座面の硬いスツールに座る僕の向かいで、男が宝石を食べている。空調がほどよい暖気を送る室内の壁一面に木棚がしつらえられていて、その奥で、彼に食べられる運命にある宝石たちが行儀よく並んでいる。アメジスト、トパーズ、ダイアモンド、サファイア……僕が知っている種類のものはそれぐらいだが、しかし、モノクロで統一された部屋を輝かせる光輝の度合いからして、価値のほどはうかがえた。
曇りない窓は、冬なのに開け放たれている。目の前のソファ、それも革張りのソファに座るその男が、悪だくみをする黒猫みたいににやりと笑って、「君がどれぐらい、寒さに耐えられるか見てみたいんだ」などと言ってきたものだから、仕方なく要求を飲んでやっているのだ。外界の喧騒から遠く離れた部屋の主は、僕ではない。よって、選択権もない。男の言動は一見すると慎ましやかだけれど、その実、有無を言わさぬ迫力に満ちている。謙遜さを装った傲慢さすら仄見えた。
淡い色調のカーテンが微風にさらされ、たなびくその先で、満月が下界を見下ろしていた。マンションとコンビニから漏れる明かりで構成されている地上のちょうど真上で、月が冴えた輝きを放っている。
突然口笛を吹き鳴らす男のほうには見向きもしないで、僕は満月を仰ぎ見た。ネオンの光に打ち消されそうなほど弱く脆弱な光なのに、巨大な存在感を感じる。自己主張の乏しい光だから、かえって、感慨を催させるのかもしれない。声高に自己の存在を標榜する輩が世間に跋扈しているからか、そのちいささと儚さに好感を持ってしまう。僕もまた、月のように微弱で儚い、塵みたいな存在だから、感情移入してしまうのかもしれない。
僕が月だとすると、眼前に座る猫みたいな男はたぶん、夜だ。もしくは、夜の底で這いずり回る魔物にも例えられる。
黒髪、黒い目、薄い唇。背は高くも低くもない。どちらかというと痩せ気味だが、不健康というわけではない。
僕は一度、街で僕の育ての親と戦う彼を見た。灰色一色のビルの足許で、拳を振るった僕の育ての親に、彼は挑んでいったのだ。右手にナイフを携えて。抜け目ない山猫みたいに、狡猾そうな笑みを浮かべて。
僕の育ての親は喧嘩がめっぽう強くて、負けたことがないらしい。実際、一対二十人ほどで戦闘した場面を見たことがあるけれど、余裕で勝った。しかも、無傷だった。手の皮膚をちょっと擦り剥いただけで、骨折も負傷もしなかった。僕の育ての親は体力に恵まれすぎていて、もはや常識の範疇を越えてしまっていたのだ。
なのに、だ。
いま、ソファに座って僕と見つめ合ってる黒髪の男ときたら、僕の育ての親とほぼ互角に渡り合ったのだった。力強く地を蹴り、中空に跳び、ナイフを振りかざし、僕の育ての親の胸めがけて暴力を解き放つ。淀みない一連の所作に目を奪われ、僕はただ立ち尽くした。血しぶきが飛び散るさなか行われた戦闘は、僕のすぐ目の前で進行していった。それは今日の昼前のことだった。
「臨也さん」と僕は呼びかける。黒猫みたいに不敵に笑う、漆黒の髪の男に向かって。
男はふだんよく着ている黒のジャケットを脱いで、僕と対峙している。「なんだい」と答える声からは、「物腰柔らかな好青年」の匂いが漂っている。けれど、声の最深に一種の催眠術のような、強烈な拘束力を備えている。
池袋界隈では、彼はとんでもない有名人だった。「ひじょうに整った容姿とは裏腹に、性格はひどく歪んでいる」だとか、「目をつけられたが最後、骨の一片まで食らい尽くされる」だとか、「折原に抗って生き延びた者は皆無。狙われたら絶対に逃げられない」だとか、とにかく聞く噂聞く噂、悪意で彩られていた。
ネットが趣味のわりに風評にいまいち疎い僕の身を案じて、親友の正臣がよく、「折原臨也には気をつけろよ」と警告してくるけれど、臨也さんの人好きのする笑顔に面していると、少しだけ警戒心を忘れてしまう。だけど、「外見にだまされてはいけない」とすぐに気を引き締めるのだが。
僕の育ての親もまた、臨也さんのことをよく思っていないそうで、「絶対にあいつには近付くなよ」と口を酸っぱくして言う。でも、僕には臨也さんを相手にする理由がひとつ、あったのだ。
他人に絶対口外出来ない秘密をかかえていた。それも育ての親に関する秘密だ。
義理の親子という関係を苦にしているわけじゃない。外見も性格もまるで正反対な自分たちのことを不思議に思ったりもしたけれど、それに付随する葛藤はいまではあさっての方向に消えてしまった。「血がつながっているからといって、こころも緊密に結ばれているとは限らない」と学習したせいだ。
ネットで知ったことだけれど、この世には我が子を虐待したりする親がいるらしい。また、高齢になった親に危害を加える実子もいるそうだ。まだ、実際にそんなひとたちに出会ってないから、それがほんとうなのかはわからない。そのような暴力は、幸いにして、僕の身の周りにはまったく転がっていない。
けれど思わぬところで、暴力は生まれている。僕の友人などは、時折、「口うるさい親なんていなくなったらいいのに」と愚痴をこぼしたりする。「誰かがいなくなればいい」という思いこそが暴力の萌芽なのだと日頃から考えている僕にとって、友人の発言は衝撃的だった。存在を認めるのでなく、存在を、居場所を削る。その兆しが親愛なる友に見られた事実に怯えた。それは、この世に誕生してから十五年間の歴史を振り返るなかで、もっとも印象的な暴力だった。
「自分のこころのなかから、他人の居場所を削り取る」という企みは、「他人の存在を承認しない。許さない」という精神の働きから来る行いだ。他人の居場所を削れば、こころのなかに住む他人の存在だって死んで、泡となってしまう。相手への共感と同調を忘れたら、こころのなかに住む他人の存在が消えてしまう。
それを妄想の世界だけで片付けられればいいけれど、妄想はいつしか現実にまで波及してしまうかもしれない。「そんなことは絶対ない」とは言い切れない。「思念があるから、行動が生まれる」と僕は思う。でも結局は、たんなる杞憂ともいえるが。
だけど、僕はありとあらゆる暴力を未然に防ぎたいのだ。
僕の育ての親は、生まれ持った凄まじい怪力のせいでさんざん苦しんできたそうで、望んでなくとも喧嘩と暴力に巻き込まれてきたそうで――、それで養子である僕に、理性的に動くよう提案してくるのだった。
「どんなに喧嘩を売られてもやりかえすな」と、絶えず言ってくる。でも、泣き寝入りしろってわけではない。
僕に売られた喧嘩は、もれなく僕の育ての親が買い取る。暴力と縁の切れない育ての親だからこそ出来る芸当だった。
僕の育ての親も、僕の親友たる正臣に恐れられていた。僕の育ての親もまた、臨也さん同様、池袋界隈の有名人だったのだ。それもどちらかというと、悪い意味での有名人だった。「暴力を嫌っているくせに、いざ喧嘩を売られたら全部買ってしまうところ」が、その主たる理由だった。
「自制してはいるんだが、どうも、因縁つけられるとキレちまうんだよなあ」と、僕の育ての親は反省の弁を口にしている。彼がいかに暴力から手を引きたがっているか、その葛藤の一部始終を僕は垣間見ている。
だから、僕は彼のことを好きでいた。風評なんて気にしない。僕が実際に見てきた育ての親は、いつだって優しいひとだったのだから。僕がカゼを引けば一晩じゅう寝ずの看病をして、僕が微笑みかければ最高の笑顔で応えてくれて――、とにかく優しいひとなのだ。だから、どんな悪評を聞いても、育ての親のことを好きでいた。
いま、目の前で宝石をおいしそうに消化してゆく臨也さんと同じく、僕の育ての親も宝石を食する習慣を持っていた。けれど、僕にはそのような習慣がない。一般食を毎日食べている。
早い話、育ての親や臨也さんは人間ではなかった。片や悪魔で、片や天使。「現代日本において天使も悪魔もなかろうに」とも思ったのだが、実際に生息しているから、反発や反論はすべて無駄となる。事実はいつだって強いのだ。
古来、天使と悪魔は互いの生存権を賭けて争っていた。聞くところによると、その戦いは神話伝説が登場するまえから開始されていたそうだ。気の遠くなるほど戦いを何度も繰り返したすえ、年月を経るうちに天使も悪魔も進化した。その原因は、彼らのあとに誕生した人間たちに求められる。
予想に反して爆発的に増えた人間たちが、世界を掌握するようになる。地球上の生命の運命を左右する権限が、人間の手に委ねられるようになる。もちろん、天使や悪魔も人間の支配下に置かれるようになる。まじないや儀式などで制御されるようになった天使と悪魔の大半は、ヒトの世に適応できず、静かに消滅していった。けれど、そのなかで、人間たちに進んで適応していこうとする一派が現れた。彼らは人類の生態を観察し、学習し、体得することで、ヒトの世で生きていくすべを手に入れた。つまり、人間に擬態して生きていく運命を選んだのだ。
その天使や悪魔たちの子孫が、僕の育ての親と臨也さんだ。彼らの外見は人間そのものだけれど、生活様式は微妙に常道からはずれている。宝石を食べるのだって、先祖から受け継いだ慣習なのだ。
ちなみに、天使や悪魔、妖精など、人知を超越した生命体はまとめて「幻想種《げんそうしゅ》」というカテゴリに配置されている。彼らのうちの誰かが名乗りはじめた呼び名なのか、それとも誰か、酔狂な手合いによって名付けられた名前なのか、その由来を知る者はおそらくいない。
「ダイアモンドは、ミネラルウォーターのように無色で透明な味がする。でも、角砂糖みたいな甘さもあるんだ」
嬉しげに解説する臨也さんは、見た目も話しぶりも僕とそんなに変わりない。典型的な日本人の容姿をしている。でも、過分に美麗な顔貌《がんぼう》が、天使としての彼を克明に描写している。どこにでもいそうな顔なのに、どこにもいないほどの美形。折原臨也をひとことで言い表すと、そのような結論に行き着くのだった。
「ところで相談ってなに?」
前置きなく、臨也さんが切り出す。
とたん、僕の肩がびくりと震えた。強い鼓動が鳴る。喉が急に渇き出した。
そうなのだ。僕は臨也さんに相談をしに来たのだった。
森閑とした室内に、空調の音がやたら響く。胃の腑の底にまで鳴り渡るようなその音量に、僕は口を思わず、閉ざす。
「黙っていてもわからないよ。言いづらいのだったら、シズちゃんにはないしょにしといてあげるから」
「シズちゃん」とは、僕の育ての親の別称だ。ちなみに、その名を用いるのは臨也さんしかいない。呼び名ひとつで関係を推し量るのは邪推の極みかもしれないけれど、僕は少しだけ、臨也さんに嫉妬していた。
僕は育ての親のことを「静雄さん」と呼んでいるけれど、ほかにもその名で彼を呼ぶひとはいる。友人の正臣だって、いつもは「平和島さん」と名字で呼ぶのに、たまに、「静雄さん」と呼んだりする。静雄さんの仕事場の上司のトムさんも、「静雄」と呼んでいる。なのに、臨也さんだけは「シズちゃん」と呼ぶ。
静雄さん当人は、「シズちゃん」なんてかわいいあだ名で呼ばれるのを嫌っているのだけれど、あえて黙殺している。だから、臨也さんは遠慮せずに今日も自分専用の別称を使う。
羨ましい、と思った。僕の及ばない、特別な位置に臨也さんはいるのだと思った。もっとも静雄さんは臨也さんの存在自体をおおいに嫌っているので、仲良くするつもりは全然なさそうなんだけれど、僕は臨也さんを警戒していた。自分に真似の出来ないことをやすやすとやってのける臨也さんが、妬ましくてたまらなかったのだ。
宝石を食べ終わると、臨也さんが「ご覧」と木棚を指さした。
「あの宝石も、いま俺が食べた宝石も、かつては人間の魂だったんだよ。死んだ人間の魂を結晶化させて保存しているんだ。いつでも食べられるようにね。俺たち幻想種は一般の人間が食べるような食事も食べるんだけれど、それじゃ効率が悪いんだよね。だからヒトの魂を保存して、必要なときに取り出して、食べるんだ。でないと栄養失調になるからね」
君の育ての親もそうやって、他人の魂を食べてきたんだよ。そう言って、「ごめん、こういう話は苦手かな?」と問うてきた。
僕は首を振った。自分から話を振っておいて、いまさら謝られても有難くない。
「静雄さんが魂を食べている現場を見たことはあります。確か僕が七歳のときに、一度だけ。でも、静雄さんを嫌いにはなれませんよ」
「それは、『親』への恩義って奴かい?」
「愛情ですよ。あなたにはけっして手に入れられないものです」
冷たく言い放ち、そして、正面から睨み据える。
挑発されても臨也さんは動じない。むしろ、笑みを濃くして、「君のその強さ、実に好ましいね」と褒めてきた。そして、「俺ね、強い子を踏みにじるのが好きなんだよ。そして俺なしじゃいられなくするのが好きなんだ」と物騒な告白をする。
「やはり、このひとは危険だ」と、僕は警戒する。でも、逃げ出すわけにはいかない。育ての親にも、友人にも打ち明けられない秘密でも、このひとには相談出来ると踏んだからだ。ほどよく知り合いで、ほどよく他人という関係は、このひととしか築いていない。だから、どんなに警戒したとしても、結局はこのひとのもとに戻るしかなくなる。
「で、相談っていうのは?」
臨也さんが話を切り替える。爛々と輝くふたつの目玉が、縮こまるようにして座る僕の姿をひたと捉える。「見る者すべてを石化させる瞳を持った怪物が、確か、ギリシャ神話にいたな」と考える。いま、僕はまさに臨也さんの瞳によって石化させられそうな心持になっている。気圧されながら、僕は語り出す。窓から忍び入る夜風の冷たさに、戸惑いを覚えながら。
僕の育ての親こと平和島静雄さんは、悪魔の末裔だ。
人間たちの世界に同調することを選んだ幻想種のなかには、能力が薄れていってしまうものもいるそうだけれど、静雄さんの能力はまるで衰えていない。ナイフの刃を折るほどに硬い皮膚、金属バットのように強靭な拳、疲労をまったく感じない肉体――要するに、静雄さんの身体能力は、常人とはまったく異なっているのだった。
怒りで我を失くしたときなど、手近にある標識を引っこ抜いてしまって、それを武器に悪辣な有象無象を撃退したりする。その代わりといってはなんだが、幻想種の多くに備わっていた飛行能力は、残らず消え失せてしまったそうだ。壁伝いに上方へ移動することは出来るけれど、足場がないとさすがに叶わないらしい。
そんな静雄さんが自室で宝石を食べている光景を、僕は一度だけ見た。
今日のようによく冷えた日、ちょっとした好奇心が働いて、静雄さんの部屋のドアに手をかけたのだ。
静雄さんは基本的に優しい。そして、僕に甘い。仮にも養父なのだから、もっと厳しく接してくれてもいいのになあと思わせられるぐらい、甘い。
ふだんは借金の取り立て屋の仕事をしているけれど、授業参観には必ず駆けつけてくる。運動会にも顔を出す。夏休みの宿題を手伝ってくれる。それに、ことあるごとに頭を撫でてくる。いっしょにベッドで寝てくれる。「七歳にもなって育て親といっしょに寝るのはどうか」などという迷いは、かかえていなかった。静雄さんに甘えることが自分の仕事だと思っていたぐらいなのだから。
その静雄さんが、ソファに座って、光るものを食べていた。その輝きにはなじみがなかったので、そのときは、なにを食べていたのか見当がつかなかった。ただ、テーブルのうえにも、光る、きれいな塊がたくさん置かれていて、その美しさに目を奪われた。部屋に入らず、かといって、ドアを閉めることもせず、僕は眼前で起こっている不思議な光景をじっと見つめた。
ただ物心がついた頃に、「俺は人間じゃねえ。化け物なんだ。悪魔なんだ」と言っていたので、それが関係するのかと推理した。堂々と入室して、本人に確認を取ればなにか進展したかもしれないが、僕は黙って見入るばかりだった。
彼が食べていたものが宝石だと知ったのは、つい先刻、臨也さんの部屋に足を踏み入れてからだ。記憶のなかの輝きと木棚を彩る輝きの色が、見事に一致したのだった。
……話を戻そう。
「折原臨也には関わるな」と口を酸っぱくして言う静雄さんだったけれど、彼が他人を非難することなど早々なかった。電車内や街中でひとに迷惑をかける輩などは激しく嫌っていたそうだけれど、ごくふつうの一般市民に対しては、彼はひどく穏やかな態度で応じるのだった。
僕の友人のなかには、静雄さんの噂を聞きつけていて、家に遊びに来るときなど緊張した面持ちを浮かべてたりする子がいたけれど、そんな子に静雄さんは飲み物やお菓子を与えたりした。
噂とまったく違う一面を見せつけられ、友人は唖然としていた。
けれど、噂というのは実に頑固なもので、そうかんたんに彼らが意見を変えたりしてくれることはなかった。それでも、僕だけは静雄さんのひととなりを知っていて、彼に全幅の信頼を寄せていたんだけれど。
静雄さんが口にしていたものについて、一切追及しなかった。あれがなんなのか尋ねてしまったら、ふたりの関係にひびが入りそうな気がする。そんな予感が胸を占めたからだ。
日々は穏当に過ぎていった。身長が伸び、おおきくなって、さすがにいっしょにベッドで寝ることはなくなったけれど、僕は静雄さんのことがやっぱり好きだった。
長じるにつれて、ひとつ、新しい変化があった。静雄さんが酔っぱらう現場に、たびたび遭遇するようになったのだ。
静雄さんは、かつて、自室でだけ飲酒していた。廊下ですれ違う際、酒の匂いを嗅いだことがあったが、居間で飲んでいるところを見てはいなかったので、そう判断がついた。
たぶん、小学生の目の前で酔っぱらうことに抵抗を感じていたんだと思う。静雄さんというひとは、極限まで己を律するひとだから。
ただ、僕が中学生になると目の前で酒に酔って、僕に、「帝人ぉ、お前、俺のこと好きか?」と尋ねてくるようになった。「ええ、好きですよ」とごく当たり前の返事をしたら、「それは、俺の言う『好き』と同じか?」としつこく畳みかけてきた。「愛情にレベル差なんてないだろう」と考えていた僕は、「ええ、きっと同じですよ」といつも答えていた。すると、安心したように笑って、「すげえ嬉しい」と言い、静雄さんは眠りにつくのだった。
そんな彼に、ブランケットをかけてやるのが、中学からの新たな習慣になった。僕はその習慣をひそかに楽しみにしていた。ふだんは強い静雄さんが、僕のまえでだけ甘えてくれる。それが嬉しかったのだ。ふだんは支えられてばかりいるけれど、このときだけは、静雄さんに恩を返せているような気がして、とても嬉しかった。
瞬く間に季節は過ぎ去り、僕は高校生になった。これまでのイベントの例と同様、静雄さんは入学式に駆けつけてきた。身長百八十センチ超の、金髪の美形が保護者席に座っていたので、女子などはすごく騒いで、終始落ち着いていなかった。でも注がれる熱い視線などものともせず、静雄さんは僕だけを見ていた。
そういえば、彼は中学の卒業式、保護者席で泣いていた。聞けば、「ちいさかったお前がこんなにでっかくなったのかと思ったら、感動して涙が出て来たんだよ」という返事が返ってきた。静雄さんは、やはり、僕にすごく甘かった。
そんなふうに、僕と静雄さんの毎日はとても平和で幸せなものだったんだけれど、そこに少々、亀裂が入った。
高校に入学してから半年以上が過ぎた晩秋の日のとある夜、その事件が起こった。
ネットに夢中になり過ぎてなかなか寝付けなかった僕は、水を飲みにキッチンに行った。しばらくそこで眠る練習をしたけれど、やっぱり寝付けなくて、諦めて部屋に戻ろうとした。
夜中という時間帯だったので、とにかく物音を立てぬよう、注意しながら進んだ。そしたら、どこからか、ひとのうめくような、気味の悪い声が聞こえてきた。よくよく耳を澄ますと、その響きは、とある一点から聞こえているのだと気付く。静雄さんの部屋だった。
僕は緊張した。手足が竦んで動けなくなった。昔、輝く物体を口にしていた静雄さんを見たとき、ショックを受けたんだけれど、日常にうまく紛れ、動揺を隠すことに成功した。
でも、今度はなにもかもがうまくいかなくなる予感がした。「開かずの扉」を開いたが最後、戻れないところに行ってしまう予感がした。
胸中を脅かす疑念の渦に支配され、僕は立ち尽くした。また水が飲みたいと思ったけれど、一歩も歩けなかった。足は、魔法をかけられたように硬直していた。
しかし、音の出所が気になる。静雄さんがなかでなにをしているのか、気になる。音楽でもかけているのだろうか。でも、こんな夜中に音楽をかけるのはおかしいと思った。ひとに気を遣う彼のことだ、そんな暴挙に出るはずがない。
唾を飲み込み、拳を作って勇気を鼓すと、硬直が緩んだ。音を立てぬよう慎重に歩みを進めて、ドアに手をかける。開いたら戻れなくなる。募る予感が恐怖を呼び起こしたけれど、ここまできたら後には退けない。思いきって、数センチの隙間を作る。そして、僕は見てしまった。
ベッドに腰かけた静雄さんの口から漏れている声が、音の正体だった。それはまだいい。問題は静雄さんが行っている行為だ。彼は自慰をしていたのだった。スウェットから黒々とした亀頭を覗かせ、手で擦り立て、そしてなんと、僕の名前を呟いたのだ。
立派な性器だった。「あんなのを入れられたら、女のひとはよがり狂ってしまうだろうな」と思わせるような、恐ろしいほど猛々しい性器だった。もし僕が女の子だったら、あんなの入れられたら失神すると思う。先端から滲む液体がいやらしいぬめりを帯びていて、息がつい、浅くなった。「見てはいけない」と本能的に悟ったけれど、でも、目を逸らすことが出来なかった。自分以外の性器を見て、僕はあきらかに興奮していた。男でなく、女の子に対して興奮するのが正しい男の性の在り方だというのに。
静雄さんが呟く。
「帝人……好きだ……」
好き、という言葉で思い出した。泥酔したとき、静雄さんが僕によく、「お前、俺のこと好きか? お前の言う『好き』は俺と同じ意味なのか?」としつこく尋ねてきたけれど、あれはもしかして、恋愛の意味での「好き」かと尋ねていたのではあるまいか。だとしたら、僕って奴は、なんという思い違いをしていたのだろう。
僕は、あくまで家族として、静雄さんに好意を寄せていた。でも、静雄さんは僕に欲情していて、しかも自分で性器を擦りながら、僕に「好きだ」と言っていて――、ああ、なんだかわからなくなる。思考回路が壊れてしまう。
僕は黙ってドアを閉めると、自分の部屋に向かって歩き出した。胸がどきどき高鳴っていて、まるで体中が心臓になったみたいに心音がうるさかった。
その夜、僕は夢精をした。
朝、目覚めると、下着に濃い染みがへばりついていた。夜中、静雄さんが自慰している現場を目撃したあと、僕は彼に犯される夢を見たのだった。それが引き金になって、夢精したんだと思う。女の子を犯すのでなく男に犯される夢を見て、しかも強姦される夢を見て、僕の体は気持ちよくなってしまったのだった。
早い話、僕は静雄さんにイかされたのだ。夢のなかで――かぎりなく現実に近い、リアルな夢のなかで。
それからというもの、僕はほぼ毎日、夢のなかで静雄さんに犯されるようになった。言葉でなぶりながら、あるいは道具を用いながら、彼は僕を「女」にしていく。前にはいっさい触れられず、後ろのみでイかされたこともある。
夢のなかで毎日、彼は僕を調教していった。夢のなかで、僕は彼の従順な奴隷だった。
朝になって食卓につくときなど、もう恥ずかしくて目を合わせられない。ご飯をよそうふりして、とにかく視線を逸らす。すると、静雄さんが目敏く異変を察知して、
「なにか、隠し事してるんじゃねえのか」
と言ってくる。「そんなことありませんよ」と無理やり笑顔を作って、僕はごまかす。でも、内心、その作業に疲れていたりする。
夢のなかで毎度毎度犯されているけれど、現実世界では、僕らの関係は親と子だ。義理とはいえども、一線を越えられる仲ではない。義理の関係であるからこそ、モラルを飛び越えるわけにはいかない。
高校生の息子を持っているわりに外見が若い静雄さんは、たびたび、他の保護者の注目の的になる。ここで、義理の息子と結ばれたりなんかしたら、PTAが黙っていないだろう。
いくら愛が自由とはいえ、さしあたって制限を設けないと、たちまち周囲の反感を買ってしまう。情欲が容認されるのは、恋人と夫婦の仲のみだ。非日常に憧れているけれど、それでも常識を捨てられない。非日常を生きる度量も手はずも、まだ整っていないのだから。
でも、静雄さんは僕に「好きだ」と言ったのだ。昂ぶる自身を慰めながら僕の名を呼び、「好きだ」と告げたのだ。その事実が僕を戸惑わせる。一線を越えてはいけないのに、「この危ういバランスが少しでも崩れたら」と思うと、怖くてなにも言えなくなる。結ばれてはいけない禁断の関係なのに、もし静雄さんに強引に攻められたら、どうしたらいいんだろう。
夢のなかで、毎日、僕は義理の父親に犯されている。何度も絶頂に導かれ、夢のなかで彼の精液を毎日、浴びている。僕の体は汚れていないのに、こころは精液で汚されている。そのうち夢が現実世界にまで食い込んで、ほんとうに僕を精液まみれにしてしまうのではないかと考えてしまった。
そしたら、怖くなった。
すごく浅はかな考えかもしれないが、現実世界で静雄さん以外の他人の精液を浴びないと、駄目だと思うようになった。こころに巣食う静雄さんの精液を落とすのは、現実世界で浴びる誰かの精液なのではないか。そのような強迫観念が生まれ、しだいに僕の、穏やかな日々を圧迫するようになった。
以前と変わらぬよう、静雄さんに接することに疲れていた。だから、強迫観念はよけいに加速してしまったのだった。
人知れぬ苦悩にどっぷり浸かった日々のさなか、僕は臨也さんと出会った。そして、「夢で浴びた静雄さんの精液を忘れるために、臨也さんに抱かれよう」と決意した。夜風が忍び入る部屋から出ないのも、そういう理由だ。
つまり、「相談事」というのは、自分を抱いてくれないかという頼み事だった。
ただし、臨也さんにはなんのメリットもない。噂を聞くところによると、彼は男にも女にももてるらしいし、遊ぶ相手にはまったく不自由していないらしい。僕みたいな凡庸な高校生など、相手にしてもらえるだろうか?
しかし、臨也さんは二つ返事で承諾するのだった。
「一度、君と一対一で話してみたいと思っていたからね」
宝石を食べる合間に、臨也さんが語る。不気味なほど静まりかえった室内に、細かい咀嚼音が響く。
「だって、俺もシズちゃんも君が生まれるまえから、君のことを知っていたから」
「え」と、僕は目を丸くして問いかえした。
くぐもった笑い声が上がる。照明の光が歪んだかのように見えたけれど、それはもちろん、錯覚だ。
「天使と悪魔には、人間の未来を見通す力があるんだよ。世代交代をさんざん繰り返してきた俺らにも、ちゃんと備わってる力さ。生まれるまえから、人間の運命がわかっちゃうんだよね。だから、俺たちは君の誕生を、君が生まれるまえから待機していた。君の魂の色は、とてもきれいだったから、興味を持っちゃったんだよ。それをシズちゃんが阻止しようとしてさ、君を俺から奪い取ったんだ。ああ、思い出すだけで憎たらしい」
「でも、僕は……ちいさい頃に両親を事故で亡くして、遠縁にあたるという静雄さんに引き取られたんですよ」
「ちょっとかわいそうだけれど、君の両親はもともと事故死する運命にあった。それは、俺たちにはどうすることも出来なかった。運命を変える力を持つのは、かなり上級の幻想種だけだからね、俺とシズちゃんの力をもってしても、救えなかった。ヒトの運命を変える力は上位の幻想種――たとえば、惑星や宇宙を生み出した創造の神ぐらいしか、持ってないだろうね。そういう存在は、俺らの世界では、「至高神(しこうしん)」と呼ばれているんだけど、まあどうでもいい話だよ」
「で、シズちゃんが君の親の遠縁っていうのは」と臨也さんが話題を変える。
「あれは完璧な作り話だよ。幻想種にはヒトの記憶を歪ませたりする力があるから、おおかた、それを使って君の親に『親類』だと信じこませたんだろうさ。目的は君と接点を持ったり、孤児になった君を保護するためだろうね。でもシズちゃんは考え方がかなり人間に近いから、まだ子どもだった君に手をかけたりできなかったと思うよ。同居開始してしばらくは、『親』として君と付き合っていた。だけど、君がおおきくなってから、君の魂の色の美しさを思い出して、君に恋心をいだくようになった。そして、煩悩を抑えきれなくなった。俺の予想はこんなところだけれど、当たってる自信はあるよ」
僕は臨也さんの言葉に聞き入る。彼の放つ言葉は、催眠術のように胸にすんなり入ってくる。引きずり込まれてはいけない、警戒しないといけない。そう考えているのに、つい、油断を誘われる。
「もともと、俺とシズちゃんは同じひとりの神だった。さっき話した至高神っているだろ。そのうちのひとりが、俺とシズちゃんの原型だったんだ。だけど、その神のなかで、善なる魂と悪しき魂が競い合うようになって、そして、やがてそれらは真っ二つに分裂した。善なる魂は天使たる俺、折原臨也として。悪しき魂は悪魔たるシズちゃんとして。だけど進化を繰り返すうちに、俺はどんどん邪悪に染まって、シズちゃんはどんどん純粋になっていった。立場がまったく逆転してしまったんだよ」
まあ、つまり、俺とシズちゃんはもとが一体だったから、お互いの考えていることが読めちゃうんだよね。
その言葉を聞かされたとき、僕はなぜか、臨也さんが羨ましくなった。静雄さんが僕にしてくれたさまざまなこころづかいを忘れて、ただ、臨也さんに嫉妬した。幻想種じゃない我が身を呪った。
僕は彼らのように長命でないし、彼らのように「非日常」を超越した力も持ってないし、ましてや、静雄さんの考えていることなんて、これっぽっちも読めないのだ。静雄さんの傍にいるのは、僕の役目だと信じていたのに、その座を脅かす存在がいる。その事実を認めたくなかった。
「大丈夫だよ、帝人くん。そんな怖い顔しなくていいよ。いくら半身といっても、シズちゃんはシズちゃん、俺は俺だ。それぞれが完全に独立した人格なんだよ。だから心配しなくていいんだ。もっとも、シズちゃんも俺も君を愛してるって点では同じなんだけれど、まあ、もとはひとつの神なのだから、好みがいっしょになっても仕方ないだろうね」
「……どうして僕なんですか」
気がつくと、僕は、「どうして僕なんですか」と繰り返していた。
「だって、僕、冴えない高校生だし、平凡だし、女の子が好きだし、男と付き合う趣味なんてないし……。生まれるまえから愛される資格なんてないですよ」
「いや、あるよ」
そして、臨也さんが立ち上がって、僕の傍に寄ってきた。なにをするのかと見守っていたら、胸に手を置かれた。布越しでも体温の冷たさが感じ取れる。
それに身を固くしていたところ、なんと、手が胸に入ってきた。誇張ではない。ほんとうに、手が、胸のなかに侵入してきたのだ。かといって、傷口が開いたわけではない。傷を作ることなく、手だけ、胸に入ってきたのだった。
臨也さんがなかをしばし、まさぐる。痛くはなかった。少しだけ、くすぐったいとは思ったけれど。
そして臨也さんが、ちいさな、石ころぐらいの塊を取り出した。青い結晶だった。
「ラピスラズリ……。海のように深い青みを帯びた宝石だよ。これが君の魂の正体」
塊を口に運んで、臨也さんがかじりつく。すると、僕のからだがずきんと痛んだ。
「ごめんごめん」と臨也さんが笑いながら、謝ってくる。
「これ、君の魂のかけらだからさ。魂の持ち主が生きているうちに食べると、本体に痛みが伝わるらしいんだよね。ちょうど宝石を通して、君が俺に食べられるという寸法なのさ。痛い思いをさせてごめんね」
「……謝るぐらいなら、最初からしないでください」
「ごめんごめん」とやはり、臨也さんは笑う。絶対、悪いと思っていない。噂どおり、性悪な性格だ。
「だって、ねえ。シズちゃんは君の魂をまだ食べてないんだろうなと思ったら、なんか先越したくなっちゃってきて……。独占欲の強いおとなでごめんね?」
僕は顔を背け、「知りません」と呟く。独占欲だかなんだか知らないけれど、ほぼ初対面の相手に苦痛を与えるなんて、このひと、そうとうのサドだ。じゃあ、ということは、このひとともとは一体であったという静雄さんも、そうとうな加虐癖を秘めているのだろうか。それはちょっと想像がつかないが。
「移動しようか」と促されて着いた先は、洗面所だった。陶器製の真白い洗面ボールと、曇りひとつない化粧鏡が在る、なんの変哲もない洗面所だ。そこで僕は「脱いで」と命令され、一瞬、返答に窮する。
「どうしたの、脱がないとどうしようもないよ」
てっきり、臨也さんに脱がされるのだと予想していたから、おおいにたじろいだ。
見ると、臨也さんは、上機嫌な猫みたいににやついている。屈辱にひれ伏す僕に、楽しみを見出しているようすだ。なんて悪趣味な。このひとは、ほんとうに底意地が悪い。ねえ、脱いで。甘えるような声音で命じてくるから、なおさらたちが悪い。
「このまま帰られてもいいんだけどさ。でもそしたら、また君、シズちゃんに強姦される夢見るよ、きっと」
そう。静雄さんに抱かれる夢――血のつながらぬ育て親と交わる夢が、就寝後にまたやってくるはずなのだ。臨也さんという小憎らしい男性に抱かれるのは、なかなか癪だけれど、このまま帰宅したら、また夢のなかで強姦されてしまう。結ばれてはいけない関係なのに、また、夢のなかで通じ合ってしまう。
僕は決意した。スラックスに手をかけ、引き下ろす。「下から脱ぐなんて大胆だね」なんて、お定まりの揶揄は聞き流して、今度はシャツを脱ぐ。そして、下着一枚になる。足許に散らばる衣類を、洗面所の片隅に置かれている脱衣籠に入れ、臨也さんに向き直る。
「下着も脱がないとね」
視線を交錯させ、臨也さんが命令する。冷たい声だった。顔は笑っていたが、声は笑っていなかった。逆らう者に罰を下すことを厭わない、冷淡な声だった。
下着に手をかける。少しずらすと外気が侵入してきて、僕の肌を冷やした。暖房はついているけれど、なんだか、ひどく寒い。そのことを口にのぼらせると、臨也さんは、「セックスしているうちに温まってくるよ」とそっけなく答えた。「愚問をいちいち述べないでくれる?」と言いたげな表情だった。それでも、にやついた笑みを崩してはいなかったけれど。
思いきって下着をずらし、そのまま一気に引き下ろす。ペニスが頼りなく揺れて、どうしようもなく恥ずかしかったが、僕は前を隠さなかった。なんでもないふりをして、下着を脱衣かごに入れて、真正面から臨也さんを見る。
おそらく、臨也さんの目的は、僕に羞恥を与えることにあるのだ。だから、負けるわけにはいかなかった。
好きでもなんでもない相手に抱かれる屈辱を強制され、泣き寝入りするなんて実に愚かしい。逃げるのでなく挑まなければならない。逃げたら、ますますこのひとの思うつぼだ。
臨也さんが僕の足許にひざまずく。まるで騎士が主人に施すような、敬虔なしぐさだった。生温い舌を伸ばして、内腿を舐める。余すところなく、乾いた皮膚を舐める。ミルクを舐める猫みたいに、しつこく舐める。呼気が股間をかすめてきて思わず焦ったが、それでも臨也さんは素知らぬ素振りで、内腿の征服にいそしむ。
「男の肌なんて、舐めておいしいんですか」
言うと、臨也さんは、「君の肌なら一日じゅう舐めていたいね」と答えた。
「君の魂はすごくおいしいけれど、からだも最高だね。君のまえだと、女なんか霞んで見える」
「褒められても嬉しくありませんよ」
投げやりな調子で応じると、臨也さんはそれになにも答えず、また舐める作業に没頭するのだった。
献身的な奉仕──というのだろうか。内腿を舐め終え、唾液まみれの肌を放置して、しこる乳首を口中に含んだときも、臨也さんは僕を、お姫様みたいにていねいに扱ってきた。
「もっとひどくされると思ってたでしょ」と臨也さんが言う。
「そんなこと出来ないよ。だって君が生まれるまえから、俺、君のことが好きだったんだから。いままではシズちゃんのガードがひどかったから、なかなか割り込めなかったけど……。でも、君のほうから俺のところに来てくれたんだもの。たっぷり愛してあげるよ」
まったく、このひとはなんでこんなに喋るんだろう。セックスのときぐらい黙っててほしい。「帝人くんの乳首はきれいなピンク色だね。思ったとおりだ」なんて、実況しないでほしい。
口に含んだ乳首を強く吸われて、僕はうめいた。「ごめんごめん」と笑いながら臨也さんは謝り、「優しくしなくちゃね」と乳首をそっと舐めてきた。器用に先端だけかすめられ、「あ、」と僕は女の子みたいな声を上げてしまった。一瞬、意識が消去されてしまったような気がして、慌てて顔を正す。「感じたんだよね」と臨也さんが指摘する。「いいえ、感じてなんかいません」と僕は言い逃れをする。
しかしさきほどは、ほんとうに感じてしまったのだった。臨也さんの舌が乳首の先端をかすめたとたん、あられもない声が飛び出してしまった。感じた声を止めることが出来なかった。感じてない演技なんか、とても無理だった。
これからこのひとのまえで乱れてしまうんだ。考えると緊張がとどろいてきた。
「そんなにからだ、硬くしないでいいよ。いま気持ちよくしてあげるから」
やっぱり、男の感じるところと言ったらここだよね。
言って、臨也さんが僕のペニスに手を伸ばしてきた。柔らかく掴まれ、優しく扱き出され、僕はたちまち乱れてしまった。はじめて他人の手に触れられたけれど、自慰とはまた違った快感だった。根元を揉む。くびれをなぞる。先端を、集中して擦る。その一連の動作に目がくらんで、ただもう、よがるしかなかった。
無自覚に息が乱れる。下半身から響いてくる快楽の連続に我慢を忘れ、口を開く。嬌声のみがこぼれ、洗面所という生活感あふれた空間を、淫靡な閉所に変える。
今日、出会ったばかりの他人に性器を擦り上げられている。背徳感で胸やけがしそうだ。僕には静雄さんがいるのに、……夢のなかで彼と何度も交わったのに、僕は静雄さんを裏切っている。静雄さんの精液の匂いから逃れるために、ほかの男の精液を浴びようとしている。
嬌声を垂れ流しにしていると、臨也さんの手の動きが速くなった。好きなように追い立てられ、被虐の悦びに打ち震える。透明な粘液が僕のペニスと臨也さんの手を汚していく。ぬかるんだ感触が羞恥を苛む。恥ずかしいのに、乱れてはいけないのに――、感じてしまう。息はすっかり上がっている。深呼吸など出来る状態じゃない。
「あ、………ああ……、」
臨也さんの手に導かれる格好で、僕は射精した。崩れ落ちたくなるからだを、洗面台で支える。臨也さんの助けを借りるなんて、冗談じゃない。
「無理しなくてもいいんだよ。床に座ってもいいんだから」
申し出を無視で突っぱねる。年上で、手淫が巧みで、口もうまい男に向ける、せめてもの意地だった。「このひととは対等でいたい」となぜか思った。
「鏡のほうに向いてくれる?」
言われて、命令に従う。頬を上気させた自分の姿が視界に飛び込んできて、思わず目を閉じる。そのあいだに、臨也さんが真後ろで動く。
目を開けると、洗顔剤を取り出して、中身を指につけている臨也さんの映像が見えた。
「足、ちょっと開いてみて」
場違いなほど明るい声音で誘導され、僕はまたも従う。ここまで来たら、中止させられないとよく理解していたからだ。
僕には逃げ出せない事情がある。静雄さんに抱かれる夢を断ち切るために、ここで臨也さんに抱かれなければいけない。
「口を軽く開けていて。からだの力は抜いていたほうがいいよ」
それから、後ろになにかを塗り込められた。
一本の指が僕の奥まで入ってくる。挿入は、わりと容易だった。さきほどの洗顔剤が手助けをしているのだろう。
ネットを徘徊していうちに、男同士の恋愛話を取り扱ったサイトに行き着き、そこで情報を得ていたので、こういう行為をされるのはあらかじめ心得ていた。「男が男を受け入れるなんて、すごく屈辱的なんだろうな」とサイトをくまなくまわりながら、僕は思ったのだけれど、現実は予想をはるかに超えていた。
男の手でイかされて、男の手で後ろを乱される。叶うならば、いま、この場で自害したかった。
指が二本入ってくる。何度も何度も抉るようになかを行き来して、それはやがて三本に増やされる。女の陰部の代用として後ろを使われる屈辱が、身を蝕む。僕は男に凌辱されている。出会って間もない、年上の男に凌辱されている。
「あ………」
つい、嬌声が漏れた。肉体の奥のとある一点を突かれた際、なにか得体の知れない快感が背筋を駆け抜けたのだ。
「ちょっと、待ってください」と静止を頼んだが、臨也さんは聞き入れずに、その一点を集中的に攻めはじめた。僕を取り巻く空気が、一気に張り詰めたのがわかった。
不用意に漏れた喘ぎで気を良くしたらしく、臨也さんが笑い声をこぼす。僕がこんなに焦っているのに、臨也さんときたら余裕綽々のていだ。なんとなく腹が立つ。でも、いまはそれどころじゃない。
「ああ、……あ、そこは、そこは、やめて……」
本気で懇願する僕を無視して、臨也さんはさらに指を潜らせる。直腸のなかを擦って、前立腺をとにかく狙う。すでに勃ち上がっていた性器から、また滴がこぼれる。太股まで濡れてしまう。
しばらく蹂躙を楽しんだのち、臨也さんは唐突に指を抜いてきた。
ひと息つき、洗面台に寄りかかる。鏡に映る自分を見る余裕がない。
と、下肢を割り開かれた。
息を飲む。
「じっとしてて」と囁かれるのとほぼ同時に、屹立が――僕の自尊心をおおいに傷つける濡れた物体が、入ってくる。
敏感な部分を突く容赦ない動きに、僕はただ嬌声を上げて、堪えた。強い忍耐が必要だった。自尊心を守るためにも、男としての自意識を保つためにも。
固く閉ざされた蕾をこじ開ける屹立に、酩酊感を覚える。まずはからだになじませるように、臨也さんはじっとしていたが、そのうち動き出した。腰の深浅をじょうずに利用し、僕から自尊心と自意識の芽を摘み取っていく。さきほど内部に塗られた洗顔剤の助けを借りたのか、挿入は思ったほど困難ではなかった。
腰が、深く、入ってくる。前立腺を――僕の秘められた弱点を確実に突いてくる。狙われると、前に響いて、ペニスが力を持ってしまう。それを臨也さんの手が取る。そして、巧みな手淫で快楽を操作する。男と交わるセックスは背徳の味がする。
「やだ、やめて……」
「駄目だよ。ここまで来たら、やるしかないじゃない」
傾ぐからだを支えられず、僕は泣きじゃくる。なぜ泣いてしまうのか、自分でも説明がつかない。垂れ落ちる粘液が太股に伝わる。
ふと、目線が鏡に映る自分にいく。顔があきらかに歪んでいる。それをまのあたりにして、慌てて目を逸らすが、火照り出した肌まではごまかせない。腰が進むたびに、引くたびに、喘いで乱れて、まるで駄々をこねる子どもみたいに泣いた。痛みがあるから泣くのではなく、失うもののおおきさに怯え、泣いたのだ。
僕はもう、純真ではなくなった。僕はもう、子どもではいられなくなった。僕は汚れた。僕は汚された。夢のなかでも、現実世界においても。ひとりの男に夢で愛され、ひとりの男に現実で愛された。そして、僕は誰のことも愛せずにいる。愛の束縛を恐れる卑怯な人間に成り下がっている。
臨也さんの性器に捕らわれても、僕は逃げ回るすべを探していた。からだの深いところで接触し、いちばんひとには見せていけない顔を晒してしまったというのに、逃げることばかり考えていた。
愛から逃げた罰だと思った。罪名は「無知」、もしくは「無自覚」といったところか。
鈍感であるがゆえに、静雄さんを傷つけた。それは、きっと許されざる罪だ。そして、今度は臨也さんを弄んでいる。
ふたりの男に愛され、そのどちらの手も取れずに、ただ自己の保身だけを願っている。僕は、ひどく、醜い。
「大丈夫だよ、もしシズちゃんが来ても、俺は君を守るよ」
その言葉で意識が揺らいだ。臨也さんは、「俺とシズちゃんはもとが一体だったから、お互いの考えていることが読めちゃうんだよね」と語っていた。ということは、静雄さんが臨也さんの意識を読んで、この場所を探し当てるのではあるまいか。僕と臨也さんがセックスしている現場を取り押さえるのではあるまいか。
「そんな馬鹿な」とすぐさま思考を打ち消すが、頭から去ってくれない。それをごまかすために、僕は喘ぎに没頭する。壊れたこころを修復する手段を見つけられぬまま、夜の底に棲む魔物に誘惑され、身を滅ぼしつつ快楽の奴隷へと変身する。「青臭い粘液の匂いを嗅ぐたびに、罪の名前を思い出すのだ」という予感に苛まれながら。
と、外で、家鳴りのようなおおきな音がしたと思った。
僕はからだを竦める。
「大丈夫だよ、なにがあっても俺は君を守るから」
好き勝手に貫きながら、臨也さんが僕を抱く。余裕がないのか、鏡に映る顔は真剣だ。
それでも家鳴りみたいな音が聞こえたような気がするのは、僕の気のせいだろうか。
臨也さんの性器が、僕の前立腺を強く突く。決定的な一撃を加えられ、僕は悲鳴する。前からは多量の精液が漏れ、後ろは後ろで臨也さんのものを締めつける。遅れて臨也さんが、僕のなかで射精を果たす。体液をくまなく注がれる感触が、恥じらうこころを貶める。
ふと、扉が震えたような気がした。
「大丈夫だよ、俺が守るよ」
後ろから、臨也さんが抱きしめてくる。どこにも行くあてがない僕は、ただされるがまま、彼の抱擁を受ける。
扉が震える。気のせいなんかじゃなく、扉が振動している。
窓から忍び入る風が強まったのだろうか。それと、誰かが外で扉を叩いているのだろうか。どちらの可能性も否定したまま、僕は臨也さんに抱かれる。つながったからだをほどかずに、そのまま一体となって、臨也さんに抱かれる。静雄さんとはまた違った意味での、「半身」として。不完全な夢を完全な現実にするために、僕たちはひとつになる。
体液で濡れた内部を思いながら、目を閉じた。闇はどこまでも優しかった。自責の念を忘却させる優しさが、闇の主成分だった。
扉は震えを止めない。臨也さんとつながったまま、僕は意識を投げ出し、今後のことをいっさい忘れた。そして、完全な沈黙と空白が夜闇を塗り固めた。
僕は喘ぐ。どこにも行けない絶望に抱きすくめられたまま、背後から抱きしめてくる神の御使いを振りほどくことすらしないで、ひとり夜の底に取り残されて、ひとり孤絶の闇に埋もれて。残酷な快楽につながれたまま、逃げることも出来ず、ただ黙して立ち尽くして、そして、夜に棲む魔物の一部となる。
扉が再び、振動する。繁く高鳴る扉の向こう、どよみが強度を増して、また沈黙と空白が空気に溶け込んでいく。
罪名は、「無知」と「無自覚」――愛ゆえの堕落。
すべては幼さゆえの自業自得だ。あざといまでの幼さが、僕らの均衡を崩していったのだ。
降り積もる残響の重さに、僕は口を閉ざした。
「罪」という名の非情な鞭が、僕の身を激しく打ち据えた。
【了】