声を聴くよりも

五月。
自宅にて夕食を済ませた日向は低くうなりながら、机に向かっていた。
妹の夏が、
「兄ちゃん、いっしょに遊んでよ-」
とせがんできても、誘いに乗らず、ノートにシャーペンを走らせつづけた。
もとより、勉強は不得手であった。考えることも苦手であった。
烏野に入学できたときは、
「奇跡が起きたな……!」
と、職員室にいた教師たちに驚かれた。
友人たちは、
「奇跡なんかじゃないよ。だって、お前が努力してきたの、俺たちは知ってるもん」
と、不服げに感想を漏らしていたけれど。
とにもかくにも、入眠前に宿題を片付けないといけない。でないと、試合に出ることができないから。
ふと、「影山もたぶん、今頃は宿題をしているだろうな……」と考えた。
身長差、腕力差、体格差はあれど、ふたりの行動パターンは意外と似通っている──日向当人としては認めたくない事実であるが、先輩たちがそう言うのだから、きっとふたりは似ているのだろう。
「お前らは、まるで二卵性《にらんせい》の双子のようだ」
いつぞやの練習後、体育館の片隅で着替えをしながら、部長の澤村がしみじみと呟いた。
当然、日向も影山も口うるさく抗議したけれども、澤村は意見を変えなかった。むしろ、「お前たちは自覚していないんだろうが、……本当に、双子のようによく似ているよ」
と告げるのだった。
テレビすらつけず、シャーペンを走らせる。
時刻は夜の九時をまわったところだ。おそらく、夏は別室で休んでいることだろう──あの子はいつも、夜の八時半に床につくから。
手を休め、机上に置いたスマホをじっと見つめる。
(──そろそろ来る、はずだ)
予感が胸中に芽生えたのとほぼおなじ頃合い、某アクション映画の劇伴《げきはん》が流れた。と、同時に、スマホがぶるぶると震える。
日向は笑った。笑いながら、「動物的」とも形容しうる素早さで、スマホを利き手で引っつかんだ。
勢いよくロック画面を解除し、送話相手の名を確認すらせず、
「こんばんは、大王様……!」
と、挨拶をする。
「はい、こんばんは。チビちゃん」
機嫌よさげな声が、スマホの向こうから届いた。青城生の及川の声だった。
練習試合を終えたあと、ふたりはなぜか、毎晩のように電話で会話する仲になっていた。というよりも、敵将たる及川に一方的に気に入られてしまい、電話番号の交換を強要された。
いつぞや、繁華街でばったり再会したとき、彼は人好きのする綺麗な笑顔で、
「夜九時過ぎ頃に、俺とお話ししようね!」
──怖じける日向に、そう告げたのである。戸惑う日向を爽快な微笑みで押し切っては、強引に番号交換を申し出てきた──つい数週間前の話を懐かしく思うのは、一体全体、なぜだろうか。
「なんで、おれ、大王様と電話する仲になっちゃったのかな……」と思ってはいるのだが、もはや、習慣と化してしまったのだから仕方がない。
とはいえ。
実際問題、日向自身、現況がうまく飲み込めずにいた。
どうして、ライバル校の主将に気に入られてしまったのか。
どうして、夜の九時過ぎに、電話を介してお喋りをする仲になってしまったのか。
どうして、長年の友のように親しく会話するようになってしまったのか。
どうして、接触を拒むことができずにいるのか──。
そう、拒絶することだって、きっとできるはずなのだ。なのに、定期的にかかってくる電話をいつしか、待ち焦がれている自分がいる。
「……チビちゃん?」及川の声が優しく響いた。
「どうしたの? いきなり黙り込んだりなんかして……」
「……え、ええ? おれ、黙っていましたか……?」
「うん、きっかり五秒沈黙してた。……なに? 俺と話すの、嫌なの?」
「べ、べつに、そんなことは……」
慌てて、言葉を差し挟む。「物思いに沈んでいました」などと告げたら、なにをされるか知れたものじゃないから。
「えっと……。おれ、大王様からの電話、結構楽しみにしているんです」
抑えきれぬ本心を、そっと、声に乗せる。
「大王様っておれが考えていた以上に優しいから、話すの、とっても楽しみにしているんです。影山は大王様のこと、『性格がひどい』って言ってたけど、そんなことなかったし……」
「飛雄が? そんなこと言ったの?」
日向は、口を押さえた。
電話口の向こうで、及川が低い声を出す。
「……へえ。飛雄がそんなことを言ってたんだ……。あいつ、ろくなことしないよね。やっぱり、いまのうちに全力で潰すしか──、」
「そ、それだけはマジでやめてくださいっ。あいつは、おれの大事な相棒なんですから……!」
すると、及川が、
「いいよね、あいつは」
と、すねるように呟いた。
「四六時中、チビちゃんとお話してるうえに、部活でコンビ組んでるなんて……。すっごく羨ましいんだけど!」
「そんなこと言われても……」
困惑の表情を冷えたおもてに浮かべながら、
「たしかに、おれはあいつとコンビ組んでるけど、お、おれが好きなひとは……大王様だけ、だし……」
──正直な気持ちを言葉に託した。
好き、という単語を告げるときに声量が下がってしまったのは、ひとえに照れを感じたためである。
「……」
電話の向こうより、沈黙の響きが聞こえた。どこぞを歩いているのだろうか、小石か砂を踏むような音も、しきりに聞こえる。
「おれの相棒は影山だけど、おれの恋人は大王様だから……」
「……」
沈黙の響きは止まない。足音も止まない。
「あ、あの、大王様……? もしかして怒ってるんですか……?」
「……」
応える声はない。
「やっぱり、怒らせてしまったのか……?」と危ぶんだ、──ちょうどそのときだった。
ぴんぽーん、とチャイムが鳴った。
「へ……?」
「こんな夜遅くにどこの誰が」と訝《いぶか》るより先に、日向は自室のドアを開け、猛然と駆け出していた。
まさか。
まさかとは思うけど、もしかして、もしかすると──、
狭くて短い廊下を走って、玄関を目指す。
と、
「翔陽、走っちゃ駄目よ。夏が起きちゃうじゃない」
エプロン姿の母親に注意された。
けれど、たしなめてくるその声はまったく、耳に入ってこなかった。
いま、まさに母と対面している人物があまりにも意外すぎて、激しく混乱してしまったものだから。
「大王様……」
私服を着た及川の姿を目で認め、日向は文字どおり、頭をかかえた。
「あの、おれ……、いま、幻覚でも見ているのかな……」
「そんなわけないじゃん。俺は、本物の及川さんだよ?」
「そうよ。翔陽、しっかりしなさい」
「なに言ってるんだよ、母さん!」強い口調で、言い返す。
「なんで、……及川さんがここにいるんだよ! おれ、いま、すごくびっくりしてるんだけど!」
「あら、言ってなかったかしら? 今日、及川くんが泊まりに来るって……、」
「聞いてないよ!」
穏やかに微笑む母から、にやにやと笑う及川へと視線を移動させた。どういうわけだろう、彼は実に愉しげな顔をして、焦る日向を見下ろしている。
「こんばんは、チビちゃん。……逢いたかったよ」
「う……、」
驚くほど優美な笑顔を向けられて、日向は軽く、押し黙った。それに気を良くしたのか、及川が艶めかしい笑みをいっそう深める。
「ねえ、チビちゃんは、俺に逢えて嬉しくないの? 俺たち、付き合って……、」
「母さん! おれ、部屋に及川さんを案内するから!」
返事を待たずして、及川の手を引っ張り、大股で歩き出す。
「あらあら、しょうのない子ねー」というのんきな声が耳に届いたが、さしあたって、聞こえないふりをした。
廊下の角を曲がり、部屋に続くドアを開け、その中に及川の体を引きずり込む。
「ちょ、……ちょっと待って、チビちゃん、」
困惑を含んだ声が聞こえたが、知ったものか。
はあはあと荒い息を繰り返しながら、ドアを閉める。
「ち、ちょっと、チビちゃん……。なにをそんなに焦ってんの?」
あっさりとした語調で問われた瞬間、
「これが焦らないでいられますかっ!」
──自分でも仰天するほどの大声が、勢いよく飛び出た。
「どうやって、おれの家の場所を突き止めたんですか!? いままで、教えたことなんてなかったのに……」
「ああ、それね」及川がへらっと笑いながら、言った。
「飛雄から聞き出したんだよ」
「影山が……?」
そういえば、部の仲間たちには、自宅の場所を伝えておいたような気がする。
「じゃ、じゃあ、どうして、こんな夜遅くにおれの家を訪ねたんですか?」
「逢いたかったからだけど?」
「おれに?」
「そう、お前に」
及川が笑みを引っ込める。
真摯な瞳で見つめられ、日向はひどくたじろいだ。「恋人の欲目を抜きにしても、整った顔だ……」なんて、場違いな感想を胸に覚える。
「俺はね、我慢なんてしないし、できないんだよ。特に、バレーと恋愛においてはね。……このところ、チビちゃんに逢えなかったから来たんだよ」
「でも、毎晩、電話で話しているじゃないですか」
「話すだけで、満足できると思う? チビちゃんだって、『大王様に逢いたい』って考えていたんじゃないの?」
確かに、及川の指摘するとおりであった。
電話を介して喋るのも嫌いじゃないけれど、逢えるものなら、毎日でも逢いたい。まだ成人年齢には達していないけれど、声だけで満足できるほど、自分は子どもじゃない。
できるものならこちらから触れたいし、相手からも触れられたい。
わがままな望みだと百も承知しているが、それが本心なのだから、まったくもって仕方がない──。
「逢いたいから来たんだよ。……俺が言いたいのは、それだけ」
しごくシンプルな答えを口にする及川のことが、急にいとおしく思えてきた。
実際のところ、突然のサプライズにびっくりしたけれど、喜びの感情のほうがどうしてもまさる。
気づけば、おのずから、及川の胸に飛び込んでいた。オーデコロンのような爽やかな香りに嗅覚を刺激され、日向は、はあ、と吐息をつく。
「逢いたかったのは、おれもおなじです。おれだって、ずっと、我慢してきたんですから……」
無言のまま抱きしめ返してくる及川にすがりつつ、
「おれだって、大王様のことが、……好きだし……」
と、告げる。背をさする手のひらの温度が、肌に心地よくなじんでゆく。
「びっくりした?」
「……すげえ、驚きました。ていうか、いまも驚いているんですけど……」
「実はさ、」そこで、及川が言葉を切った。
「──チビちゃんのお母さんには、あらかじめ、今日来ることを伝えておいたんだ。それで、チビちゃんには今日のことを言わないように、口止めしてた」
手はなおも、日向の狭い背中をさする。
「チビちゃんの驚く顔が、どうしても見たかったからね。だから、『協力してください』って、チビちゃんのお母さんに頼んだんだよね」
「母さんが……」
そうひとりごちたあとで、はっと、息を飲んだ。
「家のひとには、ちゃんと伝えているんですか?」
「当然。この俺が、無断外泊なんてすると思う?」
ふるふると、首を振る。
「ま、親には、『岩ちゃんの家に行ってくる』って断ってきたんだけどね」
「岩泉さんの……。ということは、岩泉さんの許可はもらっているんですか?」
「うん。岩ちゃんからは、『勝手にしろ』って言われたけど」
「……なんだかんだ言って、岩泉さんって大王様に甘いんですね」
「幼なじみだからね。……まあ、岩ちゃんと俺って幼なじみというよりも、もはや、戦友のような仲に近いんだけど」
「……」
「チビちゃん?」
「いいなあ……」夏空のように爽やかな香りをめいっぱい吸い込みながら、日向はちいさな声でひとりごちた。
「岩泉さんって、大王様のちっちゃい頃とか知っているんですよね。おれの知らない大王様のことも、たくさん知っているんですよね……」
「焼きもち、焼いちゃった?」
くく、と笑いを噛み殺しながら、及川が問うてくる。
「少し」うっとりと目を細めながら、日向は短く答えた。
「岩泉さんは、大王様にとってかなり重要な存在なんですよ。それは、大王様の、……こ、恋人であるおれから見てもよくわかります」
「でも、俺、岩ちゃんとはこんなふうに抱き合ったりしないよ?」
「わかってます。けど、羨ましいものは羨ましいんです。ときどき、『おれも、ちいさい頃の大王様と出会えていたら良かったのにな』って思うことがあるんです」
「……」
背をさすっていた手が、ぴたりと止まった。それがあまりにも突然の出来事だったので、日向は目線を上げ、及川の表情を見つめた。
「しまった、余計なことを口にしすぎたかな」と一瞬の間、憂慮する。けれど、その心配はたんなる杞憂に過ぎなかったと思い知ることとなる。
及川の顔に、不穏なかげりはなかった。むしろ、穏やかな微笑みを深め、見上げる日向を見つめ返している。
「あ、あの……。おれ……、」
「いいんだって。チビちゃんに焼きもち焼かれるの、悪くないから」
謝罪しようと口を開いた日向の口を、及川の唇がなかば強引に奪う。
「ん……、」
漏れ出る吐息ごと口唇《こうしん》を奪われて、日向はまたしても戸惑いを覚えた。けれど、その惑いは悪いものではなかった。告白は相手からだったけれど、──なし崩しに交際を始めてしまったけれど、日向だって彼のことが好きだったから。
そもそも、「好き」という感情がなければ、焼きもちなんて焼くはずがない。
恋愛は慈善事業ではないのだ。少しでも心を動かされないかぎり、交際には応じない。流されやすいおのれの性分をわきまえてはいるけれど、恋に落ちる基準ならば、自分の手できっちり決めている。
主導権ならばいつでもくれてやるけれど、「日向翔陽」という個人までもは安売りしない。──それが、自身に設けた数少ない信条であった。
唇が離れる。
「……そろそろ、離れないとね。ほんとはもっと触れていたいけど、チビちゃんのお母さんに見つかるかもしれないから」
「そうっすね」
言って、日向はわずかに及川と距離を取った。たしかにこれ以上触れあっていたら、双方、暴走するのは目に見えている。
「明日も学校あるから、……朝練もあるから、早く寝なくちゃ駄目っすね」
しゅんとしてうなだれる日向を見てなにを思ったのだろうか、及川がめずらしく、
「……ごめんね」
と、囁きかけてきた。
「ほんと、ごめんね。俺のわがままに付き合わせて」
「べつに怒っていませんよ。でも、どうして、おれの家に来たんですか? 今日は平日なのに……」
「ん? そりゃあ、チビちゃんがこないだの電話で、寂しそうな声を出していたからだよ」
「……おれ、そんなに落ち込んでいましたか?」
そういえば、数日前に影山とけんかをして落ち込んだ記憶がある。
「うん。すっごく落ち込んでた。『早く、及川さんに逢いたい』って言いたげな声を出していたよ」
あっさりと気持ちを見破られて、日向は軽く、頬を火照らせた。
勘の鋭い恋人を持つのも、なかなか考えものである。
「だから来ちゃったんだよねー。チビちゃんが落ち込んでいるのにほっとくなんて、俺にできるはずがないし!」
至近距離で告げられた告白に、日向はいっそう、頬を火照らせる。「同性であるおれから見ても、大王様というひとは、本当に美しい顔をしている」と思う。
もちろん、惚れたのは顔だけじゃないけれど。
部活に熱心なところとか、意外と努力家なところとか、飄々《ひょうひょう》と振る舞うところとか、……日向の心配をさりげなくしてくれるところとか、彼の長所を数え上げたらきりがない。
女の子たちから熱烈に愛されている及川がどうして自分を選んだのか、いまはまだよくわからないけれど、でも、「理由なんてどうでもいい」と感じた。
互いの想いが通じあっているのなら、「恋に落ちた理由」なんて些末《さまつ》なもの、追及するだけ野暮《やぼ》ってものだ。
「大王様。おれ、いまから布団敷きますね。大王様の分も、この部屋にありますから」
「わかった。俺も手伝うよ。……それにしても、チビちゃんの家の中にいるなんて、夢みたいだな」
「修学旅行みたいですよね」
「いや、そういう意味じゃなくて」
押し入れから布団を引っ張り出しながら、軽口をたたきあう。ひそやかな笑い声が、両者の口から次々とこぼれる。
悪くない時間であった。むしろ、好ましい展開だといえた。
肌を重ねる瞬間も好きだけれど、こうして、冗談を言いあう時間もそれはそれでとても楽しい。
好きなひとと過ごすのなら、なおさらのこと。

「大王様、……大好きです!」
布団を敷き終えたあと、日向は及川の胸に再度、飛び込んだ。鼻孔をくすぐる爽快な香りにまたも目を細めては、
「大好きです……!」
と、繰り返す。

どきどきと高鳴る鼓動は、恋の衝動とおなじぐらいの熱を持っている。

【了】