茨を飲み込むアンドロギュノス

1  初夏

嫌なものを見てしまった。
この世で三番目ぐらいに見たくもない光景を、この目で見てしまった。
初夏のとある日曜日、デートに誘われて、近所の公園まで出かけた先で目撃してしまったのだ──恋人が少女を抱きしめている場面を。
顔も名も知らぬその少女は、どことなくマネージャーの谷地仁花に似ていた。髪の色や長さ、面立ち、背の高さなどが少しだけ似ている。
及川の腕の中に収まっているその娘は、日曜だというのに制服を着ていた。烏野生でも青城生でもない。見たこともないセーラー服を可憐に着こなしている。
樹木の茂る公園の奥で、少女は泣いていた。声を上げてむせび泣いていた。
「及川くんありがとう……」
呟くように言いながら、彼女は及川を見上げた。
綺麗な涙が頬に垂れている。澄んだ青空のように凛とした表情が、少女のおもてを気高く彩っている。
「……」
敷地内を通る小道の上に立ち、日向はふたりの様子を見守った。「はじめて外でデートするんだ」という高揚は、すっかり消え失せてしまっている。
──昔、友達と遊ぶときに、よく「嘘ついたら針千本飲ます」と口ずさんでいたことを、ふと思い出した。
針。
痛み。
傷。
疼き。
……茨《いばら》。
そうだ。
この痛みはまさしく「棘」だ。
「茨の棘を無理やり飲み込まされたような」感覚が、いままさに全身を貫いている。
実際に口にしたことなどないのだけれど、それでも体が強く訴えている──「この痛みは茨の棘に酷似しているのだ」と。
「大丈夫?」
少女の肩を優しく抱きながら及川が問うた。それに少女が、
「うん」
と、答える。返事をする声までもが清楚で愛らしい。
(……仕方ないよな……)
少女とはまた違った意味で瞳を潤ませながら、日向はその場に立ち尽くした。
初夏という季節も朝という時間も大好きなのに、いまはただただ辛かった。苦しみのほどがひどすぎて、喉がひどく痛んだ。「嗚咽の兆しだ」と自分でもよくわかった。
「ああ、あれが自然な交際というものなんだ」と思った。
及川から告白されてはじまった付き合いだけれど、「男同士で付き合っている」という葛藤をいまだ、乗り越えられずにいた。交際を始めて数週間が経っているのに、だ。
(それにおれたちは、ライバル校の生徒同士だし……。本当なら付き合っちゃいけない関係なんだよな)
祝福されないつながりでもある。
もしかすると、ふたりの行く先は「報われぬ恋」なのかもしれない。
「そんなことはない」と胸の中で必死に打ち消す。
だけど──、もしもそれが自分の思い込みなのだとしたら、どうしたらいいんだろう。

2 陽光

「元気ないね」
と声をかけられたのは、翌日の朝だった。
練習後、着替えを済ませた際、それとなく谷地が渡り廊下で話しかけてきたのだった。
「……そうか?」
目線をそらしながらひとまず応じる。しかし、嘘がつけない性分ゆえにうまくかわせない。
谷地はなにも悪くない。
でも彼女を見ていると、くだんの少女を思い出すのだ。だから視線を合わせることができない。
谷地にはなんの落ち度もないのに。
「どうして私の目を見てくれないの? なんか練習中もよそよそしかったし。私、なにかしたのかな……」
「……なにも、」
「えっ?」
「谷地さんはなにもしてねえよ! 悪いのはおれなんだから……!」
大声を張り上げる。
とたん、梢で羽を休めていた小鳥が、群れをなして飛び立った。
「おれが悪いんだ。おれが勝手に、谷地さんとあの子の面影を重ねてしまっているから……」
「あの子?」
谷地が首をかしげる。
「誰のことを言ってるの?」
一瞬、声が詰まった。
痛みが疼く。喉を下った「棘」が暴れる。無理やりに飲み込まされた茨が、腹の底で熱く昂ぶる──。
「おれの家の近所に公園があるんだ」
「……うん」
「廃駅《はいえき》の近くにある、わりとでかい公園なんだけど……。そこで、おれの好きなひとと知らない奴が抱き合っていたんだ」
「好きなひと」の正体はあえて伏せた。同性同士で付き合っていることも、あえて隠した。表立って打ち明けるには、あまりにもリスクがありすぎるからだ。
及川は「すべてを知られてもかまわない」と語っていたが、自分はまだ、その境地にまでは達していない。彼との未来を選ぶ勇気がなかなか湧いてこないのである。
「結局、いちばんの卑怯者はおれなのかもしれないな」と自嘲する。
意図せぬ笑みが口許でわずかに閃く。
「ねえ、日向」
しばし黙っていた谷地が、冷静な口調で話を振ってきた。
「相手のひととちゃんと話をしたの?」
「……」
首を振る。
「駄目だよ。そこで逃げたら絶対に駄目」
明るく微笑みながら、谷地が言う。
「私にはなんのことだかわからないし、いいアドバイスもできないんだけど……、でもこれだけは言えるよ。『ふたりのことは、ふたりで話し合わないと駄目だ』って」
「そうだよ、日向」
じっと耳を傾けていたところ、第三者の声がふいに響いた。
「清水先輩……」
黒髪を涼やかになびかせながら、潔子が現れた。彼女もまた、制服に着替えている。
「皆が心配してる。『いつも明るい日向が塞ぎ込んでいるようだ』って、噂してるんだ。今日の朝練前からずっとね」
「ばれてたんだ……」
呟くと、潔子がそっと笑った。
「ばれるよ。日向は顔に出やすいタイプなんだから」
「そうだよ。だから困ったときは私たちに相談してよ。ひとりで悩みをかかえるのって、あんまりよくないし」
「うん……、わかった。谷地さん、先輩、ごめん……」

麗《うらら》らかな陽光が射すなか、三人で静かに語らう。
清冽《せいれつ》な朝日が、ゆるやかに高みへとのぼっていく──。

3 汚染

ひとけの絶えた夕暮れ時、うらぶれた木造駅舎の前を通った。朝方、谷地に話した「廃駅」とは、この建物のことである。
山沿いに建つ駅舎は廃墟のようにものものしい。人間はおろか、野良犬も野良猫も野禽《やきん》も近寄らないのだ──廃れてしまって当然であるといえる。
正直なところ、日向はこの建物を苦手としていた。たとえば幽霊とか、たとえばもののけのたぐいとか──そういったなにかよからぬ異形どもが出てきそうで、恐ろしかったのだ。
もっとも男という性に属している手前、弱音なんて吐けなかったけれど。
焼け付くように赤い光を全身で受け止めながら、前に進む。足をそろりと運ぶたびに、自転車の前輪がきしんだ響きを立てた。
今朝、谷地たちと話をしたあと、及川に連絡を取った。のぞき見をしてしまったことや、約束を反故《ほご》にしてしまったことについてきっちり詫びるつもりでいた。
だがいつまで待っても、返事は来なかった。
(もしかして及川さんは気づいていたのかも……)
自転車を押しながら、ひとりきりで考える。
(あのひと勘がめちゃくちゃ鋭いから、おれがいたことぐらいわかっていたのかも……)
「考えてもどうしようもないことだ」と承知している。
なぜ及川が少女と抱き合っていたのか──その謎を解かぬことには話が進まない。自分ひとりで悩んでいたってどうにもならない。
「及川さんに全部聞かなきゃいけねえのかな……」
「俺に? なにを?」
突然刺々しい声を耳にし、日向は足を止めた。
車輪の回転も止まる。
完全なる静寂が一帯を覆い尽くす。
「及川さん……」
「どうしてここに」と問うより先に、
「『なんでここにいるの?』って言いたげな顔をしてるね」
と指摘されてしまった。本当に、どうしてこのひとはこんなに勘が鋭いのだろう。
制服姿の及川が目の前にいる──険しい表情を浮かべた、最愛の恋人が。
「そういえば、今日は月曜日だったな」などと取り留めのない考えが頭に浮かんだ。けれど、それも吹いてきた微風とともに流れ去ってしまう。
用水路にて、木造りの水車がカラリカラリと回る。
田に植わる稲穂の群れが風にさらされ、一斉に右に傾いた。
「こないだ公園に来てくれなかったのはなぜなの? 俺とデートするの、そんなに嫌だった?」
とっさに首を振った。
嫌じゃない。むしろずっと前から楽しみにしていたのだ──ずっとずっと前から、ふたりでデートしたかったのに、どうしてそんな意地悪な言い草をするのだろうか。
「俺は楽しみにしていたよ。チビちゃんと遊ぶのって、いつも家の中だけだったから……。だから、『やっと外で逢えるんだ!』って思うと嬉しかった」
「おれもですよ」と答えたかった。けれど、なぜか舌が固まってしまっている。言葉を発したい気持ちはあるのに、どうしてもかたちにならない。
それよりなにより、及川の目を見るのが怖い。出会った当初に見せた冷たい光が、彼の両眼を鋭く縁取っている……。
「逢いたかったのに」
一歩、及川が距離を詰める。
「チビちゃんに逢いたかったのに……。ずっと待ってたのに」
また一歩、距離が縮まる。乾いた砂地が靴裏と擦れ合って、ざり、と音を立てる。
「俺に飽きたの? それとも他に好きな男ができた?」
ひどい言いようである。
けれど反論するつもりになれないのはひとえに、及川が泣きそうな顔をしているせいだ。
「ああ、茨の棘を飲み下しているのはおれだけじゃないんだ」と日向は思う。痛みも、辛さも、苦しみも、自分だけが味わっているのではない。
及川も及川で、相当暗い気分を引きずっていたのではなかろうか──少女と抱き合っていたあの日以降、ずっと。
約束を反故にした日向を待って待って待ち続けて、……もしかすると夕方頃まで待ち続けて、そして軽く絶望したのかもしれない。「可能性がない」とは断言できない。
だって、及川は以前こう言っていた。
「外で遊ぶのはじめてだし……。すごく楽しみだね、チビちゃん」
と、自室にて嬉しそうに微笑みながら言ったのだ。
暮れゆく日のもと、ふたりして佇み、黙って見つめ合う。
飛翔するカラスの姿さえ、ここには見えない。
「……怒ってますか?」
「当たり前だよ。ずっと待ってたんだから……」
「おれも、」そこで、日向は言葉を切った。
「おれも及川さんに逢いたかったです。すごく」
「じゃあなんで、約束をすっぽかしたりなんかしたのさ」
「それは……」
ごくりと唾を飲んだあとで、言った。「それは、見てしまったから……です」
「なにを」
「……及川さんと女の子が抱き合っているところを……」
言いさした瞬間、及川の顔に青みが走った。さきほどまでの強気な表情はどこへやら、端正なおもてはいまや、困惑と混乱で盛大に歪んでしまっている。
「え、チビちゃん、もしかして……」
日向はうなずいた。そして、
「見ました」
と一言言った。
「あの日、おれ、約束の場所に行ったんです。そしたら、そこに及川さんがいました。そしてよく知らねえ女の子と……結構かわいい女の子と抱き合っていたんです」
「……」
「あの子、すごく嬉しそうでしたね……」
「……」
日向はそこで口を閉ざした。浮気現場を目撃したのは事実だが、彼を責めるつもりにはさらさらなれなかった。
及川は、容姿淡麗、眉目秀麗、ついでに文武両道を地で行く男だ。話術の才もあるし、ファッションセンスにも恵まれている。年頃の女の子をとりこにする要素なら、いっぱい持ち合わせている。
誇らしいと思う。「彼に選ばれたことが嬉しい」とも思う。
けれど一方で、得体の知れぬ不安をいだいてもいる。ファンの女の子が彼に群がっているのを見るたびに、
「おれの及川さんなのに……、」
と嘆きたくなる。ぼやいたところで愛情を独り占めにできるはずがないのに、「そんな女々しいことなどしたくもない」と思っているのに──なのに、心は絶えず沈んでいくのだ。及川を囲む少女たちの姿を見つめるたびに。
「おれが男だからですか?」
「ん?」
及川が冷静に問い返す。その声にも顔にも、もはや動揺の色はない。
「おれが男だから、女の子と抱き合っているところなんか見せつけて……。別れたいのなら『別れたい』ってはっきり言えばいいのに……!」
「え、」
「及川さんと付き合えてすごく嬉しかったのに……。なのに、あんなにひどい仕打ちをされたら、おれ、もうどうしたらいいか……」
「ちょっ……、チ、チビちゃん……!?」
めずらしく及川の声に焦りが混じる。だが、日向はまともに意に介さずに、涙声を上げた。
目尻から垂れた涙が頬を濡らす。
ふと、「あのときの女の子の涙と、いまのおれの涙のどちらが美しいんだろう」と考えた。考えてもどうしようもないことなのに、思いをめぐらさずにはいられなかった。
日向は泣いた。泣きながら、「ああ、嫌になる」と心の中で呟いた。
(恋にはまればはまるほど、どんどん心が醜くなっていく……)
心を通わせ合った当時はひたすら幸せだった。
愛して愛して愛でられる喜びが湧き水のように生まれ、胸を熱く満たした。
けれど、そんな幸福な日々は過ぎ去ってしまったようだ。
いまは及川の顔を見るのでさえ苦しい。愛すれば愛するほど執着心も増大して、それが魂の底を強く汚染させるのだ。
「もっと」とせがむ声が、胸の奥に聞こえる。音量的にはかなりちいさな声であるのに、どうしても無視できない。
飢餓感を煽り立てる声に急かされて、「及川徹」という人間すべてを求めてしまう。強烈な存在感を放つ声を、どうしても黙殺できない。
ああ、茨が。
茨の棘が。
──またしてもひとつ、喉を下る。
微細な、けれどたしかな痛みが口内から喉、喉から胃へとすり抜けていく。
「チビちゃん」
言いながら、及川が右手を伸ばしてきた。日向はあえて逃げなかった。「逃げてもどうせ追いつかれる」と悟ったためである。
「見たんだね?」
一度だけおおきくうなずいた。
髪の毛に温かな感触が触れる。広いてのひらと細い手指が、みかん色の頭髪をゆるやかにかき混ぜた。
「あれは……、俺が悪いんだよ。チビちゃんはもちろんだけれど、あの女の子も悪くない」
「でも、だったらどうしてあんなこと……」
こぼれる涙を及川の指がすくった。幾度もすくった。
されるがままにまかせながら、日向は何度もまばたいた。潤む瞳の向こうに笑顔の及川が映る。
「なんて綺麗な笑顔なんだろう」と、ひとり、感嘆の息を漏らす。
「あの女の子はもともと、俺の熱烈なストーカーだったんだ」
「ストーカー……?」
「そう。要するに、……ちょっとひどい言い方するけど、『たちの悪い追っかけ』って奴かな。まあ、そんなに実害はなかったから、警察には突き出さなかったけどね」
「はあ……」
突然、l話が予想外な方向から始まったので、少しだけ驚いた。
しかし数秒が経ったのち、「そうでもないか」と思い返した。
女の子とはまるで縁のない自分とは違い、及川は非常に「もてる」のだ。それも病的なまでに。
「おれの及川さんを取るなよっ」と彼女たちに言いたくなった場面ならば、いくらでもある。それこそ両手の指を折って数えても足りないほどに。
「……で、あの女の子、県外生でさ。雑誌に載っていた俺の写真を見て、一目惚れしちゃったらしいんだよね」
「自慢っすか?」
「いやいや、ここからが本題」
表情と口調をあらためた及川が、
「あの子の行動がだんだんやばい方向になっちゃって……」
と語り出す。
「それがあの子の親御さんにもばれたんだ。で、親御さんたちは、あの子を病院に入院させようと考えた。……もちろん治療のためにね」
稲穂が揺れる。
擦れ合う薄絹《うすぎぬ》のような、しっとりとした音色が静けさを打ち払う。
「あの子もそれに同意したよ。だって、『自分でもまずいことをしているという自覚はあるの。このままじゃ、及川くんのことまで壊してしまう』と言ってたからね」
「……」
ストーキングは犯罪だ。絶対に同情してはいけない。
けれど、なぜだろう。少女を断罪する気力も気概もとうとう、湧かなかった。「彼女は彼女で、真剣に及川のことを愛していたのだろう」となんとなくながら理解できたから。
及川に抱かれていたとき、彼女は泣いていた。穏やかな清流のように美しい涙だった。
あんな綺麗な涙、はじめて見た。
無用な飾り気のない、素朴かつ純朴な泣き顔だった。
繰り返す。
ストーキングは犯罪だ。
けれど、少女は純粋に、及川のことを愛していた。だから、「このままじゃ及川くんのことを壊してしまう」と口にしたのだろう。彼女は彼女なりに、おのれの罪を反省していたのだろう。
でなければ、行為はもっとエスカレートしていたはずである。
「あの子、デートの日に俺の前にいきなり現れたんだ。そして、『一度だけでいいから私のことを抱きしめてよ。それで全部あきらめるから……』って言ったんだよ」
及川が微苦笑をする。
「チビちゃんとの約束の時間が迫っていたから、追い返そうと思ったんだけれど……。でも、あまりにもあの子が真剣な態度で迫ってきたもんだから、とうとう根負けしちゃってさ。『たった一度の抱擁ですべてが終わるのならいいかな』って考えたんだ」
「そして要求を飲んで……、おれに見つかったわけですね?」
「うん。そういうこと」
澄んだ空気に囲まれるなか、またも黙って見つめ合う。
まるで世界にふたりきりで取り残されてしまったような、おぼつかない錯覚に襲われた。
(実際に、及川さんとふたりきりになれればいいのに)
谷地に似たあの女の子や数多くいるライバルたちが入り込めないぐらいに、深く。
……むろん、そんな夢物語、叶うはずなどないとわかってはいるのだけれど。
「チビちゃん。これが真相だけれど……。まだ怒ってる?」
「少し」
涙目のまま、答える。
「じゃあ、いまから仲直りしようか」
無言で及川を見上げる。彼はいたずらっぽく打ち笑っている。
「チビちゃんが俺の全部になるように、俺もチビちゃんの全部になるんだ。心と体をつないで、互いに互いのものになるんだよ。そういうのって素敵だなーって思わない?」
「……」
つまりそれって、
「……セックスをしよう、ってことっすか?」
及川は楽しげに笑っている──まるでお気に入りのおもちゃを見つけた子どものように。
浅いため息が漏れた。
こういう顔をするときの及川は、たいていひとの話を聞かないのだ。

4 愛情

夏の日の黄昏時、廃駅の構内で抱き合うだなんて、いったいどうやって予測しえただろう。
男と──それもライバル校の主将に抱かれる未来など、どうやって予見しえただろうか。
「体を重ねる」と決めたあとの及川の行動は、実に早かった。
「駅に行こう。あそこならひとが来ないし、見られる心配もないだろうし、万が一雨が降ってきたとしてもしのげるだろうから」
微笑みながら、彼はそう言った。
さびれたホームの壁に──塗装のおおいに剥がれた、木の香りの強い壁に手をつきながら、日向は思った。「なにもかもの責任をこのひとに押し付けているようだけれど、おれだって本気で嫌がっているわけじゃないんだ」と。
及川以外の者から誘われたら、即、断っていただろう。男が相手でも女が相手でも拒絶していたであろう。だって、自分のすべてはもう、及川だけのものなのだから。体も心も魂も及川のためだけに存在するのだから。
むろん、バレーをしているときだけは別だ。「心身ともに自分のものとして活用したい」「及川さえも打ち負かしたい、もっと高いところに跳びたい」と熱烈に願っている。
だから及川はときどき、バレーに嫉妬をする。
「翔ちゃんはバレーに恋しているからね……」と甘くささやいては、耳朶を軽く噛んでくるのだ。
いまだって、そう。
後ろから体を押さえつけながら、
「バレーのことでも、考えてるの?」
としつこく尋ねてくる。
「ああ、また妬いているんだ、このひと」と半ばあきれつつ、ちいさく首を振る。
バレーに嫉妬心を持つような狭量な輩など、本当は苦手だ。及川のことだって、最初は苦手だった──はずだ。
けれど、恋心を覚えるようになったいまとなっては、どれもこれも恋情を刺激する材料にしかならない。
いつから好きになったのか、いつから執着するようになったのか、覚えていない。五体を灼くような激しい感情をいつ抱くようになったのか──自覚はない。
なのに、不思議だ。
夕暮れの時の無人のホームにて背後から抱かれることが。
本来、体を許してはいけない人間と交わっていることが。
愛してはいけない者と想いを通じ合わせてしまったことも。
「……嫌?」
問われて日向は、
「んなことないっす。本気で嫌だと思ってたら、とっくの昔に逃げてます」
と端的に答えた。
壁から放たれる腐った樹木のにおいを吸いながら、
「覚悟はしてましたから」
と言った。及川からの返事はない。
周辺に人家が少ないためか、構内は異様なまでに静かだった。虫の羽音すらちっとも響かない、無音の空間がうっそりと横たわっていた。
よくできた模型のような完璧な異界が、ここに在った。学校からも自宅からも隔離された、完全な異空間──それが駅舎であり、構内であり、鉄路《てつろ》であった。
裾の中に手が入ってきた。一瞬、心音が跳ねたが、されるがままにまかせた。
日向とて男だ。同性になど服従したくはない。
けれど、及川が相手ならば、価値観ぐらい喜んでねじ曲げてやる。それが不利をもたらすものであったとしても。男としての矜持を奪い去るものであったとしても。
愛しているから、荒々しい抱擁を強要されても我慢できる。好きだから、抱かれる屈辱にだって耐えられる。
心だって許せる。
だからいまさら抵抗なんてしない。するはずがない。愛を交わす段階になって逃げ帰るような愚行など、犯せるはずがない──。
「あ、」
耳朶を、続いてうなじを軽く舐められた。耳裏を舌と口でもてあそばれると、おのずから膝が震え出す。
「……、……っ……」
唇を噛みしめ、声を抑える。ひとは来ないとわかってはいるが、それでも羞恥心やら常識やらが胸にあふれる。純粋に快楽だけを追うには、まだ前戯が足りない。
裾から入る手が、熱く火照る素肌をなぶる。薄い筋肉の乗った腹筋を、肺呼吸に合わせて上下する胸筋を、するすると撫でてかわいがる。
「……っ……、」
声が、漏れた。
熱く甘ったるい喘ぎ声が──男のものとは思えぬ声が、だらしなく開いた口よりこぼれ落ちてゆく。
後ろから時折抱きすくめられつつ、乳首を執拗にいじめ抜かれた。潰され、ひねられ、尖らされ、転がされると、際限なしに高い嬌声がこぼれた。「まるで女の子のような声だ」と自分でも思えるほどに、不埒《ふらち》でかよわい声だった。
尖りきった場所を、指先でさらにこね回される。感度を高めるための動きに翻弄され、日向は、
「あ………っ、……」
と吐息した。
息が抜ける。ほどける。
緊張しているはずなのに、体から力が抜ける。
相手の表情すら見えないのに、けもののような体勢で抱かれているのに、──あきらかに心は悦んでいる。
緩慢に屠《ほふ》られてゆく快感が、甘い目まいを呼び起こす。
ここにふたりしかいないことが嬉しい。
ここに誰もいないことが嬉しい。
奇妙なまでに静謐な駅ホームにて愛し合えることが嬉しい。
だって、ここには誰も来ないだろうから。ここには日向と及川のふたりだけしかいないから。
「まだバレーのことを考えてるの?」
言われて、日向は首を振り、否定の意を示した。
このときばかりは、バレーも「ちいさな巨人」もどうでもいいと思えた。「ライバル同士」という関係ですら考慮のうちに入れず、ひたすら行為に没頭した。
「それが及川さんに対するなによりの礼儀なんじゃないか」と考えたからだ。ペーパーテストに弱い自分の頭で最適解《さいてきかい》をはじき出せるかどうか、いまいち不安ではあるけれど。
乳首をこねていた手が、制服のジッパーを下ろす。下着の上からでもそうとわかるほど、日向の分身はすでに昂ぶり、硬く張りつめていた。
くす、と耳許で笑われる。それすら快楽を導き出す呼び水になる。
喉許を過ぎ、胃に収まっていた棘が、──目に見えない不可視《ふかし》の棘がかたちを変えてゆく。丸みを帯びた柔らかな花弁へと、一片の桜の花びらへと変化してゆく。
嬉しかった。征服されることが。
尊かった。このけもののようなまじわりが。
乱雑な手つきで濡れた部分をいじられ、犯され、追い詰められても、それに甚大な悦びを感じた。おとなびた容姿をした及川にも──女生徒におおいにもてる及川にも余裕がないと知って、愉悦と優越を覚えたのである。
期待しているのも、緊張しているのも、きっと自分だけじゃない。
感じているのも。おそらくは……、恋心に溺れているのも。
ぬちゃぬちゃと淫らに響く水音が──粘り気を伴った水音が、聴覚を果てなく犯し尽くす。口からは次々と嬌声が漏れ出るし、膝なんて震えっぱなしだ。
「愛されるって、体力のいる仕事なんだな」とふと思ったそのときだった。
「チビちゃん。下、脱がしてもいい?」
低い美声をもってささやかれた。
次いで、「いいよね?」と念を押すように、耳を一舐《ひとな》めされる。
「下……? こんなところでですか……?」
「誰も来ないよ。ここ、オカルトスポットとしてそこそこ有名な場所だし。地元民はまず近づかないらしいから」
「じゃあ、それ以外のひとはどうなんですか」と問おうとしたが、あえて口をつぐんだ。
数刻前まで萎えていた男性器は執拗な焦らしに遭い、いまや天を仰いでいる。このままいじられ続けていたら、絶対ボトムを濡らしてしまうに違いない。
だから、
「好きにしてください……」
とだけ言った。
期待感は、おおいに高まっていた。外でのまぐわいに不快感どころか、一種の高揚感すらいだきはじめつつあった。
「持てるだけの愛情と恋情を捧げ合う、儀式のようなこのやりとりが好きだ」と思った。外野にとっては「ただのセックス」に映るのかもしれないが、いまの日向にとっては、これは何物にも代えがたい至上の美徳であったのだ。
セックスに正しいも間違いもないだろうが、しかし、──性を用いたこのやりとりはまさしくひとつの「儀式」であった。
下を脱がされる。優しい風が内腿《うちもも》に、ひやりとした感触を連れてくる。思わず身震いしたところ、
「ごめん。寒いよね」
後ろから抱きしめられた。自信家な彼にしてはめずらしく、儚げな口調である。
「いま温めてあげるからね」
背後でなにかを探る音がしたと思いきや、
「……っ……!」
尻たぶに冷たいものが触れた。
「ローションを持ってきてたから、使ってあげる。少しでも痛いのをやわらげてあげたいから……」
液体があわいをすり抜け、固く閉じていた蕾にまで達する。指が──及川の整った手指が、ぬめりを奥に塗り込める。
腰の底からせり上がる悩ましさに、日向は何度も喘ぎ、涙し、膝を、肩を──震わせた。
腹の中に溜まっていた茨の棘が連続して、桜の花弁に変貌する。痛みを伴う感覚が、柔くてぬるい感触へと変質してゆく。
飲み込んだ茨が、腹の中で桜へと生まれ変わってゆく。薄紅色の花びらたちが、胃の底を優しくぬくめていく。
この幸せな気持ちをどう言葉に置き換えたらよいのだろう。
どのように表現したら、及川にこの幸福を伝えきることができるのか。
懸命になって考えて考えて、考え抜いたところで、──日向は思考を止めた。
そんなことよりも、いまは愛撫に応えるほうが先だ。愛される悦びを体で受け止めるほうがなにより肝心なのだ──。
官能を操る動きにおののき、ひれ伏し、入れ込み、悶える。「男が男に抱かれる」というどうしうようもない倒錯感に打ちのめされるが、それすらも快楽を促進する媚薬となる。
媚薬。
そう、この恋は媚薬のように甘くて苦くて美味だった。むろん、その手の薬など飲んだことはないけれど、でもこの恋はまさしく「媚薬」と呼ぶにふさわしいものであった。
催淫剤《さいいんざい》など服用せずとも、欲情ならばいつだってできる。及川が相手ならば、いつだって。
(バレーをしているときは、さすがにできねえけどな……)
そう思った瞬間、指を引き抜かれた。押し寄せる喪失感に思わず振り向いたところ、
「チビちゃん。……ごめん」及川が言った。
憂いを含んだ目を間近で見て、日向は、「ああ、」と悟った。「おれ、これから『女』にされるんだ」と。
逃げるつもりはなかった。与えられた愛を投げ出すつもりもなかった。この乱暴なまじわりこそが、自分の望んでいたものだったのだから。
愛情。
それこそが、真に自分の欲していたものなのだから──。
「あ……、……………っ……」
息が、漏れた。
凶器のように猛る熱塊《ねっかい》をそろりとねじ込まれ、なじませるように軽く内部をうがたれる。腸壁は早くも彼自身を締め付け、精をしぼり取ろうとしていた。
心地のよい圧迫が、潤む隘路《あいろ》を責めるようにさいなむ。一度、二度、三度と出し入れされると、
「あ………、」
下腹部が一気に重くなった。
後ろだけでなく、前も強く反応している。男性固有のものとして機能する部分と、女性器の代替物《だいたいぶつ》として機能する部分が、同時に快感を訴えている。
「アンドロギュノスみたいだねえ。いまのチビちゃんは」
律動を加えながら及川がささやいた。
いまの日向には応じるだけの力がない。
「男でもあり女でもある生命体のことだよ、アンドロギュノスというのはね……。だって、そうじゃない? いまの君は、男でもあり女でもある『器』になってしまっている……」
わからない。
唐突に「アンドロなんとか」の話を持ちかけられても、うなずきようがない。
なのに及川は得々と語るのだ。「お前は性別を超えた存在になったんだ」と。「俺の手によって、命の在り方そのものを作り替えられてしまったんだ」と。
命、という単語を聞いた瞬間、日向は、「及川さんにならば命だって差し出せる」と思った。十代同士の恋に命もなにもあったものではないかもしれないが、それでも心は真剣だった。目の前を過ぎる一瞬一瞬が、鮮烈で峻烈で苛烈で尊かった。
恋はいつでも儚くもろいものだけれど、だからこそ、──命を賭けるに価《あたい》した。
全霊を込めて愛し合うこの行為が、拙い祈りにも似たこの行為が、いつかどこかで報われればいい。
そう願いながら、日向は抱かれた。真後ろからやみくもに抱かれ、愛され、揺さぶられ、激しく求められ──ひたすらに啼《な》いた。背後から漂い来る妖艶かつ凄艶《せいえん》な色香に当てられ、雌猫みたいに一途に甘えた。
貫かれ、揺さぶられ、液体の粘る音を聞かされ、──そして世界が回る。五体で感じる世界が、景色が、美しく色づいてゆく。
そこは誰も介入できない、ふたりだけの天国だ。生老病死《しょうろうびょうし》、種々様々《しゅしゅさまざま》な災いすら蹴散らす、とびっきりの理想郷だ。
「及川さん、もっと……」
無我夢中でねだりを入れると、応じるように腰を突き入れられた。
奥を突かれる。秘められた場所が気持ちよく疼く。さきほどまで固く閉じ切っていた蕾はいまや、男を飲み込む性器へと成長していた。
「及川さん、……好き、……です……」
告白の言葉を捧げたのとほぼおなじ頃合い、ふわりと、腹の底で、桜の花弁が舞った。
全身が桜の花びらに埋め尽くされていく。
ひどく幸せな感覚に、日向はひとり、微笑みをこぼす。
張り詰めていた男性器が、遅れて女性器として開発された場所が、色濃い快楽に包まれる。それからしばらくして、奥に、粘っこい精を放たれる。
「ああ、なんてみっともない行いなんだろう」と我ながら思う。
けれどこの野蛮な行為こそが求めていたものなのだ。互いを絶頂に導き合うこの時間に没入できるのならば、命を投げ出しても惜しくはない。
「及川さん、大好き……、」
息を切らしながら告げると、背後より固く抱きしめられた。
春風の香りのように上品なにおいを感じ、日向は短い笑い声を上げる。いとしい体温を身近に知る喜びが、体に、そして心に広がってゆく。

古い駅舎のホームに落日の時が訪れる。
ここに在るのは、美しくも淫らな恋だ。

【了】