男ふたりで暮らすにしてはあまりにも広いマンションのリビングにて、日向は、壁際に設置された大型テレビをじっと見つめていた。
深夜零時という時間ゆえ、多少眠気に飲まれつつある。その自覚ならば、おおいに胸に感じている。
けれど、録画で済ませるつもりには到底なれなかった。だって、零時ちょうどから放映される某スポーツ番組に、いとしき恋人が出演するのだから──。
お目当ては、司会を務める若い女性タレント──ではなく、ゲストとして番組に招かれたひとりの青年であった。
名は、宮侑。
日本を代表する男子バレー選手である。
見た目も中身も選手としての実力も申し分ない彼は、とにかくもてる。女性にもてる。
だから心配なのだ。「侑さんを誘惑する女がいたら、おれ、どうしたらいいんだろう」って、毎度のことながら不安になる。
侑の出演する番組をすべてチェックするのだって、彼を誘惑する女性がいないか、彼にあからさまな好意を示す者がいないか、この目で確認するためであった。
「おーい、翔陽くん」
ふかふかのカウチソファの上、膝を折りたたみながら、画面を見つめる。女性タレントからの質問に、侑は気前のいい笑顔を寄越している。
私服姿ですら男前な侑に対し、なにげない怒りを覚えた。いつもいつでもかっこいいから、女のひとからの人気がちっとも落ちないんだ。
「なあなあ、翔陽くんってば」
後ろのほうから親しみのこもった声がしたが、あえて無視を通した。
両目も意識も、テレビの中の女性タレントと侑に集中させているのだ──返事なんてできるわけないだろう?
「翔陽くん、」
聞こえぬふりを実行した──はずだった。
なのに、頭に生えたふたつの耳はゆらりと動き、律儀にも反応を示してしまう。
「あ、いま、猫耳がぴくっと動いたわあ。ほんまかわいいなあ、俺の翔陽くんは」
そうなのだ。
日向は、純粋なヒトでなく、「人間と外見が酷似している哺乳類」こと「猫」なのである。
この星に棲まう猫は、全員、生まれた当初はごくふつうの人間として生を受ける。外見も能力も趣味嗜好も、ごくごくふつうの人間に過ぎない。
しかし成長するにしたがって、段々と頭から猫耳が生えてきたり、尻からふさふさのしっぽが伸びてきたりするのだ。「猫」として覚醒してしまった者は、皆《みな》。
そして、やがては言動までもが「猫」そのものになってしまうのである。
ゆえに時の権力者たちは、猫という種《しゅ》を異常なまでに警戒し、敵視し、白眼視《はくがんし》した。「人類よりもはるかに運動能力にすぐれている猫の存在は、いずれ人間社会そのものをおびやかすであろう」と、権力を握る連中の多くが判断した。
だから、──猫になった者はたいてい、すみやかに家を出て、ひとけのない山や廃屋の奥、雑居ビルの空き部屋に身をひそめ、今日消えるやもしれぬ命を明日へと必死に繋いでいた。
猫になった者を取り巻く世界は、本来ならば、とてつもなく過酷なものなのである。
パチ、と軽い電子音が鳴ったのと同時に、テレビの電源が切れた。画面の中央に映っていた宮侑の姿が、たちどころに消える。
「わざわざテレビなんか見なくてええやんか。翔陽くんの恋人なら、すぐ近くにおるんやから……」
日向はびくりと震え上がった。
隣に腰を下ろした侑が、鍛え上げられた上半身を隠すことなくさらしていたから、心に焦りを感じたのである。
もっともパジャマの下穿《したば》きはきちんと着ているのであるが、年齢のわりにうぶで性知識の疎い日向にとっては──、いささか刺激が強すぎた。
「いちいち、目ぇそらさんくてもええやん。……それとも、俺があまりにも男前やから、こっち見てくれへんの?」
ふるふると首を振る。
けれど、実際のところ、侑の指摘は当たっていた。
入浴を済ませたばかりの侑からは、とにかくいいにおいがする。厚みのある胸板やがっしりしたたくましい腰など、肌の至るところから、花のような蜜《みつ》のようなとびっきりいい香りを絶えず漂わせているのだ。
好きなひとのにおいをすぐ傍で感じて欲情せぬ者など、この世にはおそらくいないであろう。
日向は侑の「猫」だ。
しかし、飼い猫であるのは確かだけれど、──実は彼の恋人でもあった。日夜、愛し合い、求め合い、欲と欲、肌と肌とをぶつけ合う仲にあったのだ。
「侑さん、いいにおいがする……」
なにも着ておらぬ上半身に擦《す》り寄り、鎖骨のあたりの薄い皮膚をそっと甘噛みする。マーキングをする犬のようにしつこく、しつこく、ゆるやかに噛み続ける。
「くすぐったいわ」
言って、侑が日向の右頬に軽いキスを落としてきた。すべらかな皮膚を撫でるような、豊潤《ほうじゅん》なぬくもりを教えるような、とてつもなく厳かで柔らかなキスである。
「侑さん、ごめんなさい……」
「おん?」
日向の肩を両腕で抱いたまま、侑が一声《ひとこえ》、言葉を発する。
遮光カーテンがしっかり閉ざされた窓の向こうより、けたたましいクラクションが一度だけ響いた。
数秒が経過する。
しばらくの間、響きの余韻を残したのち、音は完全に消え去った。
けれども、日向はクラクションが発生したときと同様、侑の胸に強く、頭を擦りつけていた。突然の音が、冷静な判断力とトレードマークの明るい笑顔を同時に奪い去ったのである。
「ご、ごめんなさい……。おれ、あの音聴くと、どうしても思い出しちゃうんです……」
荒れた声で言い訳を述べる。
──と、侑がまるで「気にしてへんで」と伝えるかのごとく、日向の髪を手櫛《てぐし》でそっとくしけずった。
「翔陽くんの友達だった猫、たしか、……車にひかれて死んだんだってなあ……」
猫耳をぴくぴく震わせる日向の頭をあたたかな懐に抱き込みながら、侑は言う。
「俺はその猫さんとは一度も会ったことがあらへんけど、でも……、翔陽くんは優しいから、いっぱい泣いて、悲しんで、傷ついたと簡単に想像がつくわ」
「……」
筋肉のとぼしい細い背中を、硬く骨張った手がすべり降りる。そのたしかなぬくもりを感じるだけで、体が濡れた。心は潤った。魂が侑ただひとりだけを求め、おおいに疼いた。
いまや、胸に隠れた欲望のすべてが、「宮侑」というひとりの男に集中している。
「侑さん、」
「なんや」
「……好きです」
すると、侑はやはり日向の肩をしっかり抱きとめながら、
「明日、俺の命日になるかもしれんわ」
と笑い飛ばした。
「翔陽くんにいっぱい欲しがられるなんて、まるで夢のようや。いまの台詞を思い返すだけで、天国に行けそうな気がするわ」
「……おれ、本心をそのまま口にしただけなんですけど、」
「ええんや、それで。翔陽くんが、俺のことをちゃんと求めてて、心の底から欲しがって、ずっと傍にいてくれさえすれば、俺の人生全部報われるんやからな。俺かて、四六時中《しろくじちゅう》、翔陽くんに触れたいって思っているんやし……」
「信じていいんですか? その言葉」日向が言う。
すると、侑は嬉しげに破顔し、
「ええよ。ずっと信じてええよ」
と告げた。
本来ならば、人間と猫は交わってはいけないことになっている。
各国政府は、人類よりもずっとすぐれた運動能力を持つ「猫」を警戒し、これを管理せんとしている。時には、猫専用の処刑室に追い込み、殺処分を実施することだってある。
けれど、猫たる日向がいまだ生きていられるのは、侑の「飼い猫」として役所に登録されているためだ。よほど重大な事件事故を起こさぬかぎり、猫と飼い主の双方が合意に至れば、晴れて猫は「飼い猫」になれるのである。
飼い猫になれば、来るかもしれぬ来ないかもしれぬ「明日」を想像して、おびえる必要がない。
愛されぬ孤独を感じて、心乱れる心配もない。
「翔陽くん」
「はい?」
無音の広い部屋の中で、愛するひとに肩ごと抱かれながら、日向は次にかけられるであろう言葉を待った。
けれど、侑はなにも言わない。言おうともしない。
ただ、すこぶるかたちのよい口を苦しげな表情で開閉しては、こちらを仰ぎ見る日向をまっすぐ見下ろしている。
「……侑さん?」
なにげなく名を呼んだところ、一度、強い力で抱きしめられた。身にあふれる独占欲を隠そうともしない、実に力強い抱擁であった。
「ど、どうしたんですかっ」
しかし、侑はなにも答えない。ただ、飢えに飢えた野獣のように、腕の中に収めた細い肢体をしっかりと抱きしめている。
深夜零時を過ぎた室内に、音はない。
テレビもラジオもついていないし、音楽だってかけてはいない。
耳をなぶるは、耳朶《じだ》をくすぐる侑の熱い吐息のみである。
腕の動きを封じるような熱烈な抱擁に翻弄されつつ、相手の出方をうかがっていたところ、
「……ごめんな。翔陽くん」
幾分落ち着きを取り戻した声音で、侑が言った。
「俺な、翔陽くんを誰にも渡したくあらへんねん。好きだから翔陽くんを独占したいし、好きだからいっぱい笑わせたいし、好きだからいっぱい泣かせたいし、好きだからいっぱい気持ちよくしてやりたいんや」
日向は、「はい」と相づちを打った。思わぬ告白をじかに耳にしたせいか、明るい声で返事をしてしまう。
「幸せだ」とはずむ胸の中で思った。何度も思った。
侑さんは、俺のことを好きでいてくれる。
一途に愛してくれている。
それがわかっただけでも、充分だった。
最高に優しい飼い主にめぐりあえただけでもすごく悦べるのに、その侑からたくさん愛されるだなんて──、まことに幸せだった。
生きることに。
ふたりで手を携えてともに生きていくことに、素晴らしき希望を感じた。とめどない幸福を肌で感じた。
野良猫をやっていた当時は、人間に対し、強い敵意を持っていた。
仲間の猫を殺害した連中に、報復だってした。
侑に出逢う以前の日向は、目に映る「人間」を片っ端から憎んでいた。
人間を根絶やしにするためなら、殺し合いにだって喜んで参加するほどだったのだ……。
なのに、侑に引き取られてからというもの、かつての自分の在り方をすっかり忘れてしまった。
人間を目のかたきにすることも、彼らを憎むこともまったくなくなった。心身ともに傷だらけだった日向を侑が根気よく愛してくれたから、日向は、人間への憎悪を捨て去った。暴力的な感情の一切を捨てた。
「愛情」という崇高な感情をさんざん教え込まれた結果、飼い主たる侑と心を通わせ、彼の帰りを健気にも待ちつづける存在へと生まれ変わった。
日向はもう、かわいそうな野良猫でなく、幸せいっぱいな飼い猫に成り代わったのである。侑の献身と努力によって──。
「侑さん、」
腕を広げ、手を伸ばし、ほどよく引き締まった相手の胸へと頭ごと擦りつける。
「翔陽くん……」
あたたかくも品良いてのひらで、がしがしと頭を撫でられる。
ただそれだけのなにげないやりとりなのに、胸の中がこころよい感動でいっぱいになる。
悲しい過去も、辛い想いも、先刻女性タレントに向けた嫉妬心もどうでもよくなる。
侑さんを愛するおれがいて、おれを愛する侑さんがここにいる。
それでいい。
男同士の恋愛に未来などなくてもいい。
不確定な未来なんて怖くもない。来るなら来い。
二人で必ず、幸せな明日を切り開いてみせるから。
手に手を携え、愛を分かち合ってみせるから。
「好きです」と呟いた。
「俺もやで」と言われた。
これ以上の幸福など、果たしてどこにあるだろう?
愛し愛される恵みを知ったいまの日向に、恐れるものなどなにもない。
悲しみに満ちた過去すら、恐怖と後悔の対象にはならない。
ただひとりの運命の相手と心と心を通わせるこの瞬間、あるいは一刹那《ひとせつな》こそが、生きる勇気と希望を与えてくれる。
そう、何度でも与えてくれる。
おそらくは死を迎えるそのときまで、ずっと。
──永遠に、ずっと。
【了】