人前で絶頂を迎えるのも怖い。
なのに青年は情けをかけない。恐怖におののく与の涙を軽く舐めたそのすぐあとで、右手でそっと触れてくる。不規則に上下する少女の胸をなだめるように一撫でしては、てのひらを腹へと這わせ、──それから茂みに隠れた女陰をそっと暴いた。
「ひっ、」
息を詰め、爆発的に膨れ上がった快感に耐える。すでに尖り切っていたクリトリスを摘まれ、扱かれ、潰されると秘めた場所がますます濡れた。
青年とするセックスは好きじゃない。どうせ抱かれるのなら、女性相手がいい。
なのに、快楽に従順な肉体はどこまでも意思を裏切る。男と女、二つの性の間で揺れていた心が、振り子のように激しく揺れ動いていた心が一気に傾き、与を完全な雌に仕立ててしまう。
「あ……、……ぁ…………」
陰核を幾度も犯されると、そのたびに粘りを伴った音が響いた。淫らがましいその調べが耳を抜けるたびに、脳髄までもを支配されているような心持ちを覚えた。
「嫌だ……」
「我慢して」
青年が真顔で言った。いつの間に衣服を脱いだのかわからぬが、彼もまた、全裸になっていた。
「いいね、与。いまだけは俺を見て。俺を感じて。俺だけを求めて」
一度、深いキスを受けた。しばし戯れるように触れ合い、それから唇が離れる。
雨音が遠のく。
目と目が描く軌跡が交わる。
そして、──それから一秒にも満たない時間が過ぎたあと。
「ひ……、っ…………!」
膨張した男性器を深々と埋め込まれた。
「あぁ……、ん……、………っ」
急いたように青年が腰を進めてくる。「君の中、凄く、……熱いね」と小さく笑んでは、腰を引き、そうして再び進めてくる。
けれど、与には答えるだけの余裕がない。性感に翻弄される若い雌に成り果てたいま、狂ったように喘ぐことしかできない。
ベッドのきしみがひどくなる。それはそのまま、青年のもたらすピストンの激しさを物語っている。
ペニスを奥まで挿入された屈辱が、やがて尽きぬ悦びへと切り替わる。無意識のうちに青年の背中へと腕を回し、男の精をしきりに求めた。
貪欲な肉襞は果てなく愛液を分泌し、我慢汁を垂らす雄の象徴をきつく締めつける。一滴たりとて逃さぬよう、子宮をなぶる性器を包み込む。
蜜にまみれた濡襞と勃起を果たした男性器が、これ以上ないほど完全な結合を迎える。いつしか与だけでなく、青年までもが喘いでいる──もっとも、その声はとても控えめなものであったが。
熱と熱、欲と欲が真正面からぶつかり合う。心のうちに根づいていた屈辱感が例えようのない幸福感へと変化し、与の五体を指の先まで満たしていく。
青年の腰が引いた。
与はそれと意識せぬままに、彼の腰を追い、自分の下肢を上へと突き出す。
──すると、
「あぁ…………ッ!」
青年が突然腰を進めて、子宮の奥を穿つように突いた。
「ひっ、……ぁ…………」
穿ち込まれる腰の動きを感じると、奥が疼いた。熱を覚えた。実際に愛されているような、幸福な錯覚に陥った。
だけど、すべてははまやかしに過ぎない。この性交が終わったら、この部屋を出たら、二人は再び他人となる。
どれだけ強く肌を重ねても、どれだけ強く抱かれたとしても、二人は別個の生き物だ。情交が済めばそれぞれの生活に戻っていく。そしてまた、雨の日が来たときだけ抱き合うのだ。まるで愛をささやき合う恋人同士のように互いを求めるのだ……。
「……ずっと続けばいいのに……」
激しさを増す揺さぶりを全身に感じながら、与はひとり呟いた。「ずっと雨の日だったらいいのに……。そしたら僕は、僕は……」
青年は答えない。無言で腰を振り立てては、腕に抱いた雌に絶対的な快楽を教え込もうとしている。
ふ、と意識が遠のく。
雨音の響きも遠のく。
胎《はら》の奥を突き上げるペニスがぐぐっと膨張し、それから──、
「……あ、っ………!」
未発達な女陰の奥に、大量の精を吐き出した。
「あ、……あぁ…………」
長く続く射精を肉のほこらで受け止めながら、与は短い悲鳴を上げた。それは雌の悦びに堕ちた者だけが発することのできる、歓喜の声でもある。
いまだ中を犯し抜きながら、ありったけの精を注ぎ込みながら、青年がささやいた。
「あとで俺の名前を教えてあげるよ。だって俺、君のことが気に入っちゃったからね……」
「そんなの嘘だ」という想いがまず生まれた。
しかし、「もしかしたら」という気持ちも同時に生まれた。
どちらが事実となるだろう。青年はこのあと、名前を教えてくれるのだろうか。それとも、「やっぱりやめる」と言うだろうか。
しばらくの間、与は考え込み──、そして結局、それをやめた。
雨音が迫ってくる。
夜になったら上がるそうだが、予報がはずれても愚痴や不平をこぼすつもりにはなれずにいた。
いまはただ、この男に触れられていたい。
いまだけでいいから、恋人同士みたいに睦み合っていたい。
祈るようにすがるように想いを強めながら、与はそろりと目を閉じた。
【了】