ヒラドツツジが咲く街で

双方の部活が休みになった晩春のある日、日向は、遠く離れた及川邸に向かった。

いつもどおり自転車にまたがって、ひとけのない高級住宅街を抜ける。もう何度も通い慣れた道だ──迷子になるはずがない。
綺麗に舗装された歩道の脇で、ヒラドツツジが華麗に咲き誇っている。彩り鮮やかなそのただずまいは、ひたすら可憐で美しい。
花々の豊かな香《か》を知覚し、日向は自然と笑みを浮かべた。
部活ができないのは少し辛いけれど、及川に逢えるのは嬉しい。彼のことを想うだけで、胸の底がほんのり温かくなってくる。
これまでにもいくたびか恋したことはあったけれど、相思相愛の仲になったのははじめてだった。だからこそ、いとおしさは日増しに募ってくる。ふとした瞬間に及川のことを考えたりもする。
自転車の走行音が閑静な住宅街に響く。
紺碧《こんぺき》の空を覆う雲は、一片《いっぺん》とて見当たらない。
「あ、」
及川家の門前近くに、背の高い人影が見えた。それはよく見知ったひとのものであった。「及川さん!」
ブレーキをかけ、サドルから降りる。及川はすでに私服に着替えている。
「こんにちは、翔ちゃん」
にこりと微笑みながら、及川が言った。
「こんにちは、及川さん」
日向もまた、微笑み返した。自分でもそうとわかるほどに明るく笑った。
「ところでそれはなんですか?」
及川の右手が持つ紙袋に視線を移す。薄茶色をしたその袋は、さほどおおきくはない。
「なんだと思う?」
質問に質問を重ねられ、日向は少し混乱した。さしあたって、
「えっと……。食べ物ですか?」
と答えたが、及川が言うには「不正解」とのことであった。
「わからないかな」
「……はい」
二十センチほど高い位置にある、端正な顔を見やる。変わらず笑んでいる及川を見て、日向もまた頬をゆるめる。
「俺からのプレゼントだよ。開けてみて」
手渡された紙袋は、存外軽かった。逸《はや》る気持ちを抑えつつ、封を開ける。
門の傍を過ぎるひとも車もない。
「あ……、」
中身に触れた瞬間、思わず感嘆の声を漏らした。
日向の目がとらえた物体──袋の中に入っていたものとは、一組のイヤホンだった。黒地にオレンジのラインが引かれた、見るからに高そうな品である。
「こないだイヤホン買いに行ったら、それ見つけてさ。翔ちゃんのことを思い出したから、買ってきちゃった」及川が言った。
「俺もね、別の色を買ったよ。白地に青のラインが入ったものをね」
「そうっすか……」
「うん」
……どうしよう。
嬉しすぎて声が出ない。
感謝の言葉を口にしたいのに、舌がもつれる。「及川さん」と名前を呼ぶのがやっとだ。言いたいことならたくさんあるのに、ああ、なんてもどかしい。
「翔ちゃん。……嬉しい? いきなりプレゼントされて迷惑とか思ってない?」
問われて、日向は扇風機のように勢いよく首を横に振った。
「迷惑だ」などと思うはずがない。大好きなひとからのプレゼントはなんでも嬉しい。贈り物を選ぶ間ずっと、日向のことを考えていてくれただろうから。
「あの、おれ、嬉しいっす……」
単純に「嬉しい」としか表現できない自分が恨めしい。こういうとき、「語彙力が欲しいな」と思う。心底思う。
けれど、及川は黙って受け止めてくれるのだ。感激するあまり、「嬉しい」としか言えない日向を受け入れてくれるのだ──。
「立ち話もなんだし、とりあえず中入ろうか?」
今度は首を縦に振る。
麗らかに照る陽光のまぶしさに目を細めながら、及川のあとを追った。

「……というわけで、これがおれの宝物なんだよ」
プレゼントを渡された数日後、日向はイヤホンを手にしながら、そう言った。
部活終了後の体育館にはまだ、ほとんどの男子バレーボール部部員が残っていた。その多くは、イヤホンを見せびらかす日向を囲むようにして立っている。
及川からの贈り物を見せたきっかけは、ささいな話からだった。練習の合間、「自分の宝物はなにか」という話題になって、そのときに、数日前贈られたプレゼントのことを思い出したのだ。
あれから日が少し経ったが、バッグの中にイヤホンを常に忍ばせていた。烏野と青城──両者を隔てる距離に打ちのめされそうになったとき、イヤホンを取り出しては喘ぐ心を落ち着けた。
他人からしたらどうでもいいものかもしれないけれど、日向にとって、このイヤホンは筆舌に尽くしがたいほどに大切な一品であった。恋人から頂いたはじめての品物なのだ──丁寧に扱って当然であろう?
「黒地にオレンジのライン、か。うちのユニフォームの色だね」ジャージ姿の谷地が言った。
「ふうん……。結構かわいいかも」おなじく、ジャージ姿の潔子が呟いた。
「仲がいいのはいいんだがなあ。一応、あいつはライバル校の主将だぞ」田中が声を大にしてまくし立てる。
「いや、その点なら大丈夫だろ。もう引退したそうだからな!」西谷が、田中の脇腹を軽く小突《こづ》いた。
「しかしお揃いのものをプレゼントするとは……。及川って、意外とロマンチックな性格をしているんだな」感慨深げに、澤村が言った。
「そうっすね。あのひとはあのひとなりに、日向のことを大事に思っているんでしょうね」影山がちいさくうなずく。
「それにしても」しばしの間沈黙していた菅原が、おもむろに口を開いた。
「日向。本当に及川でいいのか?」
「なんのことですか?」
「いや、及川ってかなり性格が悪いらしいから……。日向がいじめられていたらどうしようと思って」
「ああ、それなら心配しなくてもいいっすよ!」満面に笑みを閃かせ、日向は返事をした。
「及川さんって優しいんですよ。サーブは教えてくれないけれど、勉強なら教えてくれるし。ご飯をおごってくれるし。おれ、あのひとと付き合っていて嫌な思いをしたこと、ありません」
「そうか……。でも、いじめられたらすぐ俺たちに言うんだぞ。必ずや報復してやるから」
「それは無用な心配だと思うけど」
突然割り込んできた声を耳にし、一同、びくりと身をすくませた。
「えっ……」
静まった館内に、日向の声がわずかに響く。
扉の向こうに立っていたのは、ちょうど話題にのぼっていた人物こと及川であった。彼の背後には、幼なじみにして元チームメイトの岩泉が控えている。
「及川さん! 岩泉さん!」
イヤホンを手にしたままで、日向はふたりに近づいた。
「どうしてここに? 青城と烏野って、かなり離れているのに……」
「翔ちゃんの顔を拝みたかったから来ちゃった」悪びれもせず、及川が言った。
「『来ちゃった』じゃねえだろうが。烏野の奴ら、びっくりしているぞ」岩泉がため息を吐き出す。「まだ引退して間もないのによ、俺たち」
「だって暇なんだもん。それに、翔ちゃんが飛雄あたりに虐げられているんじゃないかと気になって……」
「虐げたことなんて、一度もありません」影山が割って入る。「勝負に勝つために厳しいことを言ったりしますが、それは日向の今後を考えてのことです。いじめてはいません」
「むきにならないでよ、飛雄。冗談のつもりなんだから」
「及川さんが言うと冗談に聞こえないんです」
「えー、そうかなあ」
「そうに決まってます」
「悪気はないんだけどなあ」
「悪気がないからこそ厄介なんです」
「あ、あの!」
日向はふたりの間に身を滑らせた。「……及川さん、この前はありがとうございました」
及川が優しい目をしてこちらを見る。
「これ……、皆に見せたんです」
持っていたイヤホンをおそるおそる掲げる。
「ああ、それ。持っていてくれたんだ」
「はい! だって、及川さんからはじめてもらったものだから……」
「俺も持ってるよ」
言って、及川がカバンを開けた。そして、白地に青のラインが入ったイヤホンを取り出す。
「うわ、恥ずかしい……」
「恥ずかしくなんてないよ、岩ちゃん。俺たち恋人同士なんだから、これぐらいふつうだよ」
「こ、恋人同士、って……」
あらためて言葉にされると、どうしても照れてしまう。おそらくいまの自分の顔は、りんごのように真っ赤になっていることだろう。
「及川に岩泉か……。受験生がこんなところで油売ってていいのか?」背後から澤村の声が聞こえた。
「いいんだよ、主将くん。岩ちゃんはともかく俺は成績いいし。推薦だって狙えるし」
「『岩ちゃんはともかく』はかなり余計だ、クソ及川」岩泉が及川の頭にこぶしを見舞う。
「いったーい! 暴力反対!」
「うるせえ、男がぎゃあぎゃあ騒ぐな!」
「ああもう、翔ちゃん助けてっ! 岩ちゃんが俺をいじめるよー」
どさくさにまぎれて抱きつかれ、日向はおおいに戸惑った。困惑するあまり、総身《そうしん》が棒のように固まる。
「こら、及川! 日向が困っているだろ!」
「そんなことないよ。翔ちゃんは喜んでるよ。ね、翔ちゃん?」
「え、あ、は、……はい!」
動悸を打つ胸をさすりながら、日向は答えた。皆の目の前で抱きしめられているのだと思うだけで、脈が速くなってくる。
「よくやるよ。完全にバカップルそのものじゃない」いつものように、皮肉っぽい口調で月島が呟く。
「まったくツッキーの言うとおりだよ」あきれた様子で、山口が言う。

このあと、部員および部外者二名、仲良く帰宅した。
その間、及川の機嫌が良かったのは語るまでもない。

【了】