はじめての恋人は、日本にいたときにかつて付き合ったことのあるひとだった。そのひととは、敵対者同士という立場上、おおっぴらに交際できなかったけれど、おれはそれでも幸せだった。
「ずっと傍にいてほしい」と願っていた。
我ながら子どもっぽい、無邪気な願い事だとは百も承知だったわけだけれど、それでもいい、ずっと傍にいてほしかった。
──けれど、そのひとは、ある日を境にいなくなった。
「もう連絡してこないで」というそっけないメールを残して、おれの元から去ってしまったんだ。
共通の知人である影山や岩泉さんを通して話をしようとしたけれど、それは無駄なあがきにしか過ぎなかった。
あれだけ、毎日いっしょにいたのに。
あれだけ、いっしょに笑い合っていたのに。
あのひとはおれを置き去りにして、どこかに消えてしまった。
だから、おれはリオでそのひとに再会したとき、とても驚いた。「もう二度と逢えない」と勝手に思い込んでいたから……。
「……チビちゃん、」
呼ばれておれは、はっと我に返った。
目の前には、「そのひと」こと大王様──もとい、及川さんがいる。
おれたちは及川さんが滞在している高級ホテルの一室で、向かい合うようにして座っていた。それもキングサイズのベッドの上で、だ。
「いまからヤるっていうのに、すごい余裕だね」
彼があきれるのも、もっともだと思う。
再会後はじめて肌を重ねるというのに、おれときたら、及川さんの目の前で過去に意識を飛ばしていたのだから。
「俺とするの、気が進まない?」
返事をしようとしたところ、及川さんは続けざまに、
「……そりゃそうだよね。俺、一度お前のこと捨てたからね……」
と呟いた。驚くほど澄んだ優しい目をして、そう告げたんだ。
「捨てた」という一言が、肩に心に重くのしかかってきた。「ああ、やっぱり捨てられたんだ」といまさらながら悲しい実感が湧いてきて、俺は深く沈黙した。
「……どうして」
静けさが室内をくまなく満たすなか、俺はようやく口を開いた。
「どうして俺を捨てたんですか」
「ああ、こんなこと言いたくもないのに」と胸のうちで嘆いた。「及川さんを責めるような言葉なんて、ひとつも口にしたくないのに」とも思った。
けれど、一度あふれた言葉は止まらない。涙だって止まらない。
「なんで俺を捨てたんですか。あんなに好き合っていたのに、どうして俺の元から去ったんですか。俺はずっと、及川さんのことが好きだったのに……。ずっとずっと、及川さんといっしょにいたかったのに」
及川さんの部屋は、外の喧噪とはまったく無縁だった。空調の作動音すら、静寂を乱さない程度の音量で響きつづけている。
互いの息遣いが聞こえそうな距離で、かつての恋人と向かい合っている。ベッドの上で、いまから肌を重ねようとしている。
そのシチュエーションを思うと、皮膚の下が奇妙な興奮ではじけそうになった。怖いぐらいの悦びと切なさが同時に胸に押し寄せてきて、惑う俺の心を波のように激しくさらっていったんだ。
「──知りたい?」及川さんが真剣な表情で尋ねてくる。「本当のこと、知りたい?」
一度だけうなずいた。
みずからの意思を教えるように、深く。……深く。
「俺は及川さんの恋人でした。そして、いまも及川さんのことが大好きだからこそ、知りたいんです。ほんとのことを」
一言一句、自分自身に言い聞かせるようにして、声にあらわす。
目の前にいるかつての恋人は、変わらず真剣な表情で俺を見つめている。
まったく不思議なやりとりだった。
いまから事を始めるというのに、いったいなんで、「別れた理由」なんて聞き出そうとしているのだろう。そんなことを尋ねたところで、このひとの心が、俺から離れていったことに変わりはないのに。
一度開いた心の距離が元通りになることなんて、万にひとつもないというのに。
けれど、──また、このひとに触れられるのは嬉しい。ベッドに誘われたことも嬉しい。たとえひとときの戯れだとわかっていても、気分は果てなく高揚する。
「別れてもいまだに好きなんだ」と思い知らされた。
俺はまだ──、このひとのことが、好きだ。
「教えてあげるね、本当のこと」及川さんが静かな声で言った。
「あのままだと、チビちゃんが俺に溺れて駄目になると思ったから、別れを告げたんだよ」
──反応を忘れた。
及川さんが発したその言葉は、俺の理解力を軽く越えていたから。「俺のことを疎んじるあまり、別れを決意したのではない」と知らされたから……。
「……俺のことが嫌いになったんじゃないんですか」
「まさか」及川さんがくすりと笑う。
「むしろ逆だよ。俺はね、お前のことが好きで好きでたまらなかった。ずっと、お前の傍にいたかった。でもそんなことをしたら、お前はきっと駄目になる。選手として中途半端な存在になってしまう。だから、俺はお前から離れたんだ。だって、あの頃の俺はお前の敵だったからね……」
ああ、このひともまた、俺とおなじ懸念を抱いていたのか。
「敵対者同士」というリスクを前に、強いおびえを感じていたのか……。
「俺は青城の主将だったしさ。──俺といっしょにいることはおそらく、お前にとってあまりいい影響を及ぼさないだろうと考えたんだ。だから……」
「俺の元から去っていったんですね?」
確認する。
すると、及川さんは困ったようにちいさく微笑んだ。
「俺はそれでも良かったんです。及川さんだけ傍にいてくれれば、他にはなんにもいらなかった」
思いの丈を当人にぶつける。嗚咽まじりの声で、三年分の感情を、愛情を及川さんに伝える。
「俺はそれでも、及川さんの傍にずっといたかったんです。選手として駄目になってもかまわないから、及川さんといっしょにいたかったんです……」
「ごめんね」及川さんが言った。「結果として、お前に嫌な思いをさせてしまったね」
俺はかぶりを振った。
謝ってなんか、してほしくなかった。だって、及川さんの言い分も少しだけだけど理解できたから。「選手としての俺の未来」を願うからこそ別れを告げた──その理由に納得を覚えたから。
「実際のところ、お前とはもう連絡を取らないつもりだったよ」泣きじゃくる俺の肩をそっと抱きながら、及川さんが耳許でささやいた。
「……でも、再び出逢ってしまったね……」
温かでたくましい腕に、──懐かしい体温を宿した腕にすがりつきながら、俺は言った。
「俺と再会したの、嫌でしたか……?」
「そんなことはないよ」
「本当に……?」
「うん。……誓ってもいい」
「じゃあ、もう二度と離れないでください。ずっと俺の傍にいてください……」
「ははっ。泣いていても、お前って奴は男前だね。及川さんが言いたかったことを先取りしちゃうんだから」
「だって……」
ぐすぐすと涙をこぼす俺の頬に、及川さんがキスをひとつ落とす。そしてよく通る甘い声で、──心をぬくめるような深みのある声で、
「わかった。お前の傍にずっといてやるよ。……もう二度と離れたりなんかしないから、安心しな」
と告げた。
恋しいひとに触れられたがゆえに、素肌が微熱にさらされる。その儚くも尊い感覚に身を委ねながら、俺は及川さんの広い胸に涙だらけの顔をうずめた。
「お前とならどこまででも行けそうだ。……天国へも地獄へも、ね」
ぬくもりと慈しみをたっぷり含んだ声をすぐ傍で聴いて、泣いた。まるで赤子のように無心に。素直に。
静寂に満ちたその部屋は、夜の訪れを前にいっそう静けさを深めつつある。
【了】