雨の日が来るたびに、私の心は落ち着きをなくす。
今だってそうだ。学習机《がくしゅうづくえ》に向かって投函予定《とうかんよてい》のない手紙を──誰にも見せるつもりのない手紙を書いているこのときも、窓の外に滴る線状《せんじょう》の水に気をとられている。
私のいる四畳半《よじょうはん》の洋室《ようしつ》には、調度品と呼べるものがわずかしかない。レトロチックな柱時計と、学習机と丸椅子《まるいす》と、北欧風《ほくおうふう》の小洒落《こじゃれ》たロフトベッドという、なんともちぐはぐな家具たちがひとつところに収まっているのだ。
一般に、「保護室」と呼ばれているこの部屋の別称《べっしょう》は、「繭部屋《まゆべや》」という。そういう呼称《こしょう》をつけられている理由について、今はあまり語りたくない。
このあと、あいつが──F性少女保護専従官《えふせいしょうじょほごせんじゅうかん》という長ったらしい名前の職に就いているあの男が来たときに、どうせ語る必要が出てくるのだ。
だから、今はさしあたって、窓外《そうがい》の緑をたたくうるさい雨音に耳を澄ませながら、筆を走らせることにする。
……申し遅れました。
私の名前は禊《みそぎ》、三枝禊《さえぐさみそぎ》と申します。
いつ、誰にこの手紙が読まれるのか──それとも、読まれることなくどこぞのゴミ処理場に廃棄されるのか、見当すらつきませんが、とりあえず、まだ見ぬ「あなた」のためにボールペンを走らせています。少し離れたところに建つショッピングモールで買った、一本百円ほどの安いボールペンです。私はまだ学生の身なので、高級な品は自力では買えないのです。
本当はバイトでもしてお小遣いを稼ぎたいのですが、学校がバイトを禁止しているので、どうにもなりません。まったく困ったものです。「お金を貯めて性転換手術を受けたい」と毎日のように願っているというのに、これじゃ前に進むことすらかないません……
「だって、トランスエフだものね。君」
机に向かって書き物をしていた最中、ふいに、明るい声が耳に響いた。
私は驚きに身をすくめながら、
「……み、見た?」
と声のあるじを振り返る。
部屋に通じる折り戸《ど》を開けたまま、端近《はしぢか》に佇むダークスーツ姿の青年こそが、さきほどの手紙に登場した「あいつ」ことF性少女保護専従官だ。
苗字は本郷《ほんごう》、名前は知らない。だって、初対面のときに教えてもらわなかったから。それに、私たちは雨が降ったときだけしか逢わない関係だ。だから名前なんて知らなくてもいい。いかにも年下の扱いに慣れていそうな、臈長《ろうた》けた笑みを浮かべたこの長身の男について、語る言葉などいらない。空が晴れたら私たちは別れるさだめにあるのだから、彼についての情報など、私にとっては不要なものだ。
かといって、本郷についてなにも描写しないわけにはいかない。少なくとも、私の心のどこかに棲む名もなき「あなた」、いつか手紙を読んでくれるかもしれないあなたにだけには、伝えないといけないだろう。
──そして、私たち二人を結び合わせた「トランスエフ」という名の奇病《きびょう》の話も。
トランスエフ。
それは、前世紀《ぜんせいき》の末頃《すえごろ》に発見された未知の病である。
この病気にかかると、まず、男性器が徐々に小さくなり、やがて完全に消失する。次に、女性器がまるで失われた器官の代替物《だいたいぶつ》のように股間に形成される。さらには、喉仏もなくなり、体全体の筋肉量も極端に減少する。
トランスエフは、早い話、肉体が女性化する病なのだ。一度症状があらわれたが最後、どんな名医が手を尽くしても、進行を止めることはできないのである。……もっとも、トランスエフは発見されてから間もない病気なので、患者を診てくれる医者自体が非常に少ないのであるが。
「やあ、禊ちゃん。二週間ぶりの逢瀬《おうせ》だけれど、元気にしてたかな? おれに逢えなくて寂しい思いをしてたんじゃない?」
「つっこみどころの多い台詞だ」と心のうちで毒づきながら、私はすぐさま、
「その呼び方はやめてくださいと言ったはずです」
と、強い口調で言い返した。
けれど本郷は、軽薄な微笑を薄い唇にたたえたままでいる。目はほとんど笑っていないのに、口許だけを笑みの形に歪ませているのだ。
私は机の引き出しに手紙をしまい込んだ。少し離れた場所にいるあの男にこれを見られたら、なにを言われるか知れたものじゃない。もしかすると、「差出人のいない手紙を書くなんて、君、ロマンチックな趣味を持っているんだねえ」などとからかってくるかもしれない。
とにかく、手紙の存在は隠し通さねば……。
──と考えた瞬間、ぎしりと床板が鳴った。本郷が大股で歩み寄ってきたのだ。
被食者《ひしょくしゃ》を見つけた怪物のように、琥珀色の瞳を爛々《らんらん》と光らせて、彼が近づいてくる。どことなくもったいぶったしぐさで、自身の優越を確信した表情をして、苗字しか知らない他人が私のもとへと近寄ってくる──。
「ひっ、」
無言で右手を握られて、私は大きく身じろいだ。と同時に、柱時計がポーン、ポーンと、軽い音を十五回連続して響かせる。
情けない話だが、秋雨《あきさめ》が猛烈に降っている今このとき、私はすっかり恐怖心にとらわれていた。烈しい不安感も胸に抱いていた。
トランスエフという病によって女性化して以降──正確には約一年半前、雨が降る日はいつも本郷に逢ってきたが、いまだ彼との接触に慣れずにいた。
この際だから正直に告白してしまうが、私は、彼が怖かった。私よりもずっと年上で、私よりも背も高くて、力も強くて、常に余裕めいた微笑を唇にあらわしているこの人のことが、どうしても怖かった。
けれど、私は彼のすべてに、羨望《せんぼう》とも憧憬《しょうけい》とも呼べる複雑な感情も覚えていた。かなうものなら、彼と体を入れ替えて、彼の持つ知識と力の全部を身うちに取り込んでしまいたいと願った。その感情はまるで埋《うず》み火《び》のように、いつも私の胸の底でちりちりと燃えていた。
「そんなに怖がらないでよ。傷つくなあ」
本郷が言う。しかし、彼の顔も口調も底抜けに明るい。「傷ついた」と告げてはきたが、それは確実に嘘であろう。私にはそうとしか思えない。
家具類《かぐるい》の極端に少ない、手短にいえば生活感の乏しい繭部屋は、人里離れた丘のてっぺんにある洋風の家屋《かおく》の中に設けられている。丁寧な塗装のなされた白壁《しらかべ》は、空が晴れると日射しを反射し、はじけるような光を放つ。
そもそも、ゴシック調の豪奢《ごうしゃ》な装飾をふんだんに取り入れたこの屋敷──すなわち、F性少女保護専従官詰め所《しょ》には、普段から本郷ひとりしか常駐《じょうちゅう》していない。専従官としての資質を持って生まれる人間の数が少ないからだ。
「すごく嫌そうな顔をしているね。けど、女性化した時点で、君はここに来なくちゃいけない身分になったんだよ? いい加減諦めなよ」
冗談じゃない。
私は彼をにらみつけた。ほとんど泣きたい気分だった。
「禊ちゃんも保体の時間に習ったはずだけれど、性転換した男性は──トランスエフ発症者《はっしょうしゃ》は、雨の日になるとひどく暴力的になるんだ。通りすがりの人間すら殺したくなるぐらいにね。
だからこそ、君はおれの手を借りて、破壊衝動を抑制する儀式を行わないといけない」
知ってるよ、そんなこと。
眼前に立つ短髪の男を涙の浮いた瞳で見つめながら、私は胸のうちで呟いた。
──そうなのだ。
本郷が述べたように、トランスエフ発症者は雨の日になると、わけもなく他人に外傷を与えたくなる。世界中の患者数はおよそ五十人ぐらいだといわれているが、その全員にみられる症状なのだ。
雨が降ると、とてつもなくサディスティックな気持ちが芽生える。私だって例外じゃない。現に今だって、必死の思いで破壊衝動を抑えている。
だから、雨の日はいつもここに来る。本郷の助けを得て、衝動をひっこめる儀式を執り行うために。
路線バスも通らない、コンビニも銀行もファミレスもないこんな辺鄙《へんぴ》な土地に、定期的に通っているのは、そういう理由があるからだ。
「……女になんてなりたくなかった」
私が吐いたこの言葉は、世の女性たちからしたらとんでもないものだと思う。
だけど、これはまぎれもなく、私の本心だ。肉体が女性になっても、性指向《せいしこう》はいまだ男性のままだ。
体が女になったからといって、心までもがすぐに切り替わる──なんてことはない。少なくとも、私の場合においては。
途切れない雨の響きをどこか夢のように感じながら、私は口を開いた。
「女にさえならなければ、あなたに出逢うこともなかった」
「……」
「私には、ちゃんと好きな人がいるんだ。私は女の子が好きなんだ」
「……」
「でも、相手の子は『付き合うなら男の子がいい』って言ってきたんだ! 『トランスエフ発症者とは付き合えない』と言ってきたんだ……!」
本郷が無言であるのをいいことに、私は次々と言葉を投じた。
「この苦しみもつらさも葛藤も悩みも、あなたには絶対わからない! 男の心を持ちながら女になってしまった私を理解することなんて、決してできやしない……!」
暴発する感情に流されるまま、大声で本音をぶちまけた。
私はいつしか泣いていた。華奢な造りの肩を頼りなく震わせては、
「あなたにはわからない!」
悲鳴じみた大声で、──窓外の調べを遮るような鋭い声で、本郷に想いをぶつけた。
彼は黙っている。仕立てのよいダークスーツを着たマネキンのように、あるいは精巧《せいこう》に造られた美しい蝋人形《ろうにんぎょう》のように、黙って突っ立っている。
雨音が聞こえる。
聴覚を司る部位を経て、脳髄にまで染み込んでくる。
ふいに、「目の前の男を殺せ」という物騒な命令を耳にした。男のものとも女のものともつかぬ、なんとも中性的なその声は間断なく私の胸に、心に、魂に危険な欲望を植えつけていく。「目につくすべてを、できれば世界中の人間という人間をこの手で始末してしまいたい」という、後ろ暗い願望が際限なく膨張してゆく──。
「そんなことを言ってもしょうがないじゃないか。おれは君じゃないんだから」
私の右手を握っていた本郷が、困ったようにはにかんだ。そして、こちらの反応を待たずして、実に恭しいしぐさで、それこそどこぞの姫君にするようなしぐさで、私の手の甲に軽いくちづけを与えてきた。
私は身震いした。恐怖と不安が最高潮に達したあまり、呼吸が浅く、荒くなった。本郷のくちづけは、衝動を抑える儀式を始める合図でもあったから。私の心身が彼に支配される予兆でもあったのだから……。
一秒、過ぎた。
二秒が過ぎた。
そうして、──身のうちを衝《つ》き上げる破壊衝動以上に忌まわしい感覚が、私の右手を通じて入ってきた。
全身の細胞が一気に賦活《ふかつ》するような興奮が、一気に湧き上がる。体内を駆け巡るその感情は、すぐに歓喜へと変貌し、私の心身を冷たく支配していった。
だって私たちは、今まさに繋がっているのだ。しっかりと握り合わせた手と手の皮膚が溶けて、その部分だけ、文字通り一体化を果たしているのである。
繋いだ手を経由して、本郷の声を受け取った。その声はこのように告げている。
怖がらなくていいよ、禊ちゃん。おれは君の敵にはならない。おれは常に、君のことを案じている。考えている。どうしたら君にそれを信じてもらえるのか、しょっちゅう悩んでいるんだよ。
「嘘だよ、そんなの……」
体に直接響いてくる声の群れが、募る恐怖と不安をさらに煽り立てる。
だけど一方で、私の心は多大なる悦びに打ち負かされていた。「支配される」という陰鬱な快楽、「苗字しか知らない男に服従する」という猥雑な悦楽が、反発心や拒絶の感情をごりごりと削り取っていく。
秋雨の奏でる音色が遠のいていく。
本郷の声が若い素肌に食い込んでいく。
彼の声が聞こえる。
おれはね、禊ちゃんがここに来るのをいつも楽しみに待っているんだよ。「雨の日が来たらいいのにな」って、いつも思っているんだ。
「嫌だ……」
私は黒髪を振り乱す。肩口で切り揃えた頭髪が、ぱさりぱさりと乾いた音を立てる。
声は言う。
おれは禊ちゃんが大好きだよ。こうして君と繋がれるのが嬉しくてたまらないんだ。
声は言う。
本当はこの部屋以外でも君と逢いたいんだ。怖がりなくせに強がりな君を、たくさん守ってあげたいから。
声は言う。
禊ちゃんがおれのことを嫌っているのは、わかっている。おれのことを警戒しているのも、知っている。でもね、それでも、──それでもおれは君のことが、
「言わないでください……」
私は呟いた。大粒の涙で頬をたっぷり濡らしては、
「言わないでよ、その先は……」
懇願の言葉を口にした。
しかし、彼の声はなおも言う。
おれは禊ちゃん以外の人間と繋がりたくない。でも、君とはいつまでもこうしていたい。雨の日だけしか逢えないけれど、おれはずっと待っているんだ。この屋敷で。ひとりぼっちで。皮膚に流し込まれる彼の声は、今まで聴いてきたどんな音よりも甘かった。優しかった。愛情も恋情も飛び越えた地点にあった。
だから私は泣いた。男に好かれる趣味などないのに、元同性に愛されるなんて屈辱でしかないのに、なのに、──心のどこかで私は嬉しがっている。彼の言葉をもっと欲しがっている。注がれる声を必要としている。
彼とこうして繋がる間、私はいつも涙をこぼす。毎回泣いてしまう。
だから、「今日こそは泣かない」と決意を固めて繭部屋にやってきたというのに、また泣いてしまった。「なんてみっともない奴だ」と自分でも思う。
口を動かすことなく、本郷が告げてくる。君が好きだよ、大好きだよ、と。糖蜜《とうみつ》のように甘ったるいその言葉は、幾度も幾度もいくたびも、しつこいぐらいに繰り返された。
「駄目です……」
私は拒絶する。
しかしいかに抗ったところで、拒めはしない。彼の支配下に置かれたこの状況から逃れうるすべなど、どこにもない。
声は言う。
「君が好きだよ」「ずっと好きだよ」と、何度も言う。
皮膚に声が染みるたびに、心が女へと傾いていくのがわかる。
絡めているのは、互いの指と指。
触れ合わせているのは、互いの皮膚と皮膚。
泣きじゃくる私を見下ろす体勢で、彼が視線を合わせてくる。融合を果たした右手がなんだかとても熱い。
──おれは、禊ちゃんのことが、すごく好きだよ。この気持ちに嘘はないよ……。
彼の気持ちを乗せた声が右手から流入してくる。それは波紋のように瞬く間に拡散し、惑う私を歓喜の渦へと沈み込ませる。雨音の響きがさらに遠のいていく。
私はまたも首を横に振って、拒絶の意思を示した。「男に愛されるなんて冗談じゃない」と心の中で叫んだ。
破壊衝動を愛情、あるいは恋情で消去されていくこの時間が、ひどく苦痛だった。だから、できればこの部屋には来たくなかった。
でも、私の体が女であるかぎり、私がトランスエフ発症者であるかぎり、繭部屋から逃れきることは不可能なのだ。
私は絶望した。「男からの愛なんていらない」と思っているのに、それでも本郷の声を、愛撫を求めてしまう自分に絶望した。被支配者《ひしはいしゃ》だけが味わい尽くすことのできる快楽に墜ちていくのを、はっきりと感じて絶望し、それから再び涙した。
積もる静寂が、小止《おや》みなく続く雨音にかき消されていく。
合わさった皮膚から伝わってくる体温は、どちらのものなのか、もはや私には区別のしようがない。
【了】