気持ちいい目に遭わせてあげる

別れ話を切り出しても受け入れられなかった場合、いったいどうしたらいいんだろう。

昼休み、弁当を食べながら、日向はそのような相談を持ちかけた。
授業から解放されるこのひととき、室内にいる誰もが明るく騒いでいる。ゆえに日向の呟き声を耳にし、とがめる者はここにはいなかった。
「うーん。そうだねー……」
思案顔で相談を受けているのは、谷地仁花──小柄でかわいらしい面差しをした同級生である。
「相手、青城の及川さんだったよね?」
「ああ」
「たしかに別れたくもなるのかもしれないね。日向と及川さんって、一応敵同士だし……」
「……」
そう。
日向の恋人は、味方チームでなく、ライバル校の主将なのだ。
だから、この恋が部員らにばれたとき、説教された。叱られた。非難もされた。
……でも最終的には、「プライベートな話なのだから仕方がないだろう」という澤村の一言によって、事態は収束したのだけれど。
しかし、問題はその後も起こった。
「青城ってさ、月曜休みだろ? ……だから及川さんに会いに行こうとするんだけど、そのとき、部の皆が一斉に邪魔するんだ……」
菅原から、「坂ノ下でなんかおごってやるよ」と誘われたり。
影山から、「自主練に付き合え」と命じられたり。
月島から、「へえ、彼氏に逢いに行くんだ……。公式戦が近いのに」と小言を言われたり。
山口から、「日向も物好きだよなー。ツッキーのほうが、絶対大事にしてくれると思うのに」と嫌味を言われたり。
──と、こういうふうに、様々なかたちで邪魔が入るのだ。それはもう、怒濤とも呼べる勢いで。
部長の澤村が静観を決め込んでいるため、表立った混乱はまだ発生していない。東峰や西谷や田中などなど、応援してくれるひとたちもいる。
けれどどうせなら、皆から祝福される恋がしたい。だから、電話口で「別れたい」と告げたのに──。
「でも駄目だった。及川さん、『チビちゃんを手放したくない』と言って、どうしても取り合ってくれないんだ。おれはすぐにでも別れたいのに……」
「嫌いになったの?」
突然疑問を突きつけられ、日向は「え」と声を上げた。
「だから……。日向は、及川さんのことが嫌いになっちゃったの?」
ふんわりした笑みが、谷地の愛らしいおもてを満々《まんまん》と満たしている。
「かわいい」と純粋に思った。けれど、それは劣情に根ざした感情ではない。たとえるならば、「妹」や「身内」を愛でるような、無垢な愛情に近かった。
「おれ……、まだ及川さんのことを嫌いには、」
「なってない……」と、小声で続けた。つい声量がしぼんでしまったのは、後ろめたさを感じたためである。
初夏の日射しが、窓の外から燦々《さんさん》と降り注いでくる。
室内はやはり騒がしい。
「授業中だったら絶対眠ってるな」と、どうでもいいことを思いながら、日向は語った。
「おれ、及川さんのことが好きなんだ。すごく好きなんだ。……でもこのままじゃ、部の皆にも、及川さんにも迷惑かけそうで怖いんだ」
なにか楽しい話題で盛り上がっているのだろう。隣席に座っている集団が、ぎゃはは、と笑い声を上げた。
しかし、いまの日向には笑うほどの気力がない。まさか、はじめての恋愛がこんなに難儀なものだったとは、想像さえしていなかったから。
「その気持ち、わからなくはないよ」寂しげな声で、谷地が言葉を差し挟む。
「でもね。付き合っているひとから、いきなり電話口で別れ話を切り出された及川さんの気持ちも、考えてあげたら……?」
顔を上げる。
目の前の谷地は、いつになく真剣なまなざしを浮かべている。ふだんの頼りない面影は、まったく見受けられない。実に頼もしい表情である。
「これは私の意見なんだけど、直接会って話したほうがいいと思うよ。そのほうが後腐れもないと思う。及川さんってかなりもてるらしいから、別れ話もスマートに受け入れてくれると、私は思うんだ。
だから……、会わなきゃ駄目だよ。怖くても辛くても、会わなきゃ駄目。じゃないと、及川さんも日向もきっと後悔するだろうから」
「……」

小鳥の鳴き声がどこからか聞こえる。
高まる喧噪にそっと割り込むように、その声は響いた。

昼休みはまだ、終わらない。

「……というわけで、別れ話をしに来ました」
曜日は月曜。時刻は午後の八時ほど。
及川に指定されたファストフード店のカウンター席で、日向はそう告げた。声がちいさくなったのは、気まずさゆえのことである。
「……」
及川はなにも言わない。感情を殺したような、異常なまでに冷たい目をして、左隣に座る日向を見つめている。
駅前という立地条件のせいだろう。店内には、学生や会社員などの姿が多く見受けられた。そして、女性客の多くは、容姿のすぐれた及川に好意的な視線を寄越している。
「あのひと、かっこよくない?」
「……あの制服着てるってことは青城生かな? 頭いいんだー」
ひそひそ声が、いろんなところで響き出す。
女性たちの視線を感じるたびに、日向は叫びそうになった。「おれの及川さんを取らないで」と。「このひとはおれのなんだから」と。
でも本日をもって、「彼の傍にいられる」という特権を手放さないといけない。初恋に別れを告げないといけない。
好きだから、及川のことを自由にしたい。
好きだから、烏野高男子バレー部の部員らから、及川のことを守りたい。
いま願っているのはそれだけだ。
嫌われても憎まれてもいいから、及川を守りたいのだ。「ライバル同士の恋」という苦しい状況から。
それはおそらく、自分自身の勝手な希望であり、願望でもあるのだけれど。
「俺のこと、嫌いになったの?」
変わらず、冷たいまなざしで及川が問うてくる。口調もどこかしらとげとげしい。
「違う、」と、とっさに答えそうになった。「大好きなんです、本当は」と言いそうになった。
でも、本音は殺した。胸の奥のそのまた奥にしまい込んでは、
「……はい……」
と震え声で返事する。
「本当に別れたい?」
こくりとうなずく。すると、及川が一言、
「俺を見て」
と威厳のこもった声つきで命じてきた。
おそるおそる、体を横に向ける。そして、その動作を終えた瞬間、日向は目を見開いた。
間近で見て、はじめて気がついた。及川の瞳がかすかに潤んでいることに。凍てついたまなざしの中に刻まれた彼の真意に──。
「チビちゃんは悲しくないの?」今度は、優しい表情で問われた。
「俺は寂しいよ。君から離れたくない。これからもずっと、傍にいたい。だから君のことを大事にしてきたのに……、それでも駄目なの?」
「……」
言えない。別れ話を切り出した理由なんて、言えるはずがない。
「好きだけど別れたい」なんてわがままを言ったら、ますますこのひとを傷つけてしまう。
「チビちゃん」名前を呼ばれた。
「……どうせ、バレー部の連中に別れるよう命令されたんでしょう」
一瞬、息が詰まった。
「どうしてそれを」と言いたいが、うまくかたちにならない。
及川がさらに、表情をやわらげる。強さも弱さも勇ましさも脆さもまとめて包み込むような、きわめて穏やかな顔をして、次なる言葉を告げる。
「烏野の連中に言われたんだ。『うちの部員を惑わすようなことはやめてくれ』って……。主に、君の先輩方にね、そう言われた」
まさか、そんなやりとりを陰でしていただなんて。
日向はすごくうろたえた。すでに先輩たちが先手を打っていたなんて、考えてもいなかったから。
「でも、俺も本気だったから、『絶対に別れない』って言い返したんだけどね。だって君は、俺の大事な恋人なんだから……」
「……」
「大好きだよ、チビちゃん。だからもう、なにも言わずに、俺の傍にいて。ライバル同士の恋愛なんて辛いだけだろうけど、俺が支えるから……。だからずっと、俺だけを見ていて」
視線と視線を絡ませる。優しげにたわむ瞳を目の当たりにして、あらためて、
「このひとが好きだ」
と思った。
「及川さんはどうなんですか?」
「どうって……?」
「おれみたいに、他の部員からクレームが来たりしていませんか……?」
「ああ、それか」
すると、及川がにこりと笑った。
「反対は特にされなかったけど、あきれられたね。『ライバル校の部員に、しかも男に手を出すなんて、やばいんじゃねえのか』とか言われたよ。
でも、俺の場合、岩ちゃんが説得してくれたみたいでさ。それからなにも言われなくなった」
「……もしかして、岩泉さん、俺たちのことを応援してくれてるんですか?」
「うん。岩ちゃんは、いつでも俺の味方だからね。『ずっとお前のことを見てきたけど、はじめて本気の恋をしてるなって思った。だから応援せざるを得ないんだよ』って言ってくれてる」
日向はそっぽを向いた。そして、「いいなあ……」と呟く。
「どうしたの?」
問う声に応じ、目線を戻した。
「岩泉さんは、及川さんのことならなんでも知っていそうだから……。俺なんかが太刀打ちできる存在じゃないような気がするから……」
「嫉妬してくれてるの?」
「そんなことは……」
「妬いてくれてるんだ」及川が嬉しそうに笑う。
「安心して。岩ちゃんはあくまで、俺の戦友だからね。……恋愛関係にはならないよ。それに俺が好きなのは、チビちゃんだけなんだからね」
「……」
「それとも、信じてもらえるように頑張るしかないのかな」
その言葉を受け、顔を上げたところ、
「……、」
突然、体を引き寄せられ、頬にキスを受けた。
触れられた箇所すべてが熱を帯びる。特に右頬が──くちづけられた場所が、熱い。
「こういうことできるの、もう君しかいないんだけど……。まだ信じてくれないのなら、もっとすごいことをここでしちゃうよ」
「だ、駄目です! 皆が見てる……!」
「関係ないよ。そんなこと、俺にとってはどうでもいいことなんだから」
言って、及川がさらにキスを与えてきた。今度は、左頬に唇が押し当てられた。
「だ、駄目ですって……」
「じゃあ、信じてくれる? 俺のこと」
「は、はい」
「もう、『別れる』とか言ったりしない?」
「……はい」
すると、及川が──格別に清らかな笑みを浮かべた。神々しいまでに綺麗な笑顔に面して、日向はひとり、頬を火照らせる。
気づけば、周囲の女性客がきゃあきゃあわめいていたけれど、もはやそんなのどうだっていい。
外野の反応よりも、目の前の恋人のほうがずっと大事だ。
「チビちゃん。このあと、俺の家においで。親御さんには俺から連絡しとくから」
「え……」
「だって、ねえ。
一方的に別れを切り出された俺の身にもなってみてよ。この数日間、すごく憂鬱だったんだから」
それから、ふふ、と息のみで笑って、彼は言った。
「だから、今夜はゆっくりじっくりお仕置きするよ。二度と俺から離れられないように、気持ちいい目に遭わせてあげる」
眼前に座る恋人の美しさに目を奪われながら、日向はこれから始まるであろう素敵な一夜について、想像をめぐらせた。
「お仕置き」の内容なんてよくわからないけれど、だけど、──心がなぜかときめいてしまう。
今夜一晩、及川をひとりじめにできるなんて、なんだかとてもいい気分だ。
「もう二度と、別れ話とか持ち出さないでね。……でないと本当に、ここでひどいことをしてしまうかも」
「……はい」
うなずいて、そして、まぶたを伏せる。

どうしようか。
疼く気持ちが止まらない。

【了】