恋(神聖にして不可侵なるもの)

立派な偉容《いよう》を誇る王城の主寝室にて、日向は及川の寝顔をじっと眺めやった。
別段、不平をかこつつもりはない。魔族の長たる及川に拾われて愛育されてきたが、不満に思う点などまったくなかった。むしろ、血のつながりのない自分に愛情を注いでくれた「彼」に、敬意の念すら覚えていた。
でもどうしてだろう。この頃やたら、心が騒ぐのだ。
「殺せ」「魔王を殺せ」「お前は及川を殺すために生まれてきたんだ」
──男のものとも女のものとも老人のものともつかぬ、たくさんの声が津波のように胸に押し寄せてくる。
「違う。おれはこのひとを愛するために生まれてきたんだ」と抗っても、「声」の奔流は止められない。惑う日向を執拗に絡め取っては、「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」と焚きつけてくる──。
「チビちゃん……?」
ゆっくりと及川がまぶたを上げる。紅玉色《こうぎょくいろ》の美しい瞳が、おびえる日向の目を柔く射貫く。
「どうしたの? すごい汗だね」
及川が腕を伸ばし、荒い息をつく日向の体をするりと抱きしめた。自分のものとはまるで違う、少しだけひんやりとした感触に触れると、総身からわずかに力が抜けた。
「起きて。体拭いてあげる」
甘い声で及川が言う。
言動だけ読めば、さほどヒトとは変わらぬだろう。
けれど、彼の頭には雄牛のような角が二本、堂々と生えている。それが彼の出自を表すなによりの証であった。
炎をけしかけ、水を操り、氷の矢を次々放ち、土で防御壁をこさえ、風の刃で標的を切り刻む──ありとあらゆる自然を統べる魔力を、及川は持っている。四大精霊すべてを従えるほどに強大な力が、この男には備わっているのだ。
閑話休題。
王城の最上階で共寝《ともね》をしていたふたりは、お互いに全裸であった。男同士だが、衣服の隔てなく眠る仲に在ったのである。
「怖い夢を見たんです」
夜の寝室に、日向の細い声が響く。いつもの自分らしくない、非常に弱々しい声である。
「怖い夢ってなに?」
流れる汗を丁寧にぬぐってやりながら、及川が問う。
日向は言った──多少、ためらいを見せたそのあとで。
「なんかよく知らねえひとたちの『声』が言うんです。『及川さんを殺せ』って」
「……」
及川は手を止めずに、日向の体を清める。
「それで、声を聞くうちに思い出しちまったんです。……おれが勇者で、及川さんを殺すためだけに生まれてきた存在だってこと……」
それ以上会話を続けることができず、日向は頑なに押し黙った。
この十数年間、及川は、身寄りのない日向に惜しみない愛情を注いでくれた。美貌を誇る女に言い寄られても、楚々《そそ》たる女性に告白されても、及川は日向の傍を離れなかった。見捨てなかった。
「だって俺が他の女とくっついたら、チビちゃんがひとりになるじゃない」
そう言っては、喜んで日向の世話をしてくれた。
日向は両親の顔を知らない。どのようないきさつで離ればなれになってしまったのか、家族はどんな顔をしていたのか──それすら知らない。生まれ育った故郷に関する情報すら、まったくもって知らない。
けれど、それでもいいと思っていた。
この城には及川がいる。彼の腹心たる黒尾や潔子もいる。皆、皆、思いやりに満ちた態度で接してくれる。
むろん、「どうして皆には角があるのか」とか、「どうして自分にだけ角がないのか」とかいう疑問は在ったけれど、それは些末《さまつ》な問題に過ぎなかった。
顔も知らない生みの親より、慣れ親しんだ育ての親のほうが、ずっと大事だ──少なくとも日向個人にとっては、の話だが。
でも、運命は果てなく残酷だ。
夢を介した「お告げ」により、日向はすべてを悟ってしまったのだから──自分は養父たる及川を殺すべき存在なのだ、と……。
好きなのに。
愛したひとなのに。
でも、「種族の違い」という強固な壁がふたりの前に立ちはだかるかぎり、添い遂げられはしないのだ。
苦しみに圧《お》され、しばし黙り込む。
すると、及川が薄暗がりの中でもそうとわかるほど、優しい笑みを浮かべた。
「種族の違いだなんて、いまさら関係ないと思うよ」
日向はあとじさった。
「またおれの頭の中を読んだんですね……?」
「うん、読んだ。……なに、いつものことじゃない。気にすることはないよ」
彼自身が告げたように、及川はよく日向の思考を読む。これも、「魔王」たる彼の能力の一部である。
及川の魔力は絶大だ。聞けば、一瞬で大陸全土を破壊することさえできるらしい。幻想種《げんそうしゅ》の中でもっとも強い種・ドラゴンすら自在に呼び出せるらしい。しまいには、やろうと思えば、この世の終末を具現することさえできるらしい──。
「……記憶が戻ったんだね」どことなく切なげな表情で、及川が言った。
「いままで記憶を封じていたんだけど、そうも行かなくなったか……」
「封印って……。おれ、いままで、偽の記憶を与えられていたんですか?」
静かな声で問うと、及川が、「そういうことになるね」と曖昧に笑った。
「チビちゃんの家系はもともと勇者の一族だったんだ。……勇者ってわかる? 魔王を滅ぼすために造られた改造人間たちのことを指すんだよ。
お母さんのお腹の中にいるときに魔力を移植されたり、能力を植え付けられたりして、そうして生まれてきたのが君なんだ」
「……じゃあ、おれ、純粋な人間じゃないんですか? おれは、誰かの手によって造られた人間なんですか?」
「……」
及川は渋い顔をしている。
「この世には戦士もいるし、魔術師もいる。聖職者もいる。でもふつうの人間はね、肉体改造も精神改造も受けないんだ。人為的に改造され、生まれてくるのは──勇者だけなんだよ」
「でも、どうしてそんなこと……」
「魔王と互角に渡り合うためさ」
冷徹な口調を間近で耳にし、日向はびくりと身をすくませた。
それをどう解釈したのだろう。及川が元どおり、優しい笑みを浮かべる。
「ねえ、チビちゃん。君はいま、自身に課せられた任務を思い出した。『魔王を──俺を倒す』という使命を思い出した。それでも……、『俺のことを殺したい』って思ってる?
育ての親たる俺のことを殺す覚悟はできたの?」
「……できるわけがねえ」
両腕のもたらす温かなぬくもりに包まれながら、日向はちいさく呟いた。
「おれ、ずっと及川さんのことだけが好きだった! 及川さんと結ばれる未来しか考えていなかった! だから、及川さんを殺すなんてそんなこと……、」
──やがて嗚咽が漏れ出した。
日向にとって、及川はただの「家族」などではなかった。体を重ね、ベッドの上で幾度も愛し合い、唇を許してきた──彼は、この世でただひとりの「運命のひと」だった。「恋人」だった。
「家族なのに恋仲になるなんて汚らわしい」と、ひとは言うかもしれない。「侮蔑されて当然だ」と、日向自身ですら考えている。
けれど、──それでも及川のことが大事だった。彼が何者でも──この世を滅ぼす絶対悪だったとしても、それでも大事だった。
大窓を通して射し込んでくる月光が、及川の美しいおもてを照らす。その端正な顔立ちを言葉なく見守りながら、日向は及川の体を抱きしめ返した。
病めるときも健やかなるときも、常にいっしょだった。この城の中でただひとり角を持たぬ日向を嘲笑する者など、この場にはいなかった。
だから好きなのだ。及川のことも、黒尾のことも、潔子のことも。及川に仕える重臣や騎士たちのことも、皆。
「刷り込み現象」と言えば、それまでなのかもしれない。けれど、もう、呼び名などどうでもよかった。
「魔王」と「勇者」という立場の違いこそあれど、ふたりは愛し合っている。
それに、日向はこの城のことをとても気に入っている。いまさら人間たちの元に帰るつもりなど、あるはずがない。
こんなに心地よい場所をみずから手放す愚など、犯したくはない……。
──と。
頬に、唇が触れた。きわめて優しく穏やかなくちづけであった。
及川の唇が余韻を残しつつ、ゆっくりと離れる。とたん、あれほど胸中を騒がせていた「声」が、一気に音量をなくした。
「これで『声』に悩まされなくなったはずだよ。違う?」
日向は首を縦に振った。
「聞こえなくなりました! ……すげえや、及川さん! こんなこともできるんですね」
「封印魔法は得意だからね。こう見えても」
そしてふたり、ベッドの上で固く抱き合いながら、くすくすと笑いをこぼす。
勇者の血なんて関係ない。魔王の力も関係ない。この優しい空間で意味をなすのは、互いの愛情それだけだ。
「もしも君が使命に目覚めて俺を殺そうとしても、俺はまた、君に恋をするよ」
日向の体をいっそう抱き込みながら、及川が耳許でささやいた。
「そんなことしませんよ。使命なんかより、世界の運命なんかより、おれ、及川さんのほうがずっと大事なんだから」
背に腕を回しながら、日向は答える。

窓の外には鮮やかな月がのぼっている。
「永遠の夜の国」こと魔王の国は、何者の侵略をも受けず、静かな平和を保っている。

【了】